部屋番号

 加齢や頬の筋肉の衰えによって、小鼻の脇から口角に向かって湾曲する線を溝の如く作る。世間一般では「ほうれい線」と呼ばれ、女性を中心に忌み嫌う。そんなほうれい線が、従業員の顔にまるで爪で跡を付けたかのように深く刻まれており、メラニン色素に刺激されて染まったとは思えない浅黒い肌の色は、唸り声を上げる臓器の叫びに違いない。健康状態に難がありそうな従業員の「顔」は、縦に幅をとり、それぞれの部位の配置はきわめて難しいバランス感覚が問われる。しかし、今も尚、増え続ける人間の数を慮るならば、従業員の「顔」が少々崩れていても、公然と神様に文句は言えまい。私もまた、美醜で言うなら、醜聞の方に傾いている側なので、従業員の「顔」について偉そうに語る気はなかったが、初対面に於いて最も大事な部分でもある為、自然と目が向いてしまった。


「〇〇号室の連れで……今着いたんですが」


 出来るだけ他人と関わることがない工場に仕事を求めた私の性質上、辿々しく言葉を吐いたのは王道であった。コンビニエンスストアで煙草を買おうとすれば、往々にして聞き返されてきた経験から、私はもう一度言葉を発する心構えでいた。だが、従業員はそばだてた耳から私の説明を咀嚼し、「もう一度お願いします」とは軽々しく言ってこなかった。


「はい。伺っております。此方が〇〇号室の鍵となります」


 従業員は恙無く自己完結し、鍵を私に渡した。宿泊客の動線を端的に確保する為に、入り口を跨いだ正面にエレベーターが配置されている。私は従業員から鍵を受け取ると、早速エレベーターに乗り込み、このホテルの最上階にあたる八と書かれたボタンを押した。上昇する四角い箱の中で微かに発生する「重み」は、静かに鼓動する心臓へ訴えてきた。もうすぐ目の前まで来ているぞ、と。


「チーン」


 開閉を知らせる注意喚起の音に合わせて、俯き加減にあった視線を真っ直ぐに据える。見知らぬ白い壁に掛けられた絵画が、エレベーターから降りてくる私を出迎えた。濃淡を一切排した白と黒の色調でのみ絵を表現する繊細さは、中心に据えられたひとりの女性の髪から見て取れた。髪の毛一本一本を一本のペンによって描き出された細やかさは、長い時間キャンパスと向き合わなければ叶わない所業である。座学を忌み嫌い、芸術的な教養にも恵まれない私の目を通すと、それ以上の情報を獲得できず、生呑み込みさえも許されなかった。よしんば、彼女から四方山話の一環として、絵画のことについて尋ねられれば、無知を愛おしく思ってもらうように可愛げのある所作や言葉遣いが必要になるだろう。


 私は顔を左右に振って、付近の部屋に割り振られた番号を確認する。そして、進むべき方向を定めた。手元の鍵に記載された部屋番号を鑑みるに、部屋は通路の奥に鎮座しているようだ。私は歩みを進め、部屋を通り過ぎるたびに近付いてくる番号の機運に、まるで受験番号を探しているかのような緊張を催す。

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