#11 彼女の秘密と、ちょっとした約束
「悠斗君?」琴美おばちゃんは目を丸くしながら、こちらを見返した。
おれはなんと言っていいのか分からず、黙って頷いた。
言葉は出なかったが、聞きたいことは山ほどあった。
「えーと。ちょうどよかった、時間ある? お昼もう食べた?」琴美おばちゃんは矢継ぎ早に聞いてきた。
「ええと……、まだです」おれは答えた。そういえば朝から何も食べていない。どうりで雑踏を眺めただけで疲れるわけだ。
「ちょっと寄ってかない?」琴美おばちゃんは提案した。
久しぶりの再開で、どこか緊張しているようにも見える。もちろん、おれのほうが動揺していただけかもしれないが。
断る理由も思いつかなかった。
おれは言われるがまま、琴美おばちゃんの後ろをついて行った。
◇
「お昼からワイン頼んじゃおうかな? 悩んじゃうなあ」メニューを見ながら、琴美おばちゃんは言った。
琴美おばちゃんが歩みを進めるのにまかせ、おれたちは駅からほど近いイタリア料理店に入っていた。
「悠斗君も飲む?」琴美おばちゃんは聞いた。どこか楽しそうだ。
「かまいませんよ」おれは言った。
「何でも食べたいものを選んでね。奢ってあげるから!」琴美おばちゃんは意気揚々としている。昔と何ひとつ変わっていない。
――むしろ、何も変わらな過ぎている。
注文を終え、ウェイターがメニューが引き下げると、琴美おばちゃんは改めておれに向き直った。それから、給仕されたグラスの水を一口飲むと、ゆっくりと置いた。
「どう? 悠斗君は、繰り返しの人生を楽しんでいる?」
◇
おれは表面的には驚かないようにつとめていたが、内心ではどうしようもなくざわついていた。
――おれには、知らないことが多すぎる。
おれは黙って頷いた。
それから琴美おばちゃんを真似するように、水を一口飲んだ。店のこだわりなのか知らないが、普段の水とは違う硬い感触が喉を伝った。
「おれのこと、どうなってるか分かりますか?」おれは聞き返した。
「もちろん」琴美おばちゃんはゆっくりと頷いた。
かく言うおれも、琴美おばちゃんが何者なのか、今では少しだけ理解している。
――この人も、おれと同じだったんだ。
分かる人には分かる。他の人とは違う、遠くを見つめるような目。ボンヤリとした瞳。
どう見ても、いまの琴美おばちゃんの年格好はおれと同じか、年下にしか見えない。不自然に若作りをしているわけでもない。
にっこり笑うと僅かに下がる目尻、少しクセのあるウェーブの掛かった髪の毛。
おれが小さかったときに話していた、琴美おばちゃんだ。
琴美おばちゃんのグラスを持つ手は、皺一つ刻まれていない。人生の苦労を知らない、陰影のない若者の手そのものだ。
この人も、繰り返しの中にいる。
一体いつから――?
おれの疑問は尽きない。
◇
ウェイターが赤ワインのボトルを運んできて、それぞれのグラスに注いだ。
貴重な瞬間でも見届けるように、おれたちはワインがグラスに注がれる様をじっと見つめていた。
「じゃあ」琴美おばちゃんはグラスを持つと、にっこりと微笑んだ。
おれたちは乾杯をして、ワインを飲んだ。
ワインなんていつぶりに飲んだのかも分からなかったが、水よりも緩やかに喉を下っていった。
息を吐き出すと、見知らぬ果実のような甘くて尖った香りがした。
◇
「悠斗君とお酒を飲める日がくるなんて、思ってもいなかったわ」琴美おばちゃんは満足気に笑った。
「こちらこそ、まったく年を取らない人とお酒を飲むなんて、想像もしていませんでした」おれは言った。
「まあ」琴美おばちゃんは肩をすくめた。「そう言っていただけて、ありがたいことだわ」
「おれも、ずっと年を取れなくなりました」おれは補足した。
琴美おばちゃんは深く頷いた。それから言った。
「ねえ、昔のことは覚えてる?」
◇
「まだ、悠斗君がずうっと小さかった頃。真由が悠斗君を生んですぐの頃」琴美おばちゃんは、親指と人差し指で野球ボールくらいの大きさを示した。
それはさすがに小さすぎないか?
