第11話 人が死の際で見るもの
レッテルを貼られたほうが、ある意味に於いては、貼った方も・貼られた本人も、楽なのです。
自分で幾つもの仮面を作れば自分を見失うが、周囲の人間が勝手に自分にレッテルを貼って安心・楽しむのは、かえって自分の為になることもある。彼らの自分に抱く虚像を知ることで、自分の中で心の位相が豊かになるのですから。
ここのところを、高野悦子さんはその若さ故にか、鋭利すぎるが為にか気がつかなかった。 (高野悦子さんの時代に女性の大学日本拳法はありませんでしたが) 彼女は大学日本拳法でボコボコに殴られるような経験をしていなかったから、神経が研ぎ澄まされるばかりで、「木刀のような切れ味」を知らず、「鋭利」ばかり追求してしまった。宮本武蔵が木刀を多用したのは、「剣よりも切れる」という、その「木刀ならではの切れ味」を知っていたからなのです。(「良寛が刀はいたく切れず」徒然草)
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人間は死ぬ前に、ホンの一瞬、生前の楽しい思い出が走馬灯のように脳裏を駆けめぐる、と言われますが、「平栗雅人が今まさに沈没」せんとするその時、私には様々な位相が心裡を過(よぎ)りました。
これをやって、会社をクビになる・狂人と言われて仲間はずれにされる、なんていうのは次元の問題です。次元で位相は変えられないが、位相は次元を導いてくれる。 となると、私が本番の死の際に見ることになるものとは、はたして思い出なのか位相なのか。
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後日、ボストンの空港でこの日本人が3歳くらいの子供を連れて歩いているのを見かけ、「彼ら一家はまだ生きている」ことを知り、やれやれ、という気持ちになりました。 私が一喝して彼が改心したわけでもないかもしれませんが、とにかく、私は運命と戦った・自分で運命を切り拓いた・運命に抗った、それとも、これこそが天から私に与えられた運命だったのか。自分で運命と戦ったように思えても、実際はそうなるのが定めだった ?(「西遊記」孫悟空はお釈迦様の掌から出ることはできませんでしたが)。
この時点で、私には南米移住の話はなかったのですが、「禍福はあざなえる縄の如し」。まこと、真剣勝負で生きるとさいころの目はまごうかたなく転がるようです。
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