#8 暇と猫のために釣りをする




 短い眠りから目を覚ますと、外の景色は夏に変わっていた。


 庭には爽やかな初夏の日差しが降り注いでいる。


 おれは布団から起き上がると、急いで廊下のスーツケースを見に行った。



        ◇



 案の定、小野山環が廊下の隅に置いていったスーツケースは消えていた。


 実際にスーツケースの中には金が入っていたのだろう。


 正直、おれは安堵した。


 これで管理の責任を問われなくて済む。


 それから、おれは部屋に振り返り、ひとつ気がついた。


 猫がこちらを見ている。


 繰り返しの前に裏庭で拾い上げた猫は、居間でくつろぎながら何事もなかったかのように、あくびをした。



        ◇



 どうやらこいつは、おれの繰り返しに関係なく、家の中に居続けていたように見える。


 季節が一瞬でガラッと変わったというのに、平然としている。


 もしかすると、おれの繰り返しと一緒に、同じ時をさまよったのだろうか?


 どうやって?


 理由は分からないが、そんな気がする。



        ◇



 万が一、この猫がおれの繰り返しについてきたのだとする。


 だとすると、ひとつ問題がある。


 この猫はこれから、通常の猫とは比べ物にならないくらいの年月を過ごすことになるかもしれない。


 途中でおれの繰り返しから離脱するか、おれが死なない限り、同じような時間を生き続けることになる。


 猫は時間をどう捉えているのかは知らないが、こいつはそれで平気なのだろうか。


 繰り返しの果てにいつか、化け猫にでもなりそうな予感もする。



        ◇



 猫がいま何思っているのか顔を近づけて表情を確認してみたが、まるで無反応だった。


 コイツはおれに全く興味がないように見える。

 

 本心は分からないが、おれの存在を見下していそうな雰囲気だけは、ちゃんと伝わってくる。



        ◇



 おれは再び猫の顔をじっと眺めた。


 すると、猫は冷たい表情でジロっと睨み返してきた。


 もしかしたら、お腹が空いているのかもしれない。


 おれはそう推測した。



        ◇



 あいにく家の中に猫が食えそうなものは無かった。


 おれは猫の気分を害さないように、わざわざ近所のドラッグストアに出向き、猫の食い物をひと揃い買ってきた。


 念の為、猫砂も買った。家の中を糞まみれにされては困る。


 意図せず、繰り返しのたびに買い揃えるべきものが増えてしまった。



        ◇



 缶詰を皿に開けて差し出すと、猫は黙って皿に詰め寄り、ぱくぱくと食い始めた。感謝しているような様子も微塵も感じられない。


 ずいぶんと太えやつだ。


 おれはしばらく、猫が食い物にがっついている姿を眺めた。



        ◇



 しばらく猫が飯を食い進める様子を見届けながら、おれはふと思った。


――猫は人と喋れるようにならないほうがいいかもしれない。


 きっと、こいつらは人間に対してろくでもないことしか考えていない。


 <あほ面><低能><口臭きついから顔近づけんな><こいつらうぜえな><飯もろくに用意できない使えねーやつ><オレの糞以下><奴隷><ネズミ臭い>人間が人間に対してもそうそう思いつかないようなことも平然と、猫特有のとぼけた表情で無邪気に考えているかもしれない……。


