【声劇台本】高瀬、旅に出ないか

澄田ゆきこ

本編

真崎(N):その街は、東京が軒並み更地と化したあの大空襲でも、その戦火を免れたという。だからだろうか、戦後復興のどこか浮かれた勢いと、戦前から続く古色蒼然とした雰囲気の両方を、その街は纏っている。本の街と呼ばれるだけあって、通りには多くの書店が立ち並ぶ。希少本の類いを扱うものから、刷りたての新刊を扱うもの、ジャンルも文芸・古典・歴史・美術・果てには江戸時代の黄表紙まで様々だ。そんな、古い紙のにおいをまとわせ、人々と本たちの息遣いが飽和しているこの街の片隅に、その古本屋はあった。

 小ぢんまりとした二階建ての建物だ。部分的に建て替えてはいるが、店先の貫禄は、創業から四十年という年月を思わせる。廉価な文庫本の並んだワゴンの傍を通り抜け、俺はのれんをくぐった。


真崎:高瀬、いるか?

高瀬:……あぁ、真崎か。

真崎:ずいぶん難しい顔をしているな。

高瀬:何、ちょっと目録をまとめていてね……。

真崎:古本業も板についてきたじゃないか。

高瀬:まだまだ。知らないことばかりだよ。……それにしても、真崎がこうして店に来るのは、なんだか久しぶりな気がするな。

真崎:修士論文がやっと終わったんだ。そうだ、例の本、かなり研究の助けになった。ありがとう。

高瀬:それはよかった。……なんだ、わざわざ返してくれなくてもいいのに。

真崎:買い取るような余裕は貧乏学生にはないんだ。

高瀬:はは、そうか。ならまた棚に差しておこうかな。

真崎:そうしてくれ。

高瀬:どうだった、修論の出来は。

真崎:だめだな。教授どもにさんざん絞られて、俺にはとことん研究の才がないんだと痛感した。せっかく教員免許もとったことだし、来年からは大人しく教職に就くことにするよ。

高瀬:真崎が先生か……。ふふ。

真崎:なんだ、おかしいかよ。

高瀬:少しね。昔はあんなに先生に立てついていたのに。

真崎:立てついていたんじゃなく、議論をしたかったんだよ、俺は。教師どもからは散々生意気扱いされたけどな。

高瀬:知ってる。だから、大学に入ってからの真崎は、すごくイキイキして見えたよ。そういうのが好きな先生ばかりだったからかな。

真崎:たいがいは倍の力で殴り返されたけどな。言葉で。

高瀬:ははっ。そうだった。でも、それはそれで楽しそうだった。

真崎:何を。悔しかったぞ、俺は。……でもまあ、自分の小さな世界をぶち壊されるのは、少し気持ちいい部分もあったかもな。

高瀬:……真崎は大学に居続ければいいのに、と思ってしまうのは、自分勝手かな。

真崎:言ったろ。俺には研究は向いてなかったんだ。

高瀬:……そうか。

真崎:お前がそう思うのは……いや、なんでもない。

高瀬:……おれが大学から離れたから、って?

真崎:いや、まあ……そうだな。……悪い、浅慮だった。

高瀬:謝るようなことじゃないさ。

真崎:……。俺は、高瀬の方こそ学者肌だった気がする。論文はいつも「優」だっただろ。卒業論文も面白い題材だったし、あのまま院に進めれば、って、正直何度も思ったな。いつも隣にいたお前がいなくて、心細かっただけかもしれないが。

高瀬:そうかな。……でも、「たられば」は言ったところでキリがないからな。あの時祖父が倒れて、古本屋を継ぐことになって。進学を諦めたのは確かに悔しかったけど、なんとか卒業はできたし、今もこうして真崎が遊びに来てくれる。最近じゃ、これがおれの運命だったんだなって、受け入れられるようになったよ。少しはね。

真崎:そうかよ。……ならよかったのかな。

高瀬:ああ。不思議なことに、大学から離れてからのほうが、色々とアイデアが浮かぶんだ。前より色んな本に触れるようになったからかな。まだ全体像は見えないけど、気が向いたらまた文章でも書いてみようかと思ってる。

真崎:ははっ、そりゃあいいな。書き上がったら読ませてくれ。

高瀬:書き上がったら、な。……そういえば真崎、サークルの会誌は? そろそろ冬のができあがる頃だろう。

真崎:そう言うと思って、一部くすねてきた。刷りたてほやほやだ。ほら。

高瀬:ありがとう。……確かにまだ、印刷機のぬくもりが残ってる気がする。

真崎:そりゃ気のせいじゃないか。

高瀬:お、真崎はまた一番後ろか。……どれどれ、『山茶花』ね。「あれは八つになったばかりの師走だっただろうか――

真崎:おいおいおい、目の前で読み上げるんじゃない。

高瀬:どうして?

