第43話:また学校で
目が覚めると、クラゲのぬいぐるみと目が合った。買った覚えはないが、どこかで見たことあるような顔だ。クラゲ。クラゲのぬいぐるみ……ああ、そうだ。これは確か、昔先輩に——。って、ちょっと待て、なんで先輩にあげたぬいぐるみがここにあるんだとハッとして身体を起こして辺りを見回す。どこだここ。私の部屋じゃない。
昨夜は先輩と飲んでいた。それは覚えている。だけど、どうやって帰ったかは覚えていない。このぬいぐるみがあるということは多分、ここは先輩の部屋だろう。だけど先輩は居な——いや、居た。床に敷布団を敷いて布団にくるまっている。状況が理解出来ずにぽかんとしていると、先輩が動いた。ゆっくりと瞼が開き、私と目が合うと「おはよう。葉月ちゃん」と笑う。寝起きの先輩、ぽやぽやしていて可愛い。じゃなくて。
「あ、あの、どういう状況ですかこれ」
「あー。昨日君、あのまま店で寝ちゃってさぁ。で、私君の家知らないし、置いて帰るわけにもいかんからさぁ。あ、言っておくけど、何もしてないからね。連れ込もうと思って酔わせたわけじゃないから。君が勝手に酔い潰れて寝たんだからね。不可抗力です」
そう言って先輩は両手を上げる。わざわざ別で布団を敷いて寝てるあたり、本当に何もしなかったしするつもりもなかったのだろう。
「……ご迷惑をおかけしました。すみません」
「迷惑だなんてそんな。葉月ちゃんの可愛い寝顔が見れて、むしろ得してますよ私は」
「……いつもはホテル行くだのなんだのセクハラしてくるくせに、こういう時は紳士的なんですね」
「紳士的も何も、酔い潰れてまともに同意取れない相手に手出すわけにはいかんでしょ。人として当たり前では」
「普段はセクハラ発言しまくるくせにどの口が……」
「なに。もしかして手出して欲しかったの?」
いつものように、揶揄うように先輩は言う。私が答えずにいると、立ち上がり、ベッドに上がってきた。そして私と距離を詰めると、私をゆっくりとベッドに押し倒した。
「……君がそれを望むなら、私はいつだってそれに応えるつもりでいるよ」
そう言う声は本気のトーンで、いつものようなへらへらした胡散臭い笑顔ではなく、真剣な顔をしていた。大好きな先生を揶揄う無邪気な
「……」
「……いつものやつ言わないの?『私は教師であなたは生徒ですよ』って」
どこか煽るように彼女は笑う。
「……ここは学校じゃないから、今は、違うのでしょう?」
問い返す。彼女がそうだよと言ったら、私はどう返すつもりでいるのだろう。心臓がうるさい。何かを期待するように、うるさく騒いでいる。
「……何それ。つまり、手出しても良いってこと? 誘ってんの?」
「……」
駄目だと言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。
「……十秒以内に答えて。沈黙は肯定と捉えるからね」
彼女はそう言ってカウントダウンを始める。そもそも、なんで駄目なんだっけ。私達は両思いで、成人同士なのに。彼女は生徒だから特別扱いするわけにはいかないから? そんなの、しなければ良いだけだ。プライベートと仕事はきっちりと分ける。私も彼女も大人だから、それくらいできる。だから、なんの問題も無いはずだ。区別をつけられるなら、なんの問題も——。
「さーん、にーぃ、い——「だ、駄目! 駄目! 駄目です!」
制限時間ギリギリで、なんとか彼女を押し返す。彼女は「えー。今のは良いって言う流れじゃん」と言いながら、潔く私の上から退いてくれた。言葉の割には不満そうな感じはなく、むしろ楽しそうに笑っている。それでこそ葉月ちゃんだと言わんばかりに。最初から本気で抱く気などなかったのだろう。
「……先輩のことは、好きです。その好きは、えっと、そういうことしたいっていう、好きです」
「そういうことって?」
「……わ、分かってるくせに言わせないでください。セクハラです」
「ごめんごめん。続けて」
「……私、自信が無いんです」
「自分の身体に? 大丈夫よ。私はどんな君でも「そ、そっちではなく! 茶化さないで真面目に聞いてください!」えっ。いや、真面目にそっちだと思ったんだけど。話の流れからしてそれ以外ないだろ」
「ち、違います! 一線を超えてしまったら、その、もう二度と生徒と教師には戻れなくなりそうで……」
「……え? 何そのえっちな台詞。ちょっともう一回言ってくれん? 録音するから」