 ある日突然、世界中の猫が喋れるようになったら。各地で、猫が飼い主に蹴飛ばされる事案が発生するかもしれない。


 それまで人間に都合よく内面を推測されてきた猫たちの本当の姿が露わになる。


 人間関係に疲れ果てて猫を飼い始めた人は、心底可愛らしいと思っていた飼い猫の本性に触れ、心の拠り所を打ち砕かれ、白目を剥いて発狂してしまうかもしれない。


 人間と猫は、お互いの平和のために正しい距離を保ち続けるよりほかはない。


 人間は手を差し出し、猫は前足を差し伸べる。



        ◇



 猫は飯を食い終わると、皿から離れ、居間に移動し、再びくつろぎ始めた。


 もちろん、猫は自分で皿を片付けたりはしない。


 おれはそんな猫の後ろ姿を眺めていた。


 いつの日か時間軸がぶっ壊れたコイツは、この輪郭を膨張させて巨大化し、化け猫として人間を襲うだろう。仲間の猫たちも丸呑みにするかもしれない。


 最初のターゲットは、最も手近にいる人間だろう……。


 そんなことも想像した。



        ◇



 さて、そんなどうでもいい理由から、おれは魚釣りを始めることにした。


 釣れた魚を持ち帰り、この猫に捧げることにしよう。


 いつかコイツが化け物になったときに、少しでも慈悲を願えるように。


 猫は犬のように恩を覚えていてくれるかどうかは分からないが。


――という理由が半分。あとはおれ自身が再び暇を感じたから、という理由がもう半分。



        ◇



 おれは早速、釣り道具を買い揃え、海に出向いた。


 移動のために自転車も買った。


 おれの家から30分ほどの場所に堤防があり、いつか通りかかった時に釣り人を見かけたことがある。



        ◇



 おれは堤防に着くとすぐに釣りを開始した。


 堤防の先端には、爺さんが2人。


 おれは堤防の先端に行くと、軽く会釈した。


 爺さんたちは嬉しそうに挨拶を返してくれた。



        ◇



 おれは人生で初めて、釣りというものと向き合った。


 人と魚の真剣勝負。気の抜けない駆け引き。


 そして無事に、何も釣り上げることなくおれは帰宅した。


 アタリすら無かった。



        ◇



 家に帰ると、猫は相変わらずおれを見下したような一瞥をくれ、それからすぐに目をそらした。


「待ってろよ。次は釣って帰ってくるからな」おれは猫に宣言した。


 猫はもちろん、それを無視した。



        ◇



 それからしばらく、おれは堤防に通い、釣りと向き合った。


 爺さんたちは常連なのか、いつも堤防の先にいた。


 おれはと言うと、3度目の釣行で見事、カサゴを釣り上げることに成功した。


 堤防の際にルアーを落とし込む方法で釣り上げた。


 カサゴは気がついたときには既にルアーに食いついてきていた。


 堤防の際というのは、魚たちの居場所になっているらしい。



        ◇



 おれはカサゴを家に持ち帰ると、さっそく捌いた。


 三枚におろして、半身を細かく切って猫に与えた。


 残りは鍋に入れ、味噌汁にして自分で食べた。


 なかなか美味しく食べることができた。


 猫は好き嫌いもなさそうで、切り身を綺麗に平らげてくれていた。


 恩を感じてくれたかどうかは分からない。



        ◇



 釣りそのものに暇つぶしの妙味と奥深さを感じたおれは、それからも足繁く堤防に通った。


 爺さんたちとも仲良くなった。


 ある日、堤防に行くと、いつもよりコンクリートが汚れていた。


 コンクリートの一部が血痕のように赤黒く染まっている。あちこちに空になった釣具のパッケージが散らばっている。


 よく見ると、干からびてミイラのようになったフグの死体も転がっている。



        ◇



 おれはいつものように堤防の先にいる爺さんたちに挨拶をした。


 おれが汚れていた箇所を振り返ると、爺さんたちは言った。


「まったく困っちゃうよ」その爺さんはゴミが散らばっているあたりをアゴで指しながら言った。「マナーの悪い人が来ると、すぐこれだ」


 おれは頷いた。


「これまでだって、ここいらの漁師さんたちとの暗黙の了解でやらせてもらっていたっていうのに、あんなことされたらすぐに立入禁止にされちゃうよ」


 おれは理解した。


 海を汚すには、マナーの悪い人間が一人いれば十分らしい。


 おれは帰り際に、魚を持ち帰るためのビニール袋に散らかっていたゴミを拾い集めた。


 フグの死骸は海に戻してやった。勤勉なエビや微生物が分解してくれることを願って。



        ◇



 その日以降も、散らかした本人を目撃することはなかったが、一応、気には止めておいた。


 おれは釣り糸を垂らしながら、ルアーをこまめに動かした。


 ルアーは軽やかに揺らぎ、光を反射させながら魚の興味を引く。


 段々と魚が居るときと、居ないときの感触が分かるようになってきた。


 おれは釣りをしながらも、頭の隅では別のことを考えていた。


――しかし、どこに行ってもマナーの悪い人間はいるもんだな


 正直、感心すらしていた。


 日に照らされた潮風が妙に心地よかった。



        ◇



 世の中には、マナーに反した行為を自己表現、自己確認の手段として考えている人間が少なからずいる。


 どんな人間か?


 簡単だ。


 思春期で反抗期を迎えている人間を想像するといい。


 そいつらに「ちゃんとマナーを守れ!」と言っても、無駄だ。


「じゃあ、おれらはどうやって自分らしさを保てばいいんだよ?!」そう言い返される。


 前提が噛み合っていないわけで、もちろん話は通じない。



        ◇



「自己表現なんか、他でやれ!」とお怒りの人間も出てくるかもしれない。


 だが、そもそも、そいつらには他の選択肢が用意されていない。


 それまでの人生で、他人と比較されながらも、社会から自身の能力も魅力もひとつとして認められることなく、ようやくここまで流れ着いてきた。


 人目を引くことのできる、唯一の選択肢。


 他人にできないことが、自分にはできる、という充足感。


 ある種の信仰心と言っても差し支えないだろう。


 それが、マナーの悪さだ。



        ◇



 どうしておれが詳しいのか?


