忘れ物を取りに行く

@rabbit090

第1話

 頑張るっていう言葉の意味が分からない。

 私はひどく疲れていた。

 傍から見ても、そうだったのだろうか。

 「イルカが、大群で現れています。地元の人によるととても珍しいことだという事です。」

 「いやあ、圧巻ですねえ。」

 「私イルカ触ったことあるんですよ、とても可愛かったです。」

 「へえぇ。」

 テレビではコメンテーターが、今日の出来事に何かを言っている。

 私はため息をつきながら、それを羨ましく思っていた。

 明るく華やかだったのは、ほんの少し前までの話だった。

 私はやる気に満ち溢れていた。

 しかし、無理なものは無理なのだと、悟っていた。

 社長は、精神論で語った。

 「根性があれば、何でもできる。さあ、行くぞ。」

 「はい!」

 私はその言葉をいっぺんも疑わず(一応そのつもりだった)、それについていけない人間は、徹底的にいじめて排除してきた。

 が、私は間違っていた。

 私はある朝、起きることができなくなっていた。

 精神論が通じるのは、それが上手く行った人間だけだったのだと、初めて知った。

 それまでに様々な人を虐げてきた私は、それはもう、猛烈な勢いで、排斥された。

 私を、弟子だとかなんだとか言っていた社長は、あっさりと私を見捨てた。

 「お前、ふざけんなよ。」

 その言葉は忘れられない。

 いい加減、頭から離れて欲しいって思っているのに、ダメだ。

 人間って、勝手だなあ、と思った。

 しかし私は、それだけ人を虐げていたから、もう何が正しいのか分からなくなっていた。

 働く、ということに、意義など無かった。

 だから毎日、

 「しゅう君。」

 「ああ、おはよう。」

 「ごめんね、今日も起きれなかった。」

 「いいよ、休んでて。ホント、体良くなるまで無理しないでね。」

 「…うん、ありがとう。」

 と、夫と会話をするけれど、私は分かっている。

 私は、きっとそのうち夫に捨てられるのだろう。

 元気になるまで、そう、その言葉通りの言葉が来るようには思えない。

 私は、誰かに何かを強制されて、一日を過ごすことに疲れていた。もう二度と、昔のようなテンションで物事をこなすことなどできないように思っている。

 「無理だよ。」

 夫が、バタンとドアを閉めたのを、はっきりと聞いた後、私は大きな声でそう叫ぶ。

 外に出た時に、隣のおばさんから、イカレた女、と呼ばれたことを忘れていない。

 叫び出しそうだ、

 正しいことが分からないということが、こんなに苦しいことだなんて、思わなかった。

 私は、もう閉口したまま、家を出た。

 きっとこの先、ここにいても何も言いことなど起きない。

 かねてより書いていた、離婚届にサインをして、机の上に置いた。

 私は、そしてそのまま、家になど戻らなかった。

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