「その頃、わたしと真由はいつも一緒で、悠斗君を育てながら見守ってた。本当に可愛くってね」
その話は聞いたことがある。その頃の母親が心が折れずにいられたのは、他ならない琴美おばちゃんがいてくれたお陰だ。
「もう、お母さんが2人って感じだったのよ? どう、分かる? 楽しかったなあ」
「ええ、まあ」おれは頷いた。
「そうそう!」琴見おばちゃんは思い出したように笑った。「悠斗君、わたしのおっぱいも飲んだことあるのよ――」
「――は?」おれは飲もうと思って持ち上げたグラスを、再びテーブルに置いた。
◇
「言っとくけど、わたしが率先してやった訳じゃないからね! 真由が頼むって言うから」琴美おばちゃんは遮るように言った。
おれは黙っていた。どう返答していいのか分からない。
「そしたら、一生懸命おっぱい吸ってたの。もちろん、お乳は出ないけど――」
同年代の姿かたちをした人間に面と向かって言われるせいか、おれの頭は理解に苦しんだ。
おれは琴美おばちゃんの胸元を見た。
それからおれは周りの客席を見回して、誰もこの話に聞き耳を立てていないことを確認した。
「母さんは、それ見てどうしたかったわけ?」おれは聞いた。
「なにがしたかったんだろうね。でも、手叩いて嬉しそうに笑ってた。私のを飲ませるときより一生懸命じゃん! やっぱり大きなおっぱいのほうが好きなのかー! なんて言ってた」琴美おばちゃんは懐かしむように笑った。
おれは何を聞かされているのだろう……。
おれはワインを一口飲んだ。ワインの味は、おれの気持ちを優しく励ましてくれた。
「ええと、お願いなんですが、その記憶は都合よく忘れてもらえませんかね……? 」おれは頼んだ。
「こんなに、いいお話なのに!?」琴美おばちゃんは首を振って拒否した。
2人にとってはいい話なのかもしれないが、おれには過去の醜態を晒されているような気持ちになる話だ。
◇
「真由は元気にしてる?」琴美おばちゃんは聞いた。
「この前、と言っても、だいぶ前のことになりますが、元気そうでしたよ」おれは答えた。母親はいまでも変わらず元気でいるだろう。
「そう? それならよかった」琴美おばちゃんは微笑んだ。
「もう会わないんですか?」おれは気になったことを、そのまま聞いた。「よかったら今の住所を教えますけど」
琴美おばちゃんは、小さく首を横に振った。
「その必要はないわ。わたしたちの間には、絶対の取り決めがあるから」
「取り決め?」おれは聞いた。
「真由ってほんと頑固で面白いよね。いつか真由に言われて、2人で約束したの」琴美おばちゃんは言った。「わたしたちは、どんなに遠くにいても、お互い、幸せであることを願うこと」
「それだけ?」
「それだけ」琴美おばちゃんは、誇らしげな笑顔で言った。それは、おれがよく知っている、いつもの笑顔だった。
◇
徐々に注文した料理が運ばれてきた。
生ハムに、小さいサラダに、パスタ。
「ほんと、懐かしいなあ」琴美おばちゃんはそう言いながら、生ハムを口に運んだ。
「あの、少し聞いてもいいですか?」おれは確認した。
「もちろん」琴美おばちゃんは生ハムを噛みしめながら頷いた。
「琴美おばちゃんは、どうやって繰り返すんですか?」
「え?」琴美おばちゃんは聞き返した。
「もちろん、無理にとは言いませんけど」おれは言った。
「んふふ。知りたい?」琴美おばちゃんは笑った。
◇
琴美おばちゃんは咳払いをひとつして、それから話し始めた。
「正直、いつからこの繰り返しに巻き込まれたかは覚えていないんだけど、わたしにはね、最初から大いなる野望があったの」
――野望?