 転生して、社会的繋がりからばっさり切り落とされてしまった当初のおれは、世の中を顧みないくらいに度を失っていたからだ。


 何をやっても、どうせ元に戻される。誰とも関わりがない。


 その時のおれの心の中は、透明人間になったような全能感で溢れていた。


 たとえ目の前で無差別殺人が起きたとしても、それを複雑な社会に対する倫理度外視の意思表示として、おれは素直に受け止めたことだろう。


 おれは飲食店の看板を蹴り割り、工事現場の看板をヘコまし、掲示物を引き裂いた。ネオンサインに石を投げつけ、粉々にした。


 目に飛び込んでくるメッセージというメッセージがすべて気に食わなかった。


「他人が呼吸しているの見るだけでムカつくな……」


 そんな当てつけな言葉を呟きながら、おれは夜の街を練り歩いた。



        ◇



 しかし、おれはパタリと横暴な行為をやめた。


 単純に、行為の意味のなさを理解したからだ。


 ある日突然、おれは自分が社会との関わりがなくなったことを、そのまま純粋に受け入れた。


 おれにはそれが出来た。おそらく自分が巻き込まれている状況がぶっ飛んでいたことが幸いしたのだろう。


 おれは置かれている状況に対して、自分が無力であることを受け入れた。


 しかし、何事もなく時間が過ぎ続けていく人間に、それはできないかもしれない。


 いつまでも、だらだらと社会と自分の関わりを探り続けていくしかない。


 道の上では、誰かが吸い殻の入った空き缶を蹴飛ばす。



        ◇



 世の中には、もはや綺麗な花が咲かないと分かっていながら、それでも死なないように育て続けるしかないという境遇の人間がいる。


 おそらく大勢いる。


 そんな人間には、世の中に対して悪態をつく以外に差し出せるものは何も残っていない。


 一体、その惨めさを誰が救えるだろうか?



        ◇



 誰かの悲しみに寄り添うことはできても、惨めさに寄り添うことはできない。


 大切な人との死別? 愛犬との別れ? 失恋?


 そこに照明を当てると、切なくキラリと光るものがある。その光は儚げで美しく、いつか人々の心の糧にもなる。


 貧乏? モテない? 虐げられている? 生きるのが辛い?


 なぜかそこに光を当てても、あまり光を跳ね返してこない。


 ボンヤリとしている。


 目を凝らして見ることで、ようやく生々しくジットリとした感触が伝わってくるだけだ。それは動物の死体と同じく、破れた腹を触るとヌメり、表面をなでるとザラつき、指で押すと固くぶよぶよしている。


 悲しみをドラマにするとカタルシスが生まれるが、惨めさをドラマに取り入れてもたいした起伏もなく、煮えきらない気持ちが残るだけかもしれない。


 共感こそできるだろうが、そこに救いはない。


 悲しみは時間の経過や、受け止め方を変えるだけで、和らげることができる。


 しかし惨めさを失くすには、状況そのものが変化するか、すべてがどうでもよくなるか、その二択しかない。


 どんなに心を前向きにして笑顔をたたえても、貧乏人は貧乏人のままだ。


 惨めさはそいつの社会性と絡み合っている。動脈にできた瘤と同じだ。


 どんなに強力な麻薬を使って意識をぶっ飛ばしても、惨めな状況は消えてくれることがない。


 そして再び気がつくと、惨めさはそいつの真横で微笑んでいる。

 


        ◇



 現実では、悲しみよりも惨めさに鉢合わせることのほうが多い。


 惨めさを悲しみと同じくらいに浄化できる装置を作り上げたら、ノーベル平和賞は確実にもらえるだろう。


 天国と呼ばれる場所には、そんな装置があるのかもしれない。巨大な空気清浄機のようなものだろうか。


 とにかく、おれは大声で言いたい。


――ドンマイ! なんと言うか、人って誰かに迷惑を掛けてまで前向きでいる必要もないんじゃないかな。あなたに価値をもたらさない価値観なんて、とっとと捨て去ったほうが身の安全だと思うよ。そいつで判断を下したってどうしようもないんだからさ。いやー、ドンマイ・ドンマイ!


 申し訳ないが、それしか言えない。



        ◇



 考え事をしていたせいで、おれは危うく堤防から落ちそうになった。


 背中と太もも裏の筋肉を全力で力ませ、なんとかこらえようとしたが、おれはそのままザボッと海に落ちた。


 釣り竿は、落ちる拍子に堤防の上に放り投げていた。


 耳元で泡の弾ける音が聞こえる。


――海を泳いだのはいつぶりだろう?


 堤防の先の爺さんたちが自分の釣り竿を置いて、不思議そうな目でこちらに駆け寄ってきた。


「おーい、何やってるんだ? 大丈夫か?」


「ええ、はい。大丈夫です」おれは水を掻き水面に浮かびながら答えた。


 いっそのこと、このまま海で暮らそうかと思ったくらいだった。


 ずぶ濡れになったおれは、その日の釣果をあきらめて家に帰ることにした。



        ◇



 家に着くと、見知らぬ男が居間にいた。


 痩せて銀縁のメガネをかけている中年の男だった。


「あの〜、どちら様でしょうか?」おれは率直に尋ねた。ついさっき海に落ちたせいで、おれは動じることなく相手の存在を受け入れていた。


「永山」その男は答えた。


「すみません、さっき海に飛び込んだので、風呂入っていいですか?」おれは聞いた。来客よりも先に、まずは着替えたかった。


「え? ああ、構わないよ」永山と名乗った男は了承してくれた。

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