九
姫が目を開くと目の前に『佐藤 姫』がいた。何を言っているかわからないだろうが、自分でもよくわからない。ただ、自分の顔は怒っていても美しい……ということだけはわかった。
「その髪色。どうしたの?」
目の前にいる姫が背筋が凍るような冷たい視線を向けてくる。自分の顔だとわかっていてもその美しさに見惚れる。
『美人の怒り顔が迫力があるっていうのは本当なのね』
呑気にそんなことを思っているとすぐ近くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。まるで自分が発したのではないかと思うくらいの近さだ。
「就活の為に染めたんだ」
『この声……俊?』
周りを見回そうとしたが視界は動かなかった。定点カメラのようにひたすら目の前の姫だけを映している。姫が不満げに顔を顰めた。
「その髪色俊には似合わないわ。前の髪色の方が合ってたわよ」
「そっか。じゃあ、次の就職先が決まったら染め直すよ」
「そうしてちょうだい。じゃあ、就職先が決まったら連絡してちょうだいね」
そう言って目の前にいる姫がおもむろに立ち上がった。金子が驚いたような声を上げる。
「え、もう帰るのか?」
目の前にいる姫が呆れ顔になる。
この後の流れを姫は覚えていた。このやり取りをしたのは金子と最後に会った日だ。
『これ……過去の出来事を俊目線で見ているんだわ。何故だかわからないけど』
不意に浮かんだのは、黒井が言った「姫さんは知らなければならない」という言葉だった。どういうからくりかはわからないが、黒井にされたアレが原因だろう。
『私が何を知らないといけないっていうのよ』
何も悪いことはしていないはずだ。そう思っているのに心がざわつく。
目の前の姫が口を開いた。
「だって、今の俊は
「それは……ごめん。わかった」
金子は言い淀み、そして力なく返した。
『
そんな声が直接頭の中に響いた。驚いて固まる。
『何今の声? ……もしかして……俊の心の声?』
戸惑っている間に空間が歪み始めた。
◆
まるで映画を見ているかのように時が進み場面が切り替わった。
鏡に映った金子はスーツを着ていた。姫が知る金子よりも随分痩せているように見える。姫はそのやつれ具合に驚いた。
「金子。ちょっとこっちにこい」
「はい!」
いかにも上司らしき人物に呼ばれ、金子が早足で向かう。上司らしき男はちらりと他の社員達を見た後、金子を見て目を細めた。自然と金子の背筋が伸びる。
「おまえ、また新規契約を取ってきたんだって?」
「はい」
「しかも、今までずっと断られていたところから……よくやった。その調子で頼むぞ!」
「はい!」
背中に鋭い視線がいくつも突き刺さる。上司もわかった上でやっているのだ。
他の社員達にも発破をかけているつもりなのだろうが、そのせいで金子は他社員……特に男性社員から疎まれていた。
男性社員達の近くを金子が通ると悪口が始まるのはいつものことだ。
「これ見よがしな自慢うっざ」
「いいよな。面が良いヤツわ」
「俺も整形でもしようかな~」
「まずその金がねえって」
「確かにっ!」
姫は目を吊り上げた。
『なんて器が小さい男達なの?! まったく、俊も何か言い返しなさいよ!』
しかし、金子は怒りの感情など全く抱えていなかった。姫が聞こえているくらいなのだから金子にも聞こえているはずなのだが、金子にとって男達の言葉などどうでもいいらしい。
『よかった。来月の給料はそこそこもらえそうだ。これで姫が欲しいって言っていたバッグが買える』
なんてことを考えていた。
姫が何とも言えない気持ちになっていると、今度は女性社員が数人近づいてきた。
「金子さん~あんなの気にしちゃダメですからね?」
「そうですよ~ただのひがみなんですから」
「私達は金子さんの味方ですから。ね?」
「それで~今晩って金子さん暇ですか~? 私達と飲みにいきません?」
『は? 何この女達。どの面さげて俊に近づいているのよ!』
「すみません。今日は用事があるんです。また、今度誘ってください」
姫が声を荒げたタイミングで金子は女性社員達の誘いを断った。
「え~金子さんこの前も用事あるって言ってたじゃないですか~」
