#10 調子が出ないまま、見覚えのある人と再開する
居間の畳に寝そべっていたおれは、寒さで目が覚めた。
庭先には黄色いチューリップが咲いている。
初夏から、おそらく春先に移動している。
手足が尋常じゃないくらいに冷たくなっている。
おれは震えながら起き上がり、すぐに上着を着た。
◇
テーブルの上を見ると、永山が置いていった一万円札はそのまま残っている。
――あれ?
手に取って見てみたが、確かに元の一万円札だった。
――もしかして偽物か?
だとしても、なぜ消えていないのかが分からない。
おれは詳しく眺めてみたが、結局、よく分からなかった。
残った理由も、本物かどうかも分からない。
こいつが99.9%本物だとしたら、誰かに手渡しで使えそうだが、偽物であることには変わりない。
おれは自分の所持金と混ざらないように、そいつを戸棚の引き出しにしまい込んだ。
◇
寝室を見ると、猫が布団の上で寝そべっている。
コイツも家から消えるつもりはないらしい。
――おい、引きこもりの化け猫候補。お前は外に出て行く気もないのか? ご近所の猫たちと戯れる気もないのか?
おれは猫を持ち上げ、居間の窓から庭に置いた。
猫の身体は怠け心に直接触れたみたいにグニャリとして柔らかかった。
それからすぐに窓を閉めた。
しばらく外で遊んでくるといい。
◇
猫を外に出したついでに、おれも久しぶりに遠くまで出歩くことにした。
永山が言った通りなら、街で自分と同じような繰り返しの人間を見かけるかもしれない。
もちろん、詐欺師を自称する人間の言ったことだから、鵜呑みにするつもりもないが。
◇
柔らかな春の日差しを感じながら、おれは街の中心に向けて歩いた。
風は冷たいが、歩くには丁度いい。
◇
目的もなく外を歩くのは久しぶりだった。
自分の歩調に合わせて景色が流れていくのが、なんとも心地よい。
◇
――これはあなたの人生です。そしてあなたは、この人生の主人公です。
おれは歩きながら、その言葉を思い出した。
永山が詐欺のシナリオを書く時に、動機づけとして使う文言だ。
もちろん、おれにもその意味は分かる。
誰だって自分の人生を主観で生きているし、それをあらゆる意味で、主人公として解釈している。
――むしろ、そう思わなきゃ、生きていけない
誰だって自分を人生の主人公だと思うことで、主観で見えている映像を理解し、記憶の前後関係に意味を見出し、意思を持って決断することができる。
人は「主人公」という考えなしに生きていけないのだろう。
誰でも自分に都合よく、何らかの物語を参考にして生きている。
誰に頼まれたわけでもないのに、人々はひたすら自作自演を繰り広げながら、社会の中を生き抜いていく。
古くからの立身出世、自己成長、ラブロマンス。逆境からの一発逆転。強固な憎しみからの怨恨・報復、愛憎入り乱れる人間喜劇。
根拠もあてもなく、明るいのか暗いのかも分かりづらい物語を演じ続けていく。
そうしているうちに、詐欺師の作った分かりやすくて心地よいストーリーに誘い込まれて、体よく騙される。
ドンマイ!
◇
正直に言うと、おれはそれどころじゃない。
おれの人生が一つの物語だとしたら、そいつはあまりにも杜撰だ。
時系列もないし、交友関係もどこかにブッ飛んでしまっている。
どこかに人生の目的があったところで、果たすこともできない。
永山の言っていた気持ちも少し分かる。
何かに騙されながら、何かを思い込まされながら、生き生きとして生きていられる人間が羨ましい。
◇
詐欺に騙されるような人間は、どこか奇妙だ。
思い通りになることを前提にして、思い通りにならないことを嘆いている。
やはり頭が悪いのかもしれない。
生まれる時代も、生まれる地域も選べないという理不尽極まりない状況で生まれておきながら、思い通りにいくことを前提にできるなんて、考える順序すらあやふやで、おめでたい限りだ。
――嘆いているその時点で、すでに人生を満喫していないか?
単純におれはそう思う。
人生にまつわるあらゆる謎を、分からないことだらけのまま都合よく忘却して、自分が存在していることを自然な出来事としてまるごと素直に受け入れてしまっている。
正直、羨ましい限りだ。
――だって、おれなんて、どういう経緯で今の家に住んでいるかすら、分からないんだぜ?
いっそのこと、考えるのもやめたいくらいだ。
この気持ちに同情できる人間がいるなら、今すぐおれを抱きしめてほしいくらいだ。
◇
歩きながらだと考え事もはかどる。
おれはひとまず、街の中心である駅前まで歩くことにした。
近道をしようと近所の公園の中を通り抜けている時に、奇妙な光景を目にした。
ベンチの脇で、2人の太ったおっさんが立ちながら、ベロを絡ませるように夢中でキスをしていた。おまけに2人とも素っ裸だった。
おれは状況を整理できないまま、そこを通り過ぎた。
◇
おれは振り返って確認しようと思ったが、やめた。
おれが出歩くのが久しぶりすぎたのかもしれない。
世の中がガラリと変化しているような気がする。
それにしても、あれは真っ昼間に人前ですることなのだろうか? それとも、ありのままの姿、本当の自分らしくいることが、世の中では推奨されているのだろうか?
