吸血怪人フー・マンチュー

上雲楽

清掃

 ニュースが上海2の地下鉄でサリンが撒かれたと報じたとき、誰もがフー・マンチューの仕業だと疑わなかったが、その件で逮捕されたのはただの極右思想を持った日本人の女性だった。

 女が逮捕されてからも無意味な――と断じるには私たちは不安すぎた――警備は新宿から上海2へ向かう各駅で強化され、継続した。私は昨日四時間しか眠れなかったせいで、ぼんやりと中釣り広告を眺めることしかできない。週刊誌の広告がけばけばしい色彩で、フー・マンチューを糾弾している。フー・マンチューにもろもろの原因を求めるのは、愚民の思考停止であるし、オリエンタリズムを内面化した差別主義である、と良識を気取った人は言うが、ならすぐにこの満員電車をどうにかしてほしい。電車のダイヤを乱すことはフー・マンチューにとって容易であり、不規則にやってくる電車を乗り逃さないように、人々は隙間なく車両に身を詰める。少し奥で痩せた女が「痛い痛い」と呪いのように呟いている。この女は、フー・マンチューの一味の女(と確信している)がサリンを撒いた翌日の空いた電車でも同じように呟いていたから、きっと頭がおかしいんだと思う。女の自己憐憫じみた呪いの言葉を聞くたび、本当に肋骨でも折ってしまいたくなる。

 私の職場となる清掃現場は上海2駅付近に集中している。上海2は比較的汚染が少ないから防護服を着ていれば清掃作業できる。

 指定された集合場所である、上海2駅から五分程度歩いた厚労省の保険センターの防疫室にはすでに三人集まっていて、その中にワンとカワシマがいた。もう一人は知らない顔だったが、遠目でも直観できる清掃剤の臭いで、キャリアのある同業者だと確信した。

「お前、来るのが遅いぞ。お互い生き恥晒しているとはいえ人生に遅すぎることはない……。って何の話だっけ」

ワンが充血した目でクラクラしながら話しかけてきた。大麻だけじゃなく幻覚剤とかも少しやっているらしい、存在しない蠅を払いのけるような仕草を絶やさない。私は無視して、いつものように装置に息を吹き込み簡易検査を終えると、シール状になっている護符を身体に張り付け、漢服に着替え、その上から防護服を着こむ。ワンも検査に弾かれず防護服を着たから、肉を食べたり酒を飲んだりはしていないらしい。

 駐車場では運び手がバンに乗って待っていた。私は乗り込んで

「どうも」

と挨拶するが、運び手はバックミラー越しに目線を送るだけだった。

 連れていかれた清掃現場は上海2のイギリス人居住区だった。汚染が本格化する前からここはスラムと化していて、部外者が立ち入るには危険だったが、防護服を見せしめることで暗示される護符の存在によって、イギリス人たちから監視されるだけで済んでいる。あるいは、清掃員なんて賤職をおぞましく感じていて、縁を作りたくないのかもしれない。

 車が古びた団地に到着して、運び手は

「八棟の九〇五号室だ」

と伝えて、走り去った。私たちも十徳ナイフとゴム弾と無線を確認して車を降りる。

「こんなところで殺人事件だなんて、これもフー・マンチューの仕業じゃないか」

とカワシマが言った。ワンでもカワシマでもないもう一人が、

「偏見だ」

と切り捨てた。私も上海2の自己保存機能としてフー・マンチューがいると信じていたので、すべての上海2の外部に向けられた悪意をフー・マンチューの意志だとするのはナンセンスだと思った。

 八棟のエレベーターを昇れば、九〇五号室はどこかすぐにわかった。静けさの中に意思が充満しているこの感覚は、キョンシーに他ならない。

 九〇五号室の鍵は開いていた。玄関には郵便物が散乱していて、奥の窓際のポールに洗濯ものを干しっぱなしにしていた。そして部屋の中央に白人の男のキョンシーがいた。手を水平に伸ばし、顔にお札が貼られている。呻くことも歩くこともせずただ部屋に立っている。呼吸さえ感知されなければかわいいものだ。

「これも毒殺だな。外傷がないし、死後硬直の影響が少ない。明らかにキョンシー用に殺害されている」

カワシマがキョンシーの瞳孔にペンライトを当てながら言った。

「最近多いですね。棒立ちキョンシー。テロや意趣返しでキョンシーを作るならわかるけどキョンシーにするだけして匿名で通報って何がしたいのかね」

ワンもキョンシーの状況を探りながら尋ねる。

「それは上海2が考えることだ。私たちには関係ない」

私はそう言って、キョンシーの口内に清掃剤を流し込み呪文を唱え、口と腕に拘束具を嵌める。三人は少し黙って、もう一人だけが

「そうね」

と呟いた。

 拘束したキョンシーを簡易棺に入れてさらに封印し終え、カワシマが無線で運び手に連絡を入れた。キョンシーを部屋から出し、エレベーターに運ぶ間、誰も口を利かなかった。ただ、この団地の誰かが私たちを監視している気配は感じ取っていた。

 バンのトランクにキョンシーを放り込み、私たちも乗り込むとすぐに団地を去る。

「どうだった」

と運び手が独り言のように目線を道路に向けたまま言う。

「自分が見た感じ、フー・マンチューの仕業ですね」

「口を慎めよ。ましてやイギリス人居住区で……」

「でも最近の変なキョンシーであることは間違いないな。だって変だもん」

「キョンシーのためのキョンシーなんて、前例がないわけじゃない」

「でもそういうのってだいたい労働用でしょ。セックスも含めて。棒立ちってやっぱり変だよ」

三人が好き勝手しゃべる。

「お前はどう思った」

運び手が私に視線を向けたことに気が付くまで一瞬かかった。

「別に、暴れなかったし仕事に支障はないキョンシーでしたよ」

そう答えて私は窓の外に目を向けた。古びて蔦の伸びたアパートの二階から、白人の女が私を見ていた気がしたが、この車はマジックミラーだから単なる思い込みだった。

 イギリス人居住区から抜けてしばらく走り、処理室に到着する。洗車マシンの要領で簡易的な除染が行われ、自動音声が祝詞を唱え清める。私たちも車から降りて、除染を受け、漢服を脱ぎ、思想が汚染されていないかチェックを受ける。その最中にカワシマが

「こんなの上海2のお偉いさんとフー・マンチューが癒着していたら意味ないじゃん」

と文句を言っていた。

全員テストに問題はなかったが、スタッフによって思想洗浄もルーティンとして行われた。その頃にはワンの大麻も抜けて、苛立たし気に足をムズムズ動かしていたが、顔に呪符を貼られてすぐに晴れやかな顔になった。私の顔にも呪符が貼られ、悪い考えが急速に沈んでいくのを感じた。そして、

「フー・マンチューを助けよ」

という善い指令が身体の奥まで浸透し、白人のキョンシーがその意図の結果であると知って、スタッフの指を折り、みぞおちを蹴り、自分の呪符を引きはがした。スタッフが持っていたゴム弾を抜き取り、唖然としている三人に向けて発砲し、すべて命中した。

 部屋を出て死体安置室に向かう途中でようやく警報が鳴ったが、私を止めるには遅すぎた。

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