襟を正す

「はあ」


 幸福な嘆息を吐き、工場で単調な作業を強いられた身体の疲れを癒す。そぞろに口元は綻び、寝具に沈み込むような居心地の良さに浸ると、知らぬ間に寝息を立ててしまっていた。一日の汚れも落とさぬまま深い眠りに落ちた結果、深夜四時半という、空が白み始めたばかりの中途半端な時間帯に目覚めてしまう。普段なら、狸寝入りに二度目の就寝を呼び込むところだが、興奮気味な身体に釣られて目がハッキリと開いてしまっている。


 私は徐にベッドから起き上がると、シャワーを浴びる為に風呂場へ向かう。起き抜けとは思えないほど、足取りも冴えていた。脱いだ衣服を洗濯機へ投げ捨てる粗野な動作は露払いすると、一挙手一投足が初々しく感じられ、産道を抜けた後の新鮮な空気を吸い始めた頃に回帰したようだった。肌を伝う温水の雫の行方に思い馳せつつ、私は恙無くシャワーを浴び終える。就労の為に起床を余儀なくされる朝の時間は、いつだって鬱々しく、俯き加減に過ごすのが常であった。だがしかし、彼女との約束の日を迎えるまで、些かも倦怠感を覚えず、溌剌なる感覚で毎朝を迎えられた。


 週末の町並みは、私にとって鬱陶しい喧騒を生むだけの邪魔なものでしかなかった。しかし今は、ペチャクチャと口を動かす人々の呼気に対して、水が合わないと嘆く気は起きなかった。一人の住民として溶け込めているような気がしたのだ。私が住む町の隣町を越えた先に彼女の指定する駅が設置されており、距離にして約十五キロ。三十分ほど電車に揺られれば到着する。普段は、電車に乗るような遠出をすることはない。たまの休日も部屋で過ごして、英気を養い、怠惰と呼んで然るべき身体の重みを味わっている。今日は特別だ。着慣れぬジャケットの緊張とは裏腹に、肩っ苦しさに囚われないジーンズで柔和な雰囲気を纏う。髪型は清潔感を意識して美容室で切り揃えてもらい、足元は新品のスニーカーで整えた。ここまで周到に準備したのは来し方の人生に於いて、初めてのことである。


 彼女と面と向かうのに、最低限の身だしなみは意識するべきだし、よしんばホテルで食事を取ることも念頭に置き、マナーも学び直した。あらゆる面で失礼がないように心掛ける私の所作は、一見すると堅物に映るだろう。しかし、少し口を開いて会話をこなせば、そのうち気さくな面が顔を出すはずだ。


 私が日々の営みに選んだ町の駅前とは比べ物にならないほど、人々が雑多に行き交い、意固地な肩同士がぶつかる様も散見された。あくまでも私の見聞に即した物差しになるものの、「栄えている」と評して然るべき人口密度である。私は首を長くして、本来の身長より少しだけはみ出す。周囲の景色を見渡し、ホテルアイランドと思しき外観を捉えようとする。だが、駅前の建造物は尽く、人流を見下ろすかのように背が高く見え、ホテルアイランドと区別して判断する材料とするには心許ない。

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