四次元人魚

雨野冾花

第1話

 その異変に誰よりも先に気づいたのはカグラだった。

 普段は些事に過ぎないさざなみが、今日ばかりは津波の如く押し寄せた。カグラはケイにその旨を伝え、ケイはカンマ三秒で結論をはじき出した。それまで誰も気に留めていなかった『遠き山に日は落ちて』がブッた切られて、街中に緊急放送が響き渡る。人類史上最悪の天気予報。

「滅ぶでしょ────────────────ぅ!!」


      〇


 地下およそ三百メートル。幾つもの煙突から立ち上る夥しい煤煙を一身に受け止めて尚、咳一つしない大天蓋が、この街から見える空の果てである。そこには雲もなければ星もない、あるのは黒々とした煤の汚れと昼夜を再現するための照明あかりのみである。今やその照明さえも頼りなく、日々雲なき曇天の下、人々は暮らしている。

 そんな街の、小さくて小汚いレンガづくりの家が雑然と並ぶ一角の、中でも一際小さくおんぼろな家に兄妹は住んでいる。両親は、というと「供犠に行く」と言い残してから二週間も家に帰ってこない。不幸な兄妹である。

上層うえの人達は、もうみんな逃げだしたって」と妹のシイナが言うが、兄のリアンは耳を貸さない。二度目の「ねえ、聞いてる?」でようやく口を開いた。

「知ってるよ」

 ぶっきらぼうな返事だったが、シイナは特に気に留める風もなく話の続きをする。

「もう誰もいないんだって。だから、ご近所さんも何人か上層に行ってるみたい。やっぱり最期だからかな」

 ケイによる全国民に対する余命宣告があってから早一年、今日と云う日がこの地球ほしの命日なのだった。今日と云う日になる前に、上層の人間はノアの箱舟よろしく、大義名分のもとにトンズラをかましている。既に上層はもぬけの殻で、火事場泥棒が横行しているが、どうせ滅ぶ世界で最後の最後まで真面目に悪を裁こうなんて生真面目な人間は、そこにはいない。快楽殺人が行われていないことがせめてもの救いなのかも知れない。

「上層に行って──そんな束の間で何になるんだか。なりが裕福でも性根が貧乏人なんだから、楽しめないだろうに」

「じゃあ、お兄ちゃんはいかないの」

 シイナは問う。

「いや、いこうと思う。でも──」

 リアンはシイナから目を逸らすように少し上を見て、

「でも、俺は更に上、地上に行くよ」

 と言った。シイナも地上がどういう所か知っている。何度も兄から聞かされたのだ。空と海の青、山の緑。薄汚く黄味がかった灰色のコンクリの世界とは何もかもが違うはずの美しい世界。だからこそ兄のその決意を否定することは出来なかった。

「最期だもんね」

 たぶんその一言で十分だったのだ。


      〇


 家を出たリアンは、小さくて小汚いレンガづくりの家が雑然と並ぶ一角を抜けて、街の中心を貫く塔を目指して走っている。街中にはいつもの放送が流れている。「我また一人の強き人魚の、雲を泳いで天より降るを見たり。その頭の上に星あり……」今日も予言の類だろうか、もうすぐ確かめることが出来るのに、そう思いながらリアンは走る。塔を目指して走っている。最後の夜だからと徹夜したおかげで体が重い。なのに今は、なんだか時間が惜しい気がしてならない。

 塔は高く、そして太い。まるで大木の切株の様である。塔は上層とつながる唯一の場所にして、一五〇メートルの高さを誇るが、その上部は汚れた空気のせいで霞んで見えない。塔の中には四〇の人間用昇降機と六〇の資材運搬用昇降機が維管束の如く通っている。しかし、上層の人間が失せた今、その役目も失せ、大木は分解の時を待っている。

 上層の──科学の熱心な信者たる──彼らは、「滅ぶでしょ────────────────ぅ!!」という科学の予言を盲信し、無謀だと科学に裏打ちされながらも地球を飛び立った。果たして、竟に有神論者になったのか、比喩的な意味での神様が振る賽の目に一縷の望みを賭けたのか、彼ら無き今、真意を伺うことは出来ない。

