「二十歳の原点」仮面とレッテル V.1.1

@MasatoHiraguri

第1話 仮面ではなくレッテル

「雨は降らねど身は濡れはしまい。さまの情けを傘に着て散りゆく花は根に還る。再び花が咲くじゃない。」


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高野悦子さんの「二十歳の原点」1971年5月10日発行(新潮社)では、「お茶目で明るい・ノー天気な高野悦子」という、彼女が物心ついたころから、つけてきた「仮面」と、中学生の頃からの日記に存在する「自分」との葛藤に悩みました。

その意味では、彼女の仮面とはむしろ「周囲の人たちから貼られたレッテル」でした。

周囲の人がそういう「高野悦子」を望むから、仕方なしにその仮面をかぶって(20歳まで)生きてきた、ということではないでしょうか。


目の前にある具体的な問題(学生運動・恋・その他)に押し潰されたというよりも、彼女自身の中で「仮面と真実の自分」との調整がうまくいかなかった。失恋自体、大したことではなかったはずなのに、「失恋したら、かくも深く悩まねばならぬ」という知識・常識に心が覆われ、結局は、それに抗うかのようにして、真実を求める自分に素直になる道を選んだ。

「嘘つき」という、心が汚れた人間で生きるより、ピュアな心のままで再生の道を選んだ彼女は正解であったと、私は思います(ご家族の方の悲しみは計り知れないとは思いますが、彼女自身の生き方としては間違いとはいえないのでは。「二十歳の原点」を読んだだけの私ですが)。


草や木が再生できるのは、自然の元素のままで朽ち果てるから。

一方、げんざい巷で騒がれている「なんたらかんたら」という、人間が作り出した(自然の元素を加工した)化学物質は、永遠に変化することなく、土に還ることがないそうです。


<「死というものは存在しない。そのときは、世界が位相を変えるだけ」 → 「インディアンの言葉」(紀伊國屋書店)、シアトル族の首長の言葉(1855年)。> 彼らには「死」というものはない。彼らの日常とは、いかに正しく「位相を変える」ことができるか、にあった(平栗雅人)。


高野悦子さんは、自分のイメージ(仮面)を積極的に表明したというよりも、周囲の人たちが作り上げた「お茶目で明るい・ノー天気な高野悦子」というレッテルを(仕方なしに)貼られて生きていた。しかし、結局は、仮面やレッテルよりも、素の心・自然の元素のままで「位相を変え」た(のだと私は思います)。




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