第19話 理想の空間で至福のひとときを……。

 目の前には部屋があった。

 もう一度いおう。

 広々とした部屋があったのだ。


 人間がやっと入れるぐらいの大きさの洗濯機の中には、十畳ほどの広間があった。

 正面の壁は一面が本棚。

 高い天井に、ふかふかの絨毯。

 中央にはソファーとテーブルがあり、その近くにはコーヒーメーカー。

 テーブルにはパソコン、しかもネットにつながっている。

 本棚にはおれが好きな漫画や小説がずらりと並んでいた。

 そして、本棚の前にはさまざまな椅子があり、気に入った椅子で本を読めるらしい。

 部屋の隅には、ベッドもあった。

 程よい柔らかさのマットレスに、おれの好みの堅さと高さの枕、タオルケット。

 部屋は寒くもなく暑くもない、ちょうどいい気温。

 そして部屋にはもちろん、おれひとり。


「なんだこの最高の空間は!」


 おれは思わずベッドにダイブする。

 するとその時。

 ピーピーピー。

 大きな音が響いたかと思うと、扉が開く音がして、いつの間にかおれは広間の外に出ていた。

 見慣れた化学準備室Ⅱの景色。


「あれ?」


 おれがキョロキョロしていると、麗がいう。


「おかえりー! どうだった?」

「あの広間でベッドにダイブしたら、それで戻ってきた」

「じゃあいつの間にか寝ちゃったんだね」

「ってゆーか、この洗濯機の中に、どうやってあんな広い部屋が作れるんだ?」

「ああ、それはね、幻だよ」


 麗は腰に手を当て、得意気に続ける。


「自分が思う最高の部屋で、好きなことが過ごせる。そういう妄想はしたことあるでしょ?」

「そりゃあ、まあ」

「この『心の洗濯機』の中に入るとね、その妄想が実現するの。まあ、それも妄想だけど」

「じゃあ、あの広間はおれの妄想で現実ではない?」

「そうだよ。自分が一番幸せだと思える空間でくつろげるっていう、夢を見られるようなものかな」

「へぇ。それで心が晴れやかになる、と」

「それだけじゃないけどね。あの洗濯機の中には、特殊な薬が充満してて、それをしばらく吸い続けることによって、いい感じに気持ちよくなるの」

「なあ、それ大丈夫なやつか?」

「大丈夫だけど」


 麗はそこで言葉を切ると、少しだけ考え込む。


「まっ、大丈夫だよ!」


 にっこり笑顔。


「今、なんかいいかけてやめただろ」

「いいじゃん、いいじゃん」


 麗がそういっておれの肩をポンポンたたく。


「まあ、いいか」


 おれはそういって笑った。

 こんなに心が晴れやかなのは、何年ぶりだろう。

 とても清々しい気分だ。



「おはよう。本野」


 青山がそういってさわやかな笑顔を浮かべた。


「おはよう」


 おれも、にっこりと笑って見せる。 

 キャー、という悲鳴が上がるのは、青山に惚れた女子の声……のはず。

 おれの笑顔が不気味で叫び声を上げられたわけじゃないよな。

 そんなふうに後ろ向きな感情が発動しそうになる。


 しかし、次の瞬間。

 すうっと心が晴れやかになる。

 途端に心を覆っていたモヤモヤした感情が消えていく。


 おれは何を考えていたんだろう。

 女子が青山に惚れるのは日常茶飯事。

 今も三秒に一回の確率で、どこかの女子が青山に恋に落ちている。

 だから先ほどの声は、黄色い声援だ。

 うんうん、とおれはうなずく。


「最近、本野ってなんだかいつも楽しそうだな」


 青山の言葉に、おれは首をかしげる。


「そうかなあ。おれは青山のほうがずっと楽しそうに見えるけど」


 おれがそういうと、青山の顔からすっと笑顔が消えた。


「いや、ここのところちょっと……」

「なんかあったのか?」


 青山は周囲を見回し、それから女子の熱い視線に気づいて首を横に振る。


「ううん。なんでもない」

「……そうか」  

「それにしても最近は、なんだか本野についつい話しかけたくなるんだよな」


 青山はそういって笑う。

 


 これは、『心の洗濯機』のおかげだろう。

 おれと麗は、あの日以来――つまりあの奇妙な洗濯機が完成してからというもの、毎朝学校に来ると必ず洗濯機に入ってから、教室に入るのだ。


 あの例の広間での優雅な時間(妄想らしいが)は、どうやら現実世界では三分程度らしく。

 一時間ほど小説を読んだり、美味いコーヒーを飲んでネットサーフィンしていたりして一時間ぐらいくつろいでいるはずなのに、本当は三分しか経過していないというのがお得過ぎる。


 おまけに、心の洗濯が済めば、心は晴れやかだ。

 最高の発明じゃないか。


 だから、おれと麗は、朝以外にも、嫌なことがあればあの洗濯機をつかった。

 そうすれば、気分が良くなってまた学校生活を送れるのだ。


 そして、おれは小説の進みも良く、初稿を担当編集に褒められた。

 これもすべて、『心の洗濯機』のおかげだな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る