 塔に向かう途中、リアンは近所に住む叔父さんとその友達らしき男二人に出会った。叔父さんは、幼き頃から世話になっている人当たりのいい人間である。今日も叔父さんはニコニコとした笑顔でリアンに話しかけた。

「やあ、リアンくん。狭い世界なのにそんなに急いでどこに行くんだい」

「塔へ行くんです」

 叔父さんは──初めて見る──少し不愉快そうな顔をした。訝るような声で云う。

「塔? 君も盗みをはたらくのかね。それはいけないよ」

 リアンは、そんなくだらないことするもんか、と返そうとした。しかし、すぐに叔父さんはいつものニコニコ顔に戻り問う。

「──あっ、そうだ。叔父さんたち供犠に参加するんだけれども、行かないかい」

 そんなものリアンが行くわけなかった。父も母も成れ果てた。世界にこびりつくだけの塵芥になった。そんなのは嫌だとリアンは思う。だから

「供犠には参加しません。僕は地上へ行きます」と闡明した。

 それは、この世界で最も許されないことであった。

 この言葉を皮切りに、叔父さんたちが血相を変え、リアンに襲い掛かった。捕えようとして伸びてきた手が鼻先三寸の空を切る。

 恐ろしくなったリアンは逃げた。徹夜の体はやっぱり重い。

 絶対に逃がすな、追え、という声が後ろから聞こえてくるのを振り切って、無我夢中で走った。それでも、塔の方を目指すことだけは忘れなかった。


 息も切れ切れ、塔に着いたリアンは、もう追手が居ないことを確認し安堵した。口の内は血の味がする。以前話に聞いたマグロというものは、果たしてこのような味なのだろうか。リアンには想像もつかない。もっと想像もつかないのは海という存在である。この世界よりも何千倍も広いという水たまり、生命の生まれた場所。水たまりは透明なのに、海は青いのだという。貴重な水が、そこには無尽蔵にあるという。それはやっぱり信じがたかった。だからリアンは今日確かめに行くつもりだ。誰かに伝えることは出来ないかもしれない。でも、街を出てみたかったのだ。

 リアンは、来し方十五年、一度も出たことのない檻のような街を今一度振り返り、「さようなら」を告げた。最後に見た街も、やはり薄汚く、煙突から煤煙が立ち上っていた。


 塔の内部へは容易く侵入できた。リアンは少しばかり拍子抜けした。ここが最大の関門であるとばかり思っていたのに、既に電源は完全に落とされているらしく、警備の姿は無い。そうだ、なにしろ地球最後の日である。遥か昔、沈む船の上で最後まで演奏した人がいたというが、今の宇宙船地球号にそのような勤勉な人間は居ないのだろう。

 真っ暗闇の中、リアンは手探りで回廊のような迷宮のような塔の内部を時計回りに進んでゆく。不安にならぬよう左手を壁に沿わせ、蹴躓かないよう摺足で歩く。一分ほどたったころだろうか、次第に目が闇に慣れてくると、ぼんやりとものが見えるようになった。左手奥には鉄扉と非常口を示すマーク、右手前には昇降機の出入口。この入口こそリアンの求めていたものだった。

 リアンが電気の通っていない昇降機の入口を抉じ開けると、この時を待っていたとばかりに中から強い風が吹いてきた。生ぬるく黴臭い風が全身を覆う。しばらくの間、目を伏せていたが風は一向に止む気配がない。諦めて中を覗くと、そこは伽藍堂で、上を見ればはるか先まで空洞が続き、下を見れば昇降機が墜落していた。そして、横を見れば点検用と思われる長い長い梯子があった。

 梯子に足をかけ、トーンテンカンテンと音を鳴らしながら上へ上へとのぼっていく。向かう先には漏れているのであろう光。光は幽かで手元足元を照らすには心許無こころもとない。だが、手はしっかりと梯子を掴み、足は先に手が訪れた場所を踏んづけている。釈迦の気紛れで切れるのとは違う、頑強な糸を掴んでいる。そんな気がする。そして、たった今決別した街を思い出し、供犠に行くと告げた叔父やあの日の両親を鼻でわらう。彼らだけではない、煤煙となりかみへと向かった全て。大天蓋に阻まれると云うのに! 皆こびりついた煤で分かっていた筈である。大天蓋は、分厚いコンクリの蓋は、何も通さない。そして今、自分だけが、蓋に穿たれた小さな穴を通って上へ辿り着くのだ。