ありのままの姿って、つきつめると、素っ裸のことか……。
おれは判断を保留して歩き続けた。
◇
街の中心に近づくにつれて、人通りが増えて賑やかになってくる。
ふと路地裏を眺めると、薄汚れた雑種犬が、白い小型の犬にのしかかって交尾をしているのが目に入った。
おれは犬種には詳しくないが、茶色く薄汚れているのが雑種で、白い犬が血統書付きの犬のように見える。
犬同士に愛情や同意という概念があるのかは分からないが、人間の目から見ると、白い犬がレイプされているようにも見える。
パッと見、不健全な光景にも見えるが、実情は分からない。
人間の価値観を一方的に犬に押し付けるのもよくないだろう。
おれは再び判断を保留して、そこも通り過ぎた。
◇
さらに、すれ違う人たちの格好を眺めていると、全身シルバーの洋服のコーディネートが目立った。カバンまでシルバーで、あちこちに眩しく光を反射している。
パッと見、宇宙人のコスプレのように見える。
――いまのファッション業界やセレブたちは、こういう宇宙的な格好を流行らせているのか?
頭にアルミホイルを被せたような丸い帽子が目立つ。
春の日差しを謳歌するように、チラチラと輝いている。
おれの疑問は尽きなかったが、着るものは人それぞれでいい。
おれは街の中心に向けて歩き続けた。
◇
――なんだか、調子が狂っているような気がする。
昨日、本物の詐欺師と社会の本質について語り合ったせいだろうか。
ちくしょう、詐欺師のヤローのせいで、調子が出ねえ。
それとも、世の中ってこんな感じだったっけか?
おれは歩いた。
◇
ようやく駅前まで来た。
駅ビルにある巨大なスクリーンでは、ニュースが流れていた。
おれは信号を待ちながら、それを見上げた。
どうやら環境活動化が美術館に乗り込み、絵画に向けてペンキを投げつけたらしい。
そして間髪入れずに、その環境活動家に向かってペンキを投げつけて、絵画にペンキを投げつけた環境活動家とまったく同じ主張を叫ぶ、新たな輩が登場したらしい。
ちなみに、両者は面識もなく、仲間ではなかった、とニュースは伝えている。
なるほど。
ニュースを聞く限り、まるで多重事故のような混沌としたありさまだ。
――どういうことだ? 活動家の主張を奪い取る、新手の便乗犯か?
だとすると、何かにペンキを投げつける行為の意味って、なんなんだ?
さすがにおれの頭も混乱してきた。
気づいたら信号が青になっていたので、おれは急いで横断歩道を渡った。
◇
駅前の広場では何かの集会が行われていた。
おそらく政治的な主張だろう。男たちが寄り集まって声高に何かを叫んでいる。
おれは興味もないので、その脇を通り抜けようとした。
その時に叫びが耳に入ってきた。
――僕たちはこれまで、ブサイクとして生まれ、ブサイクとして育てられてきました。しかし外見とは裏腹に、僕たちの心はイケメンだと感じながら生きてきました。物心がついた頃から、ブサイクとして扱われること、ブサイクとして過ごすことに、ずっと違和を感じてきました。しかし、僕たちの心は常に、純然たるイケメンでした。心に正直なまま、イケメンとして社会で生きていたいと思ってきました。しかし、社会は僕らにそれを許しませんでした。そのせいで、僕らは心と外見が常にちぐはぐで――。
おれは急いでその場を通り過ぎた。
さすがに勘弁してくれ……。
世の中が便乗に溢れて過ぎている……。
◇
おれは身を隠すように近くのコーヒーショップに入り込み、アイスコーヒーを注文して席についた。
歩き続けた末に、ようやく一息つくことができた。
やれやれ、色々と酷いものを見かけた気がする……。
◇
窓の外を眺めていると、さっきの集会の集団が解散したのか、群衆がぞろぞろと移動している影が見えた。
おれはアイスコーヒーを飲んだ。
人混みを抜けた安堵感も相まって、なかなか濃くて美味しく感じた。
◇
おれは椅子の背もたれに寄りかかり、アイスコーヒーのストローを見つめた。
街を歩きながら痛感した。
自分の知らないことが増大している。
長らく家に居過ぎたような気がする。
しかし、社会そのものに用事がなかったのだから、しょうがない。
◇
おれはコーヒーの苦味を堪能し、それからため息をついた。
――金が無くなったら、おれは終わる。
そんな考えがふと脳裏によぎった。
思えば、自分がいつものように元に戻り、所持金は使い切ったまま元に戻らない、ということだってありうる。
ただでさえ、わけのわからない状況なわけだから、いつかそんな状況がおとずれても不思議でもない。
そうなると、金が手に入らない以上、そこからのおれはひたすらに飢えた状態に身を晒されることになる。
人類史を遡る貴重な体験、もしくは、ちょっとした地獄チャレンジだ。
それでもおれは、そいつを楽しむのだろうか。
もちろん、死にたくても死ねない。殺されたくても、誰も殺してはくれない。
永久に気絶するまで、おれはループし続ける。
◇
おれは疲れと途方もない暗い孤絶を感じながら、アイスコーヒーを飲み干し、席を立った。
久しぶりの遠出は、どんな気分を味わおうと、新鮮なものだ。
おれはコーヒーショップを後にした。
◇
駅構内を歩いたが、人が大勢いた。
前世のおれが感じていた、社会のうねりのようなものが、そこにはある。
この人たちが何を目的に生きているのかは知らないが、傍から見ていると、いかにも充実しているように見える。
しばらく人の流れを眺めた後に、おれは踵を返した。
◇
その時、見覚えのある人を見かけた。
その人は駅の柱のそばに立っていた。
――どうしてこんなところにいるのだろう?
おれがよく見知っていた人がそこにいた。
忘れるはずもない。
「琴美おばちゃん――?」
おれは思わず声を掛けた。
その人は遠い目をしながら、こちらを見返した。
おれに気がつくと驚いたように目を見開いた。
それから、彼女は20年前と1ミリも変わらない姿で、にっこりと微笑んだ。
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