「だ、だから! わ、私は真面目に、話してるんですってば……!」
「いや、ごめん。……正直、私もあんまり余裕なくて。こうやって茶化さないと……このエロい空気に耐えられんのよ……」
そう言って彼女は身体ごと私から逸らした。さっきまでヘラヘラしてたくせになんだその態度。
「……」
「……」
「……話、続けて。もう茶化さないから。ちゃんと、真面目に聞く」
「……じゃあこっち向いてもらえませんか」
「そっち向いたら襲っちゃうけど良い?」
「だ、駄目です。そのままでいいので聞いてください」
先輩の背中に向かって、私は語る。私はあなたが好きだということ、付き合いたいと思っていること、触れ合いたいと思っていること。先輩はうんうんと相槌を打ちながら静かに聞いている。顔は見えないけれど、真面目に聞いてくれているのはわかる。
「けど……私、あなたが生徒達と仲良くしているのを見ていると、妬いてしまうんです。あなたと恋人になってしまったら、今以上に彼女達に嫉妬して、生徒達と対等に接することが出来なくなってしまう気がするんです」
「仕事とプライベートの区別がつけられなくなるかもってこと?」
「はい。だから……ごめんなさい。もうあと二年は、あなたの先生でいさせてください。恋人と先生を兼任するなんて器用なこと、私には出来そうにないですから」
「……たまたま会っただけって言い訳してデートするのはありなんだ?」
「そ、それは……先週は本当に、たまたまでしたし」
「でも今回はたまたまじゃないよね」
「……あんなこと言われたら、断れないじゃないですか」
「……そうだね。ごめん。私も断れないだろうって思って言った」
「ずるいです」
「ごめんね。ルール破ってまで会いに来てくれてありがとう。会えて嬉しかった」
彼女の声が弾む。何が嬉しかっただ。断れないと分かってずるい言い方したくせに。と文句を言いたいが、言えない。そんな嬉しそうに言われたら言えない。ずるい。
「今回だけです。本当に、これが最初で最後です。私は……あなたが卒業するまではあなたの——あなた達の先生で居たいですから」
「……うん。分かった。君とはもう学校以外では会わないようにするよ。えっちも卒業までおあずけね。卒業までの焦らしプレイってことね」
「へ、変な言い換えしないでくださいよ」
「あははっ。ごめんごめん。……本当に、ずるいこと言ってごめんね。それとありがとう。……君の気持ちはよく分かった。充分分かった。だからもうプライベートで会いたいなんて言わない。会えなくても良い。君が私のことを好きって気持ちは充分伝わったから」
ふぅとため息を吐くと、彼女はこちらを振り返って言った。「君のそういう真面目なところ、大好きだよ」と。いつもの笑顔で。しかしその笑顔はふと消えて、影が落ちる。
「先輩?」
「……ごめん。気にしないふりしてたけどさ、本当は、気にしてたんだよね。君の元カノのこと。あの人まだ、君のこと好きみたいだったし」
「……私は先輩が好きですよ。彼女と付き合っていた頃も、それは変わりませんでした」
私が忘れさせてあげるからとりあえずお試しで付き合ってみないかと彼女に言われて、私は恐る恐る彼女の手を取った。だけど、結局変われなかった。彼女の優しさに触れるたびに、彼女に対する罪悪感が増していくだけだった。だから私から、別れを切り出した。
「私……先輩のこと、異性愛者だと思ってました。中学生の頃は彼氏が居ましたし、今もその人と続いていると噂で聞いていましたから。だから尚更、諦めたかったんです。もし再会できてもどうせ叶わないと思ってたから。あなたはそのまま山本先輩と結婚すると思ってたから。だから……新しい恋をしなきゃって、思ってたんです」
「なるほど。だから彼女と付き合ったんだ」
「……はい。だけど、好きな人がいることは、ちゃんと話してました」
「分かってるよ。君が真面目で誠実な人だってことは、よく知ってる。私は君のそんなところに惚れてるからね」
「……あの頃に私が告白していたら、付き合ってくれていましたか?」
問うと先輩は即答せずに口籠った。
「……私が吉喜と付き合ったのは、同性愛者であることを隠すためだから。だから……君と両想いだと知っても、あの頃の私には君と付き合う勇気はなかっただろうね」
「……そうですか。でも、私もそうかもしれません」
「葉月ちゃんは、自分がレズビアンだって認められたのは何歳くらいの頃?」
