第10話 契約成立

公爵の申し出は、リリィにとってはありがたい。

恋人が何をするのかはよくわからないが、公爵を愛せばいいと言われれば、自分の貴族への悪感情など封じ込めて、なんとか頑張る所存である。


初恋もしたことのないリリィではあるが、巷の噂は数多く知っている。愛憎溢れる日常を送っている自負はある。むしろ庶民の話題などほとんど恋愛話である。


貴族嫌いなど、ささいな問題である。

恋愛上等、掛かってこいという気分でさえあった。


それもこれも多額の借金のせいだ。

今のリリィには、すぐに金が必要なのである。孤児院を潰されるなんて冗談じゃない。


気になるのは取引内容ではなく、実際に支払える金額である。


「あの、ちなみに言い値と言われましたが、具体的な金額としては……」

「『慈愛の聖母』様の愛を買うのですから、それなりにはご用意させていただきますが」


デイベックが当然のように口にした。

リリィが意を決してアンシムの借金の金額を提示すれば、公爵は首を傾げた。


「たったそれほどでいいのか?」


庶民三人が一生働いても返せないような金額をたったそれほどと?

それが王都の外れとはいえ、孤児院の敷地のほとんどを占める金額であるというのに?


「喜んで務めさせていただきます、ダミュアン様」


桃色の瞳をキラキラと光らせて、リリィはほほ笑んだ。

これまでの憂いや嫌悪が全てふっとんだ瞬間だ。


ダミュアン(のお金)大好き状態である。


慈愛に満ちた微笑みを心掛けながら。多少はぎらついていたかもしれないけれど。


そうして、用意されていた契約書にサインをする。

自分の名前くらいなら書けるけれど、契約書の内容は難しい言葉が多くて説明してもらわなければ、リリィには内容は少しもわからない。

――というふうに装った。


仕事の内容があやふやなわりに莫大な金がかかっている契約である。

一つでもリリィがドジをすれば、孤児院の存続など一瞬で怪しくなるのがわかっていたからだ。


デイベックは懇切丁寧に説明してくれたが、今のところ間違ったことは言っていないようだった。ハインリッツに色々とせがんで教育を受けさせてもらえたことには感謝しかない。小難しい契約書の単語もなんとか理解できたのだから。


もちろん、リリィを騙す理由が二人にないのはわかっている。

身売りするつもりで来たのだから、殺されてもリリィは公爵に恨み言をぶつけるつもりはない。アンシムには盛大にぶつけるけれど。


死んだら確実に探し出してとりついてやる、とは心に決めている。


ただ一点、契約上の違約金に関する事項についてはひっかかりを覚えた。ひっかかったというか、金額におののいた。


けれど、リリィはわからないふりをあえて貫いた。

要するに、恋人契約を切られなければ違約金は発生しないのだから。


リリィの聖母のような献身的な愛を求めているのだから、広くて深くて、なんだか優しい感じだよねとは思う。しかも貴族令嬢とかでなく庶民を選んでいる時点で、巷に溢れてる恋人たちの甘いやり取りも必要ということだろうと推測する。


リリィは努力家であるし、仕事に関して報酬を貰ったからにはきっちりと応じる所存である。今回はかなり高額報酬のため、いつも以上にやる気に満ちている。

これまで、気合いと根性で乗り越えてきたのだ。やってやろうじゃないかと前向きである。


「契約期限が評価満了日というのは?」


一生誰かと恋人になるつもりのなかったリリィには、期限がなくとも構わないが、仕事としては問題だ。評価満了日とは、ダミュアンの気持ち次第ということだろうが、おおよそどれくらいの期間を想定しているのかは知りたかった。


「ああ、それは契約上書かせていただいただけで、実際には公爵様が飽きるまでです。あんまり長くはないと思いますよ、なにせ気分屋なところがあるので。最長でも1年を見ていただければ」


思い付きで行動して飽きれば捨てられるということだろう。

短い期間ならば、違約金を気にしなくて済む。だが、契約期間が書類上あやふやなのはいかがなものか。


「1年と書いて公爵様の気が変われば、リリィ様に不利益を被るかもしれません。契約期限がきていないので、違約金を払えなどと取り立てることも可能になってしまいますから」

「まさか……」


そんな悪辣なことを考えているのかと慌てれば、デイベックが穏やかに首を横に振った。


「しませんよ。ですが、そういう意味にも読みとれてしまうので。でしたら、曖昧にしておいたほうが双方都合がよいでしょう?」


躊躇うものの、リリィはなんとか納得する。

早く飽きてくれることを願うばかりだ。

やはり金持ちの考えることはよくわからない。

おままごとのような恋人ごっこに、そんな大金をポンと支払えるのだから。

今回に限って言えば、リリィはとても助かったけれど。


しかし、慣れない署名をするのは緊張する。上質な紙に字を書くと思うだけで、手が震えた。

しかもなんだかおしゃれなガラスペンである。


おかげで不格好な字が、ますます不格好になったが、書き終えた時はリリィは達成感に満ち満ちていた。


「では、これで契約成立ですね。よろしくお願いします、リリィ様。部屋はこちらに用意しておりますので、いつでも住めますが、いつ頃からお使いになりますか」


契約書には一緒に住むこととの明記があった。

といっても仕事で忙しいダミュアンとは、そうでもしなければ会えないという配慮であるので、ほとんどリリィの時間は空いていることになる。その暇な間は普段通りの生活をしていいと言われているので、生活が大きく変わることはない。


「一度、孤児院に戻って子どもたちに説明してからになりますので、明日からお願いいたします」

「わかりました。明日はお迎えを出しましょうか」

「いえ、結構です。では、失礼します」


リリィは意気揚々と契約書と小切手を貰って、ダミュアンの屋敷を後にするのだった。

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