「こらこら。無理を言わないの。また、次の機会に期待しましょ」
「わ~自分だけ点数稼いでいる~」
「ち、違うわよ! え、と、それじゃあまた」
女性社員達が小声で言い合いながら立ち去るのを見届けた後、姫は金子を怒鳴りつけた。
『ちょっと俊! なんでビシッと断らないの?! 彼女がいるって言いなさいよ!』
とはいえ、金子に姫の声が届くわけもなく、金子は疲れたように溜息を吐いた。
『どの業界でも女性っていうのは変わらないんだな。姫の存在は絶対にバレないようにしないと』
その心の声に姫の怒りゲージが上がる。
『はあ?! なんでよ! 隠す意味がわからないんだけど?!』
姫が半ギレになっている間。金子はホスト時代に女性客同士が自分を巡って起こした事件について思い出していた。あの頃はそれに対して『女ってこえ~な』くらいしか思わなかったが。今の金子は違う。絶対に姫にはそんな目に合って欲しくない。
金子は仕事の合間に姫にLIMEを送った。返事が返ってきたのは数時間後。しかも、付き合う前に比べると淡泊な内容。
それでも、金子は嬉しそうにそのメッセージを読んでいた。
『もう少しちゃんと返してあげればよかったかしら』
姫の心に少しだけ罪悪感が浮かぶ。
針の筵のような職場環境で仕事を終えた金子は自宅へ直帰し、軽くシャワーを浴びてスマホのチェックを始めた。
『まさかさっきの女達からの連絡待ちじゃないでしょうね?』
しかし、スマホの液晶に表示されていたのは単発バイトについての連絡だった。おもむろに金子が立ち上がる。
『え? まさか今から?!』
そのまさかで金子はそのままアルバイト先へ向かった。
姫が唖然としている中、金子は男達ばかりいる職場でもくもくと汗水たらしながら働く。日付を跨ぐ頃、金子はその場で給料をもらい、くたびれた様子で帰路に着いた。
そして、気絶するように寝て、ろくな食事もとらずに会社へと向かう。
そんなハードな毎日を過ごしながらも金子の心の中にはいつも姫のことがあった。
嫌でもわかる。金子がどれだけ姫のことを大事に思ってくれていたのか。
知れば知る程、罪悪感が大きく膨れ上がる。それでも姫は素直にはなれなかった。
『でも……私が頼んだわけじゃないわ』
そんな言い訳を自分に繰り返す。
姫が葛藤している間にも、時間は進んでいく。
◆
深夜の単発バイトの帰り道。金子は夜空を見上げ、歩いていた。
『もうすぐ給料日だ。もうすぐ姫と会える』
想像するだけで足取りが軽くなる。
心なしか夜空にある星もいつもより輝いているように感じた。何となく足を止める。
『この綺麗な夜空を姫も見ているだろうか』
『私が夜空何て見上げるわけないじゃない。……でも……思ったよりもいいわね』
姫がいつも見ているのは夜に映えるネオンの灯りだ。夜空何て大人になってから見上げたことはなかった。それこそ、母がいた時ぶりかもしれない。
『こうして夜空を見るデートもたまにはいいかもしれないな……姫は嫌がるかもしれないけど』
『……』
言い返せる言葉はなかった。
しばらくの間、黙って夜空を見上げていると、いきなり強い衝撃が背後から襲ってきた。
『っ?!』
何が起きたのか理解できなかった。息ができない。
自分が地面に伏していることはわかる。身体が思うように動かない。
血の匂い。アスファルトの匂い。土の匂い。排気ガスの匂い。
近づいてくる足音。見知らぬ男が金子の様子を窺うように覗き込んできた。
『たすけてくれ』
金子の声は男に届かなかったのか、男は金子から離れてしまった。
そして、近づいてくるエンジン音。姫は嫌な予感がして、思わず目を閉じた。
金子 俊は車に轢かれ、敷かれて、その生涯を閉じた。
その金子の最期を姫は追体験したのだ。
言葉にならない悲鳴が姫の口から漏れる。そして、気づいた時には嗚咽混じりの謝罪を口にしていた。
『ごめ、んなさい……ごめんなさいっ。ごめんなさいっ』
金子が最後に見た見知らぬ男は、姫がよく知る男だった。姫が
姫は知った。姫が知らなければいけない事実を。そして、姫は認めた。己の罪を。
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