羆贄神事の一夜

うろこ道

 腰まである下草をかき分けながら、俺は右も左もわからない状態で山中をさまよっていた。

 打ちつける雨が体温を奪ってゆく。外気温は十度を下回っているのではないだろうか。

(……まだ十月になったばかりだぞ)

 はぁっ、はぁっ、はぁっ――荒く息を吐きながら、松の巨木に手をついて俯いた。冷気が入り、肺が苦しい。

 関東のうららかな秋晴れを後にし、北海道などという北の地に来たことを俺は心底後悔していた。

 事の発端は、先日、結婚前提で付き合っていた彼女との別れだった。三十路手前でのあまりの仕打ちに傷心のどん底にいた俺を見かね、会社の同僚らがわざわざ有休をとって北海道旅行に連れ出してくれたのだ。

 五日間の旅の最終日、宿の女将おかみに、本州では九月末で禁漁となるヤマメ釣りがまだ可能だと聞いた友人らは、釣りに行ってしまった。釣りに興味がなかった俺は、一人で渓流下りをすることにした。北海道の雄大な自然でも眺めながら失恋の傷を癒そうと思ったのだ。

 それが間違いだった。

 そこそこラフティングの経験のある俺は慢心していた。むしゃくしゃした気分を晴らす思いで無茶をし、結果、水面下に隠れていた流木にぶつかってボートは転覆。何とか岸に這い上がるも急に雨が降ってきて、どこか凌げるところはないかとさまよううちに気付けば山に入っていて遭難したのである。

 俺は寒さにがちがちと歯を鳴らしながらひたすら進んだ。足をとめたら凍え死ぬ。死——脳裏に浮かんだ単語に、ぞわっと恐怖が込み上げた。振られてすぐは絶望のあまり死にたいと口に出したりもしたが、実際死ぬとなれば話は別である。

 寒さと疲労でなかば朦朧としながら闇雲に歩いていると、遠くの木々の間にぽつんと明かりが見えた。俺は安堵の息を吐いた。見失わないように、必死で目を凝らしながら近づいてゆく。

 やがて山小屋にたどり着いた。掘っ立て小屋と言っていいほどの粗末なつくりだった。窓にかかったカーテンの隙間から暖かそうな飴色の光が漏れている。

「すみません! 誰かいませんか!」

 板戸をどんどんと叩いた。しばらく待ったが、誰も出てくる気配はなかった。

「すみません! 開けてください!」

 さらに声を張り上げたが、やはり反応はない。

 一時的に外出でもしているのだろうか。

(……この雨の中?)

 それにしても、この建物は何だろう。こんな山中にぽつんと。道らしきものは細い獣道だけで、とても車が入ってこれるとも思えない。

 ――急に怖くなった。これが山の怪異であれば、この小屋は十中八九罠である。

 だが、こんな濡れた状態で外にいては本当に凍死してしまう。逡巡した挙句、引き戸に手をかけた。鍵は掛かっておらず、抵抗なくがらりと開いた。暖かい空気がふわっと顔面にかかる。

 石油ストーブの前で、足先まで毛布に包まった女性がパイプ椅子に座っていた。

 歳は二十歳前後に見えた。柔らかく波打つ黒髪の陰からのぞいた顔はたいそうきれいで、俺は疲れもあってか、思わずぼうっとみとれてしまった。

 反応がなくて当然だと思った。こんな山小屋に女性一人でいるところを、見知らぬ男が訪れたら怖いに決まっている。実際、女は、土間にぽたぽたと雫を垂らす濡れ鼠の俺を、警戒した猫のような目で見据えていた。

 俺はなんだか申し訳なくなって、ぺこぺこと頭を下げた。

「す、すいません、道に迷っちゃって……」

「そこの道を左にずっと行けば、町に出るから」

 女が、硬い声で言った。

 道とはあの獣道のことだろうか。この極寒の雨の山中に戻れというのか。

「あの、雨宿りさせてもらえませんか。雨が止むまででいいんで……」

「できません」

 女はきっぱりと言った。

「じゃあせめて、服を乾かさせてくださ」

「駄目です。すぐに出てって」

 女は戸口をまっすぐ指さした。俺はその断固としたさまに気圧けおされてしまった。

 無言で立ち尽くしていると、ふと奥に、祭壇のようなものがあることに気付いた。そこにはお膳が置かれていて、それを見たとたん、腹がぐうと鳴った。それもそうである。半日以上、何も食べずに川下りをし、山中をさまよっていたのだから。

 俺がよほど情けない顔をしていたのだろう。女は小さく溜息をついて立ち上がった。祭壇の箱膳を持ち上げて近づいてくると、上り框にごとりと置いた。

「どうぞ。食べたらさっさと出て行って」

「いいんですか?」

「ええ。わたし、食欲ないから」

 女はそっけなく言う。

 こっちに持ってきたということは、土間で食えということだろう。暖かそうなストーブのそばにものすごく行きたかったが、とても言い出せる雰囲気ではない。土間と框の境が踏み越えられない境界のように思えた。

 俺は框に腰掛けると、手のつけられてない立派な箱膳を見下ろした。

(鯛の尾頭付きなんて、初めて食べるな……)

 他にも、料亭の懐石料理のように細々とした小鉢が並んでいた。俺は「いただきます」と手を合わせると、漆塗りのいかにも高級そうな箸を手にとった。

 食事を終えたらすぐにでも追い出されるだろう。空腹にがっつきたくなる気持ちを押さえ、できるだけゆっくり食べることにした。その間に、なんとかここにとどまらせてもらう手を考えなければ――。

 などと考えながらもそもそと箸を口に運んでいると、不意に女が羽織っていた毛布を脱ぎ、差し出した。

「これ、持って行っていいから」

 俺は目を瞠った。女が毛布の下に着ていたのは浴衣のような真っ白な和服で、しかもその腹部はぽっこりと膨れていたのである。

 なぜ妊婦がこんな山中に一人でいるのだ。俺の動揺をよそに、女はさっさと元の石油ストーブの前に収まった。

 白一色の着物が、女のこの世のものならぬ美しさを際立たせていた。小屋の雰囲気も相まって、なんだか昔話に出てくるまよにでも入り込んでしまったような気になる。

 ともあれ、毛布はとてもありがたかった。下着までもれなくぐっしょりだったが、さすがに脱ぐわけにもいかず、濡れた服の上から毛布をかき合わせた。

 暖かく、甘い香りがした。彼女の匂いだと思うと、途端になんだか落ち着かなくなる。つい、さっきまで毛布に覆われていた女のうなじや鎖骨のくぼみに思わず目を馳せていまい、いかんいかんと目をそらした。だだでさえ警戒されているというのに――。

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