「そう、わたしはね、世にも珍しい、無自覚イケメンを自らの手で発掘するために、何度も死にものぐるいで繰り返しに飲まれていったわけ。つるはし片手に、時間を何度も行ったり来たり。どう? 分かるかな?」琴美おばちゃんはそう言うと、ワインを口に運んだ。
「無自覚イケメン?」おれには何を言っているのかよく分からなかった。
「なかなか居ないのよ。きっとダイヤモンドよりも珍しいわ。自分をイケメンだと微塵も思っていない男の子。でも、すごくカッコいいの。人って誰かしらと過ごす以上、そんなの無理って分かるでしょ?」
おれはよく分からなかったが、頷いた。
「それで、繰り返しの切っ掛けは?」おれはストレートに尋ねた。おれの場合は、金を手に入れることだ。
「ペスカトーレ」
「ペスカトーレ?」
「ペスカトーレを食べると、元に戻る」琴美おばちゃんは言った。
つまり、パスタの味付けによって、元に戻れるわけか。
なんだか、ずいぶんとお手軽な戻り方だ。
「それで、見つかったんですか? その、無自覚イケメンは」おれはちんぷんかんぷんなまま聞いた。
「うん。悠久の時を経て、やっと見つけたわ」琴美おばちゃんは、噛みしめるように言った。「わたしは、ようやっと自分の人生の目的を果たせたってわけ」
琴美おばちゃんは言い終えて満足げだった。
おれは黙って頷いた。
「――ええと、それって嘘ですよね?」おれは聞いた。おれの耳には、さっきメニューを見ながら思いついた話のようにしか聞こえなかった。
「うふふ」琴美おばちゃんはいたずらっぽく笑った。「さあ、どうでしょう」
◇
おれたちは話を切り上げて、しばらく2人で料理を食べた。
おれは、ボロネーゼを頼んだ。琴美おばちゃんはペスカトーレではなく、たしかボンゴレだったはずだ。
◇
「本当のことは教えてくれないんですか?」おれはフォークにパスタを巻きながら聞いた。
「聞きたい?」琴美おばちゃんは聞き返した。サラダに入っていたトマトをフォークで突き刺している。
「そりゃあ、もちろん」
「誰にも言わない?」
おれは琴美おばちゃんを見た。冗談を言っているわけでもなさそうだった。
「もちろん、誰にも言いませんよ」おれは言った。そもそも、おれには伝える相手がいない。
「じゃあ、言おうかな。どうしようかな」琴美おばちゃんはそう言いながら笑っていた。
◇
「教えてくださいよ。僕の話も全部しますから」おれは言った。
琴美おばちゃんは笑った。
「んーと、正直に言うと、わたしはね、誰かを心から好きになると、元に戻っちゃうわけ――」琴美おばちゃんは言った。
おれは琴美おばちゃんの目を見た。
今度は本当の話らしい。
憂いを帯びた目をしている。遠くを見つめるような目。
◇
おれは話の続きを待った。
もちろん、おれは琴美おばちゃんが、どれほど優しい人かを知っている。
一緒に居合わせた人たちをどれくらい笑顔にするかも知っている。
「ほんと、さっきからわたしずっと変な話してるね」琴美おばちゃんは笑った。
おれは黙って頷いた。
「それでね、自分でもそうなることは分かってても、心なんて、自分でも分からないよね。気づいたら、どこかに戻ってるの。なんだか不思議なものよね」琴美おばちゃんは他人事のように語る。
おれはどう返事をすればいいのか分からない。
「振り返ってみて残っているのは、ぼんやりとした思い出だけ。そして思うの。わたしってこのままずっと生きてていいのかなって。どう? 分かる?」
◇
「過去にだけ戻るんですか?」おれは聞いた。永山にも聞いた質問だ。
「うーん」琴美おばちゃんは考えながら口をつぐんだ。「前はどうだったっけ? 最近ね、それもよく分からなくなってきたかな。前よりずっと過ごすスピードが速くなってきているように感じて」
終わりを迎える感触。永山も言っていた。
おれは次に何を聞こうか考えて、黙った。
琴美おばちゃんはグラスを持ち上げてワインを一口飲んだ。
「じゃあ、いま見ているような景色は忘れないですか?」おれは言った。言ってから、言わなければよかったと思った。
「忘れないわよ。絶対に」
琴美おばちゃんは首を横に振って、それからにっこりと笑った。
◇
おれはパスタを食べ終えて、生ハムの残りを食べた。
舌に残った塩味を、ワインが心地よく流した。
「ねえ、わたしが悠斗君のお父さんだったら、すっごく面白かったのにね」琴見おばちゃんは言った。
