#7 突然の訪問客、おおいに語る




 その女は、大きなスーツケースを片手に家に入ってきた。


 寝室の天井裏から顔を引っ込め、居間を見渡したおれと目が合った。


 その女は丸く目を見開いて、おれの方をじっと見上げていた。自分よりも身分の低い人間を検分するような、乾いた眼差しだった。


 その女の年齢は分からなかった。


 ベージュのロングコートを着ており、年格好は高校を卒業したてのように見えるが、30代後半にも見える。



        ◇



「あ、どうも〜。また荷物置かせてもらいますね」その女は明るい声で言った。


――ただいま? この人は入るべき家を間違えていないだろうか。


 おれは黙って小さく頷いた。というよりも、声が出なかった。


 おれはこの家に誰かを招き入れたことは一度もない。


 その女はおれを見上げた後、テーブルのそばにいた猫を見下ろし、会釈をした。


「こんにちは〜。あれ? 前から猫さんっていましたっけ?」その女はおれに尋ねた。


「いまさっき、庭の裏にいました」おれは答えた。かろうじて声は出た。まるで急に警察官に声を掛けられたような気分だった。



        ◇



 その女は廊下の隅に大きなスーツケースを置いた。


 ロングコートを脱いで折りたたみ、そのスーツケースの上に乗せた。


 それから居間に入ると、テーブルのそばに座った。


 いましがた近所で日用品の買い物を済ませて自分の家に帰ってきた人間のような、自然な動作だった。


 この人はここを自分の家だと勘違いしているのだろうか?


 もちろん、おれは何ひとつ合点がいかなかった。



        ◇



 そうして結局、おれはなぜか、湯を沸かして、お茶を淹れ、見知らぬ客人を迎えることになった。


 おれはキッチンのコンロの脇に立ち、じっと湯が沸騰するのを待った。


 その間、その女は瀟洒なレストランで旧友を待ち合わせている人間のように、居間の景色をゆっくり見回しては、懐かしそうに頷いていた。


 もちろん、この家は由緒ある建造物ではない。おれはついさっき家の隅々まで見回したばかりだ。



        ◇



 聞きたいことがたくさんありすぎて、何から聞いて良いのか分からなかった。


 女がおれの存在に動じているような気配はまるでない。この家に落ち着きを感じて、くつろいでいる。


「どうぞ」おれは、ほうじ茶を淹れた湯呑みを慎重にテーブルの上に置いた。


「あ、ありがと。でもこれ以上は、お構いなく。すぐに退出するので」その女はニッコリと微笑むと、お茶を一口啜り、首を横に振りながら答えた。なにやら忙しそうな人だ。


 おれは仕方なく、その女の対面に座った。それからお茶を一口飲んだ。



        ◇



 相手を見たが、何も分からない。


 顔をよく見ても、なにかを思い出せそうな気もしない。


 どうやら、おれは長らく誰とも会っていなかったせいで人の顔を表す言葉を忘れ始めているようだった。


 その女の顔をどう言い表したらいいのか、よく分からない。


 しかし、かつて進学校の高校に行った頭の良い同級生のなかに、この人と似たような顔立ちの人がいたような気はする。


 まっすぐにこちらを見据える目つきは、愛嬌というよりは、野生のマーモットのような太々しさを感じさせる。眼差しからこの人間の我が強そうなのが伝わってくる。


 とにかく、おれはこの人には一度も会ったことがない、はずだ。



        ◇



「今更こんなことを聞くのもなんですが、初めてお会いしますかね?」おれはその女に向かって正直に尋ねた。


「え? わたし?」その女は驚いたようだった。


「はい、申し訳ないのですが、最近、物忘れが酷くなったのか、誰かと会ってもその人の顔を覚えられなくて……」おれは続けて正直に言った。自分で言いながら、まるで老人そのものだなと思った。


「ええと、わたし……あ、そっか。前回ここに来たのも、何年前になるのか」その女はなにやら自問自答し、それから聞き返した。「ええと、あなたは?」


「僕は、平井って言います。平井悠斗(ひらいゆうと)。しばらく前からここに住んでます」おれは答えた。


「わたしは、小野山環(おのやまたまき)」その女は言った。「注意散漫な元アーティストで、いまはフェミニストの活動家」


 もちろん、そのようにプロフィールを説明されても、ひとつもピンと来なかった。


「そして、ここはわたしの元旦那の家だったはず……」小野山環は言った。



        ◇



――元旦那の家?


「いまは、一応、僕の家なんですけど……」おれは言った。


「そうみたいね。ただ、受け渡しのときに、色々と条件は提示されているはずだと思うけど?」小野山環は、記憶を呼び起こそうとでもするようにおれの目を覗き込んだ。


――条件?