 気が付けばかなり高いところまで来ていた。底はもう闇が包んでしまって見えない。しかし、明らかに頭上の光は近づいている。

 次第に手元が明瞭になり、のぼるスピードも速くなる。

 見える。あと三段。

 頭で数える。三、二、一。

 バッと覗き込んだリアンはあまりの光量に目が眩んだ。

 確かに、瞳孔が開いていたというのはあるかも知れない。しかし、下から見た幽かな光とは比べ物にならない存在感。それはリアンが初めて見る自然の光だった。下層の薄暈けて濁ったそれとは違うまっすぐな光だ。初めて見る上層の、天窓から差し込む光は確かに白色だった。しかし、反射的に目をつぶった今、それは緑や赤に見える。結局、視界の真ん中にぼんやりと見える残像が消えるまでに二十秒ほど掛かった。

 リアンは再び目を開けられるようになると、昇降機の出入り口から外に出た。下に落ちるかもしれないという不安は微塵もなかった。ただ眼前のガラス窓から見える展望の美しさに目を奪われていた。それと同時に、今や眼下にある上層の人間はこんなに清潔な暮らしができるのかと情けなくなった。

 それでもやっぱり変わらないものもあって、どこからともなく聞こえてくるいつもの放送が「──星は空より隕ち、天の萬象ふるひ動かん。その人魚の兆、天に現れん」と伝えている。もう誰も聞いていないだろうに、とリアンは思った。


 リアンの降り立った展望室は、塔に巻き付く蔓のような形で、少し傾斜があった。地上を目指しているリアンは少しでも上へと向かうために、傾斜をのぼる方向、反時計回りの方向に歩いた。

 元居た場所が見えなくなるほど歩いた頃、リアンは老人を見かけた。老人は壁によりかかって座ったまま動かない。死んでしまったものだと横を通り過ぎようとしたところ、

「外へ行こうとするのか。ムシに食いつぶされるぞ」と片目だけでリアンを見ながら低声を放った。

「もうすぐ死ぬから関係ありません」

 見知らぬ人間にとめられる筋合いはないとリアンは思う。

「たった一時間で染色体まで食い破られる。俺は何度も戦友を失った」

 近くにあったらしいスピーカーから大きな音で『遠き山に日は落ちて』が聞こえてくる。

「ほら、お帰りの時間だ。さっさと家に帰った方がいい。最期くらいは家族に感謝を伝えてみてもいいんじゃないか」

「もうすぐ死ぬから関係ありません」

 リアンは再び歩き出した。

 老人の奥を見れば、壁から突き出た五段ほどの梯子がある。その先、正方形に切り取られた蓋の先に、リアンの望んでいた場所がある。

 リアンは走った。たった三メートル上、そこに世界の始まりがある。

 梯子をのぼって、蓋を開け、首を突き出した。見渡す限りに壁のない空間にただ一人、正面を見れば大きく光るものがある。それは世界全体を黄金に照らしていた。

 リアンが出たのは小高い山の上だった。遠く光が沈むところの下には、何かが揺らめき光を照り返している。それは、遥かに広い。だから海だと思った。でも海は青いはずだ。みんな嘘つきだったのだ。

 見るものすべてが新鮮だった。後ろを見れば吸い込まれそうな闇、昇降機など比べ物にならない深淵、それがどんどんと近づいてきていた。それまでリアンが気に留めていなかった『遠き山に日は落ちて』がブッた切られて、世界中に緊急放送が響き渡る。人類最悪の天気予報。


「滅ぶでしょ────────────────ぅ!!」


 やがてリアンの体はふわりと宙に浮いた。恍惚に達し、別離した意識をもって深淵を見つめると、深淵は黒暗海やみわだを無邪気に泳ぐ人魚に見えた。グニャグニャと曲がり引き延ばされてゆくもう一人の自分は、人魚に微笑ほほえみを向けられながら神秘的合一ウニオ・ミスティカに向かっている。その顔は、神の光をも嘲るが如く笑っていた。


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