第6話 十五年前の勇気

(十五年前の勇気)


 それは、十四年前のこと、鈴子は大学生、山歩きに夢中だった。


 いつもはサークル仲間と登るのだが、この時に限って一人で登っていた。


 そして、白馬岳からの帰り道、あと一時間半も歩けば下山といったところで、木の突き出た根っこに引っかかったのか転倒……


 疲れが足に来ていたのかもしれない。


 足首をひねったか、骨折か分からないが、痛くて歩けない。


 両手に持ったストックで体を支えて歩こうとするが、この急斜面、三本足では難しい。

 それでも、這うように、少しずつ進むが、余りにも時間がかかる。


 そのうち、日も陰ってきて、うす暗く、夕暮れ時が迫っていた。

 心細さと、足をくじいてしまった悔しさと痛さで、涙が止まらない。


 そこに通りかかったのが、大野将だった……


「足、挫いたんですか?」


「ちょっと、どじってしまって……」


 鈴子は、泣いている顔と、みじめに歩く姿を見られたことで、恥ずかしくて、まともに男の顔を見られなかった。


 でも、人に会えたことで、不安な気持ちが、ひとまず消えたことは、不幸中の幸いだった。


「もうじき、日も暮れますよ……」


「でも、ヘッドランプは持っていますので、大丈夫です。それに夜歩くのは慣れていますから」


「まだまだ、これから急なところが、ありますから、ちょっと一人では危ないですねー」


「ゆっくり、少しづつ降りますから……」


「私におぶさっていきますか? 若いお嬢さんをおんぶするのもなんですが、へんな意味ではないですが、一人にしておくのも心配ですから……」


「いえ、大丈夫です。先に行ってください!」


「そうですか、じゃー頑張って……」と言って、将は先を降りて行った。


 鈴子は、また一人、急な斜面を文字通りお尻を着けながら這うように一歩一歩進んだ。


 しばらくして、将が待っていた。


「荷物、持ちますよ。その方が歩きやすいでしょうー」


「それでは、余りにもご迷惑で……」


「いえ、それくらいしか、できませんから……」

 将は、彼女からリュックを受け取った。


「これは、重いですねー」

 将は、彼女のリュックを背負い、その上に自分の小さなリュックを乗せた。


「すみません、テント泊だったもので、鑓温泉から、縦走してきました」


「それは大変でしたねー」


「でも、天気に恵まれまして、朝、雲海も綺麗に見えました。雷鳥にも会えたんですよー」


「そう、それはよかった。天気の良い日は、なかなか雷鳥も出てこないものですから、運がいいですよ!」


「コケて、足を挫いてもですかー?」


「それは、それとして……」


 将は返事に困った。


「でも、運がよかったですわー、親切な人に会えて……」


「そうですか、そういってもらえると嬉しいですが……」


 でも、この急な傾斜のところを両手ストックで支えて降りるのも至難の業だった。


「あっ、」と思った瞬間、またもお尻からこけて、斜面を滑り落ちた。


「大丈夫ですか?」


「はい、すみません……」


 鈴子は、ストックを支えにして、ゆっくりと立ち上がった。


「やっぱり、ちょっと無理かもしれません。おんぶしていきますか?」


「ええー、すみません……、でも、荷物が……」


「茂みの所に置いていきましょう。明日の朝、私が取りに来ますから、それしかないと思います」


「すみません……」


 ただただ、恐縮して謝る鈴子だった。


「貴重品や、さしあたっての着替えを私の小さなリュックに入れてください」


 将は自分のリュックの中身を茂みに放り出すと彼女に渡した。


「タオルは、持っていった方がいいですよ。下には温泉がありますから」


「でも、この足では入れないかもー、でも持っていきます。こちらに来たのも、天空の秘湯に入るためなんですよ」


「でも、あそこって、脱衣所もない、囲いもない、ただの露天風呂ですよ」


「知ってます。でも、気持ちよさそうじゃーないですか」


「勇気いりますよー」


 将は、彼女をおんぶして歩き出した。


「男の人におんぶされるのも勇気いりますよー」


「それはそれは、そう思ってもらえて、光栄です」


「……、」


「確りつかまっていてくださいよ。それで、余りにも急な斜面は、下りて歩いてもらいますから」


「はい、……」


 それでも、彼女をおんぶしては、なかなか普通には歩けない。

 二人もろとも、こけないように慎重に歩みを進めた。

 蓮華温泉に着いた頃には、すっかり日が落ちて、闇夜に星が輝いていた。


「私、車ですので夜間診療病院に行きましょう」


「えー、この格好でですかー? 山から下りてきたばっかりなので、お風呂と着替えがしたいです……」


「じゃー、先にロッジに入りますか?」


「私、天空の秘湯に行きたいです……」


「今からですか?」


「暗い方が、いいじゃないですか? 裸、見られないから、それに、星がこんなに綺麗だから、星を見ながら入りたいです……」


「……、困ったお姫様だ!」


 将は、彼女をもう一度おんぶして、露天風呂に向かった。


 そして、上と下に二つある露天風呂の上に彼女を置いた。


「僕は下で待ってますから、出るとき呼んでください」


「あなたは、入らないんですか?」


「今、入るとは思ってなかったので、タオルを茂みに置いてきてしまいました」


「じゃー、一緒に入りましょう。貴方も汗になったでしょうー」


「いえ、それは、それで……」


「私は、かまいません……、他に誰もいないし……」


「……、」


「私のタオル貸してあげますから、一緒に使いましょう」


「でも、ちょっと恥ずかしいので……」


「恥ずかしいのは、私の方です。でも、今まで、だいぶ勇気を出すのを使ってしまいました、もうこのくらい平気です……」


「そうですか、じゃー僕は、こっちの方で……」


「いえ、もうー、どうせなら、ここで服を脱がしてもらっていいですか? 下が濡れているようなので、私が自分で脱ぐと濡れた上にしゃがまないとできないので、服を濡らしたくないんです、これしか持ってこなかったから……」


「僕が脱がしていいんですか?」


「あなたしかいないので……」


「ずいぶん大胆なことで……」


「私にとって、男の人に、おんぶされること事態、大変なことなんですよ。今なら、貴方と寝てもいいくらいよ……」


「それは、光栄なことでー」


「さっきも、言ってましたねー」


 将は、彼女の前に立ち服を一枚ずつ丁寧に脱がした。

 ヘッドランプを板のベンチの上に置いていても、彼女の裸はよく見えた。


 彼女は、それから立とうとして、ふらついた。

 片足では、ちょっと難しい。


「僕が肩を貸しますから待っててください」

 将はその場で、急いで服を脱いだ。


「僕の肩につかまって……」

 将は彼女の背中に腕を回した。


「ちょっと滑りそうで怖いわ……。お姫様抱っこしてもらってもいいですわ」


「えー、困ったお姫様だ」


 将はそのまま、彼女を抱えて、露天風呂の淵まで来て、その淵にそっと腰かけさせた。


「もう、入れるでしょうー」


「ええー、ありがとうー」


 彼女はそのまま、湯船に体を沈めた。


 将も彼女の横で湯船に体を沈めた。


「あーあ……、気持ちいいー」

 彼女は両手を上げて叫んだ。


「星空も、こんなに綺麗に見える、やっぱり山はいいですねー」



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