 もちろん、そんな記憶はおれにはない。



        ◇



 話を聞きながら都合よくおれの頭の中でフラッシュバックが起こりそうな様子もない。


 おれはお茶を一口飲んだ。


 散々ひとりで変な状況を目の当たりにしてきたから分かる。ここはひとまず落ち着くしかない。



        ◇



「ごめんなさい、で、とりあえず、しばらく荷物を置かせてもらえるかしら? あなたへのお願いとして」小野山環はスーツケースを指差しながら、おれに尋ねた。


「ええと」おれは困惑した。家の中にスーツケースを一つ保管するくらい、とくに困ることもないが、相手の事情はまるで分からない。信用して良いのかどうかも分からない。


「わたしも、繰り返しているうちに、家主が変わっているなんて思ってもいなかったから」小野山環はそう言いながら肩をすくめた。


 繰り返し。


 小野山環は当然のことのように、その言葉を口にした。



        ◇



「まあ、荷物なら別に構いませんよ」おれは言った。それよりも聞くべきことができた。


「ありがと。それでさあ、聞いてほしいんだけど?」


「ええと、それよりいま、繰り返しって言いませんでしたか?」おれは率直に切り込んだ。


「繰り返し? んー」小野山環はおれから目をそらして口ごもった。


「それについて詳しく教えてくれませんか?」おれは嘆願するしかない。


「いいけど、わたしの話も聞いてくれない? そうだ、聞いてくれたら答えてあげる」小野山環は条件を提示しながら、微笑んだ。


 それで構わない。


 おれは頷き、小野山環は話し始めた。



        ◇



 小野山環の話は、おれが聞いてピンとくるようなものではなかった。


 ただの、最近の小野山環の個人的な話だった。


 世の中には自分のことを一方的に話したがる人間ばかりがいるのかもしれない。


 そして、それを聞いて承認してくれる友好的な話し相手は不足しているのかもしれない。


 おれはそれを黙って聞くしかなかった。



        ◇



「でさ、わたしって前から、主語がデカイことで有名じゃない?」小野山環はおれに確認した。


 おれは何も言わずに小さく頷いた。だが、そんなことはもちろん何も知らない。


「でも最近、デカイ主語を使うのやめようと思って……。なぜか人に会って色んな話をするたびに、ポカンとされるわけ」小野山環は自分の口を開けてポカンとしてみせた。


 おれは黙っていた。話を早く終えてもらうには、黙って聞いているのが一番だ。


「なんでかなって思ってて、それで、相手の反応をよく見てると、人ってデカイ主語で話しかけられると、話の内容より、その人の器の大きさが気になってくるらしいのよ。ねえ、分かるかしら……」小野山環はおれに理解を求めた。


「なんとなく分かるような気はします」我ながら最も素晴らしく無難な返事をした。


「わたしが、『世界が――』なんて話したら、もう終わりよ。人によっては『世界? それはまた、ずいぶんと狭い世界ですねえ――』なんて言い返してくる。ほんと、その言い返しは頭にくるけど、繰り返しているうちに、その気持ちも分かってきた」


 繰り返し。


 おれは頷いた。



        ◇



 小野山環はそこからも熱く語った。おれは内容については詳しくなかったが、自身の活動についての話だった。


「あなたはフェミニズムになんて全く興味なさそうな顔してるけど――」小野山環はそう前置きした。


 急にそう言われてしまうと頷きようもなく、どう返答したらいいのかもよく分からなかった。おれは黙って聞いていた。


「それで、これも最近になってやっと分かってきたの。根本的に自分が間違っていたんじゃないかって」


「ほう」おれはテーブルの上で両手の指を組みながら言った。もちろん、あくまで姿勢だけで、自分の心は前のめりにはなっていない。


「わたしは困っている人を応援したいわけ。それも特に女性なんだけど。でも、女性ってひと括りにした瞬間から、配慮のないジジイみたいになっちゃっていたわけ」


 おれは眉間に軽くシワをよせて頷き、共感の意を示した。


「だって普通に考えれば分かるじゃない? 人って感じ方が一人一人違うわけでしょ。生理痛だって、あんまり気にせず対処できるくらいの女の子もいれば、毎月毎月最終ラウンドのボクシング選手みたいにフラフラになる子もいるわけ。どれだけ頑張れるかなんて人によって全然違う。産後復帰の早さだって、そんなの一人一人違うに決まってる。それだけの話」


 小野山環は続けた。


「なのによ、それが『生理痛』とか『産後復帰』って言われた途端、なんだか一緒にされてしまうじゃない。全然違うことなのに、同じものだと思われちゃう。そのうちに『生理休暇はどこからがズル休みか?』みたいなアホ丸出しの疑問を作り出すバカが出てくるんだけど、もう、そんなことを聞いたら、ため息しか出ないわけ。そんなの人によっても違うし、時期にもよっても変わる」小野山環はおれの前で、実際にため息をついてみた。