「大学生になってからです。元カノに告白されたことがきっかけで、私以外にも居るんだって思えて。先輩は?」
「私は母さんの言葉がきっかけ」
「お母様の?」
「うん。『私があなた達に望むことはただ一つだけ。明るく幸せな人生を送ってほしい。その幸せは、異性を愛して子供を授かることでも、良い企業に勤めることでもない。私や世間が決めるものじゃない。あなた達が決めるもの。世間の偏見に晒されるような道を選んだとしても、それがあなた達の選ぶ幸せへの道なら、私はお父さんと一緒に天国で応援するから』って」
私が中学生の頃は、彼女の母親はまだ生きていた。だけど会ったことは一度もない。もう会えないから、どんな人かは分からない。だけど話を聞いただけでわかる。彼女は母親から愛されて育ったのだと。
「素敵なお母様だったんですね」
「私の母さんだからね」
「自分で言うんですか」
「せっかくだし、帰る前に挨拶してく?」
「……そうですね。挨拶だけして帰ります」
「うん。あ、待って」
ベッドから降りようとすると引き止められた。座り直すと、彼女は私の肩に身を寄せる。
「だ、だから……こういうのは……」
「分かってる。でもごめん。少しだけ、甘えさせて。これで最後のわがままにするから」
「……一分だけですよ」
「意外と時間くれるんだ。なんだかんだで君も——わっ」
揶揄おうとしてくる彼女の身体を抱き寄せる。彼女は大人しくなり、私の背中に腕を回した。
「……ふふ。葉月ちゃんの心臓、すげぇうるさい」
「……あなたのせいです」
「私のもうるさいよ。君が急に抱きしめたりなんかするから。確かめてみる?」
「確かめません。甘えたいというから甘えさせてあげてるだけです」
彼女の頭を抱きながら、スマホでタイマーをセットする。
「……葉月ちゃん、もしかしてタイマーセットしてる?」
「はい」
「どこまで真面目なんだよ」
「……こうでもしないと、ずっとこうしてしまいそうなので」
「私は良いよ。ずっとこのままで」
「私は良くないです」
そんなやりとりをしているうちに、あっという間に一分が経った。
「……鳴ってるよ。葉月ちゃん」
「……分かってます。離れてください」
「いや、君が離してくれないんじゃん」
名残惜しさを感じながら、彼女を離してタイマーを止める。すると彼女は深いため息を吐いて両手で顔を隠した。
「な、なんですか」
「可愛すぎる……好き……」
「……仏壇、どこにあるんですか? 私もう、挨拶して帰ります」
「帰らせたくないけど……仕方ない。案内するよ」
先輩に案内された先には仏壇が二つ。生花やフルーツなどのお供物が置いてある。その中に気になるものが一つ。
「木靴……?」
「オランダのお土産」
「ああ……ルーカスさんですか」
「うん。天国でこれ履いてくれてんのかなーとか思うとさ、ちょっとほっこりするよね」
そう言って先輩は慣れた手つきで水と仏飯を仏壇に供えて鈴を鳴らす。チーンと鈴の音が響き渡る。先輩に習い、仏壇の前で手を合わせる。飾られた写真に映る二人は先輩によく似た笑顔を浮かべている。彼女の両親だと一目でわかるほど雰囲気がよく似ている。
ご両親への挨拶を終えたところで、先輩が朝ご飯食べていきなよと誘ってくれたが、あまり長居すると帰りたくなくなってしまうので断って帰る準備をする。
玄関から外に出ようとすると、彼女に引き止められた。振り返ると、彼女は小指を差し出して言った。「私が卒業したら、私の恋人になってね」と。
「……生徒と教師じゃなくなったら、じゃなくていいですか?」
「うん。卒業したらで良い。待つよ。大人しく」
「……本当でしょうね」
「ほんとほんと。これまで通りちょっかいはかけるけど」
「ほどほどにしてください」
「ほどほどなら良いんだ?」
「……ええ。ほどほどなら、良いですよ」
「じゃあ、約束。私が卒業するまで彼女作らないでね。先生」
「それはこちらの台詞です。ちゃんと大人しく待っていてくださいね。和泉さん」
「うん。良い子にして待ってる」
差し出された小指に自分の小指を絡めて約束を交わす。今度はちゃんと、卒業までは恋人にならないという約束を。
「では和泉さん、また学校で」
「はい。また学校で」
そのまま連絡先も交換することなく、彼女の家を後にする。名残惜しい気持ちを抑えて、振り返らずに家の方へ向かって歩いた。
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