おれは顔を上げた。
「例えばわたしが、繰り返すたびに、性別も何もかも変わるくらいとんでもない人で、世界の色んなところに出没するの。どう? 面白いでしょ?」
「もちろん、大歓迎ですよ」おれは言った。そのポジションならいつでも空いている。
◇
話すことも思いつかなくなり、おれたちは食べ終えて空になった食器を眺めていた。
注文したものが届いたのか、他のテーブルからはカチャカチャと食器が触れ合う音が聞こえてくる。
おれは残りのワインをグラスに注いだ。
「なんかさ、もっと訳がわからないくらい世界がめちゃくちゃだったらいいのにね」琴美おばちゃんは素朴に言った。
おれは一瞬何を言われたのか分からなかったが、数秒経って理解した。
「僕もそう思います」
おれは頷いた。心からそう思った。
◇
おれたちは会計を済まして、店の外に出た。
お言葉に甘えて、おれは琴美おばちゃんにご馳走してもらった。
おれたちは再び駅の方角に歩いていた。
「悠斗君」琴美おばちゃんは言った。
「何ですか?」
「わたし、ひとつ謝らなければいけないことがあるかもしれないの」
おれは続きを待った。
「もしかすればだけど、昔わたしが悠斗君に触れたから、悠斗君がわたしと同じ目に遭うようになったかもしれない」琴美おばちゃんは言った。
おれは黙って頷いた。なんだ、そんなことか。
「別に構いませんよ」おれは言った。実際にそうだったとしても、大したことでもない。「繰り返してみて分かったんですけど、おれの頭は、自分でも思ってもいなかったくらい、馬鹿みたいに丈夫なようです」
琴美おばちゃんはおれを見た。ぽかんとした顔をしている。
「これはこれで、十分楽しいですよ」
おれは言った。
◇
結局、おれたちは駅の改札口で別れることになった。
まるで旅の見送りに来たみたいだった。
「ねえ悠斗君、ひとつお願いをしてもいいかな?」琴美おばちゃんは改まって言った。
「どうぞ」おれは言った。
「その前に、握手」琴美おばちゃんは、両手でおれの手を握った。琴美おばちゃんの手は思いのほか冷たく、ひんやりとしていた。
「少しだけでいいから、わたしのことを覚えていてほしくて、でも、それからすぐに忘れてほしいの。長い片思いは嫌だから」
琴美おばちゃんの目は遠くを見ていた。おれの後頭部を見ていたのかもしれない。
「そんなのお安い御用ですよ」おれは答えた。
忘れるわけない。もちろん、死んだ後まで覚えていられるかは分からないが。
琴美おばちゃんは小さく頷いた。
「おれだって、母親ゆずりなのか、そこそこ頑固で執念深いですよ?」
「そう? 頼もしいわね」琴美おばちゃんは嬉しそうににっこり笑った。
この人はいつも笑っている。
それからおれたちは別れた。
「ありがとう。気づいてくれて嬉しかった」
そう言い残し、琴美おばちゃんは人混みの中に消えていった。
◇
おれも家に戻ることにした。腹も満たされたし、気が滅入るほどごちゃついた街を歩くための気力も十分ある。
――世の中は所詮、ただの形のない約束でしかない
永山はそう悲観していた。
だったら、守れられるかどうかも分からない約束なんか、期待するだけ無駄だ。
そんなの、おれたちみたいな人間には、邪魔で邪魔で邪魔でしかない。
自分たちで手っ取り早く、簡単な約束を取り付けてしまえばいい。
馬鹿な自分たちでも分かるくらい、簡単な約束を。
頭の良いふりをして、よけいな約束を語り合うなんて、時間の無駄だ。
◇
そうして余った時間で、テキトーな思いつきみたいな約束を、無意味なまでに大量に作りまくろう。
正しい約束も、無意味な約束も、ごっちゃにして全部、人類の頭にぶち込んでみよう。
脳みそが耐えきれなくて破裂して、あちこちに変な汁を飛び散らせるだろう。
そのまま、世界が軋みをあげて真っ二つに割れるくらい、守られることもない約束で満たしてしまえばいい。
そんな景色を眺めながら、おれと琴美おばちゃんは笑い合うことにする。
おれたちはそれでも平気でいられる。
おれが誰に育てられたか知ってるか?
いつでもおれのことを思い出してみてくれ。
――どんなに遠くにいても、絶望的なくらい幸せであることを願っている。
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