「で、最悪なのが、それを知っているはずの女同士で『わたしならそれくらい平気だったけど?』『〇〇さんなら、すぐに復帰したけど?』なんて考えちゃう人もいるわけ。そんなことを言われたら、もう誰にも救いようがないでしょう? なまじ自分の体感として完全に理解していると思っちゃうと、他人のことも全く同じだと考えちゃうのかな? どう? わたし難しいこと言ってるかな?」小野山環は急におれに問いかけた。


「そ、そうっすね」おれは同意した。少し油断していた。「難しいっすね」


「だからこそ、女性なんて言葉でひと括りにしてはいけないの」


「じゃあ……言葉を使わずに、どうやって人とやり取りすればいいんですかね?」おれはつい余計なことを言ってしまった。


「そうなの。どうすればいいの?!」小野山環はおれの手をガッチリ掴んだ。


「さあ、僕に聞かれても……」おれは答えた。それからテーブルの上から手を引いた。



        ◇



 小野山環は咳払いをしながら、居住まいを正した。


「でも、それに気づいたおかげで最近は、前よりも困っている人を実際に助けられるようになってきた。相手のことに共感して、それから、わたしの言いたいことを共感してもらって、わたしはいつでもスムーズに元の居場所に戻れるようになった。いまはそうやって繰り返し人助けをしているところ」


 元に戻る?


「元に戻るって、どういうことですか?」おれは思わず尋ねた。


「あ、そうそう。そうなの。わたしって誰かに自分のことを共感してもらうと、なぜか元の場所に戻されて、それを繰り返すの。んふふ、言ってる意味分かんないでしょうけど」くだらない冗談でも言ったように小野山環は笑った。


 おれは頷いた。それから首を横に振った。


「いや、分かります。めちゃくちゃ分かります」


 おれはそう言った。


 小野山環は眉をつり上げながら、おれを見返した。



        ◇



「あっ、そうなの……」小野山環はたいして驚かなかった。それから家の中を見回した。


 おれは小さく頷き、相手の反応を待った。


「てことは、じゃあ、わたしの話もよく分かってくれたわけね!」小野山環はにこやかに言った。


「ええと、まあ、はい」おれは仕方なく返事をした。


「そんなわけで、わたしは世界中に向かって、それを実行しているわけ。困っている人を助ける。共感してあげる、共感してもらう。何度でも繰り返していれば、いずれ全員に挨拶できるはずだわ。総当りで行くつもり。わたしは実際に行動するの。そこらの理念をお披露目しただけで満足するような活動家とは、全然違うってわけ」


 小野山環はそう言いながら立ちあがった。



        ◇



「それじゃ、この荷物はよろしくね」小野山環はスーツケースの上のロングコートをつかみながら言った。


「これ、どうすれば……」おれは慌てて聞いた。


「置いといてもらえばいいわ。色んな人たちからお礼で貰ったものが入ってるから」小野山環はロングコートに袖を通しながら言った。


 おれは黙っていた。


「そうそう、もしわたしが何十年もここに帰ってこなかったら、全部自分のものにしちゃっていいわ。貴重品だって、お金だって入ってるから適当に処分しちゃってちょうだい」



        ◇



 小野山環は玄関口で靴を履くと、こちらを振り返った。


「ところで、あなたは何回目? 繰り返し」小野山環は聞いた。



        ◇



「さあ、ええと、覚えていないですね」おれは答えた。考えてみたが、最初から数えてすらいない。自分の身に何年の月日が流れたのかも思い出せない。


「あっそう。わたしも忘れちゃってるかも。数万回はいったかな? ごめんね、わたしも自分のことよく分からないの。ただ、覚悟があるだけ」


 それじゃあね、と言いながら小野山環は家から出ていった。


 来た時と同じくらい、あっさりと出ていった。



        ◇



 おれは玄関に立ちながら、ため息をついた。


 何も具体的な話を聞き出せなかった。


 一方的に話をされただけだった。


 それでもまあ、ひとつだけ分かった。


――この世界には自分と同じように繰り返しを経験している人間がいる。



        ◇



 おれは小野山環のスーツケースを廊下の一番奥に移動させた。


 おれは疲れたので一休みすることにした。


 実際に疲れていた。


 人の話を聞かされるのは、疲れる。


 とりわけ、自分のことだけを勢いにまかせて一方的に話すような人の話は。



        ◇



 おれは居間のテーブルの下を覗き込み、猫がまだくつろいでいる姿を見届けた。


 こいつはもう外に出る気を失ったのだろうか?


 おれはそのまま布団に寝そべり、短い眠りについた。

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