真崎:どうして? って……。何度言わせるんだ。読むなら俺の目のないところで読んでくれ。

高瀬:いいじゃないか、別に。早く読みたいんだよ。

真崎:俺が嫌なんだ! 恥ずかしいから!

高瀬:見かけによらず繊細だよな、真崎って。

真崎:こう見えても文学青年の端くれなんでな。ガラス細工のようなナイーブな感性をお持ちなんだ。

高瀬:へえ……。

真崎:「へえ」とはなんだ。

高瀬:……ふふっ。

真崎:なぜ笑う。

高瀬:いや、新入生の頃、「文学部でその身体を持て余しているのは勿体ない」って、真崎が色んな運動部に勧誘されていた頃のことを思い出した。

真崎:ああ、あれな……。お前は横で気まずそうにしてたな。

高瀬:だって、真崎はまったくその気じゃなかったし。

真崎:まあ、そうだな……。

高瀬:……そういえば、真崎、その袋は?

真崎:ああ、これか? 下宿先の婆さんから、「高瀬くんに持っていきなさい」って、野菜をもらったんだ。

高瀬:どれどれ……白菜にネギ……。いいね、奥で鍋にでもしようか。

真崎:そのつもりで、鱈の安いのと、酒も買ってきた。二級酒だけど。

高瀬:いいじゃないか。……先に上がっていていいよ。俺は店を閉めてから行くから。

真崎:そうか。悪いな、商売の邪魔して。

高瀬:いいよ。どうせそろそろ閉めようと思っていたところだった。


真崎(N):彼の華奢な背中が遠ざかっていく。俺はお言葉に甘えて、店の二階の住居スペースへと入らせてもらうことにした。とはいえ、あるのは居間と寝室の二間だけ。店先だけでなく、そこにも本が溢れかえっている。壁という壁を埋めた本棚はすでに限界まで本が詰め込まれており、床の上は平積みになった本で足の踏み場もない。

 隙間を縫うように歩き、仏壇の前に酒を供える。遺影の中では彼の祖父が難しそうな顔をしてこちらを向いている。

 俺がこたつで暖をとっていると、しばらくして、彼がカセットコンロを手に居間にやってきた。


真崎:先に一杯やらせてもらってるぜ。いやあ、こたつっていいもんだな。俺の下宿にも欲しい。

高瀬:……みかんは肴になるのか。

真崎:食えるもんならなんでも肴になる。

高瀬:ナイーブな感性とやらはどこに行ったんだ。

真崎:それとこれとは別だろ。

高瀬:別なのか?

真崎:お前は酒を飲まないからわからないだけだ。

高瀬:そうかなあ……。

真崎:まあ、お前も入ったらどうだ。こたつ。

高瀬:そうする。……あー、あったかい……。外寒かった……。

真崎:お疲れ。

高瀬:ありがとう……。テレビつけるか?

真崎:いや、いい。

高瀬:そうか。

真崎:あ、鏡餅。置いてるんだな。

高瀬:近所のおばさんがくれた。家で餅をついたからって。

真崎:へえ。よかったじゃないか。……安心した。よくしてくれるご近所さんがいるんだな。

高瀬:幸いなことにな。祖父の人望だよ。

真崎:いや、お前が心配なんだろ。

高瀬:そうかな。……だといいけど。

真崎:……。

高瀬:……。なんかさ。

真崎:ん?

高瀬:祖父が亡くなって、古本屋の店主になって……。

真崎:うん。

高瀬:「若旦那」なんてからかわれつつ、ぽつぽつとお客さんが来て、相手して……。そうしている間にも、両親から連絡ひとつなくて、まあ二十年近く前におれを捨てた人たちだからさ、きっと金輪際連絡なんて来ないのだろうけど……。

真崎:……。

高瀬:話が逸れたな。……とにかく、毎日、朝起きて、店を開けて、本の整理をしたり掃除をしたり目録を作ったりして、たまに来るお客さんとちょっと話したり話さなかったりして、夜になって店を閉めて、っていうのをさ、おれは、これからずっと繰り返していくんだろうなって思って……。

真崎:思って?

高瀬:ぞっとした。

真崎:それは……多かれ少なかれ、みんなそうなんじゃないか。

高瀬:だけど……例えば真崎は、これから先生になる。色んな学校に赴任するんだろうし、毎年生徒も変わって、あるいは出世なんかもしたりして、色んな変化がある。おれだけだ、何もないの、って、思ってしまった。

真崎:そんなことはないだろ。

高瀬:でも、真崎は色んなところに行くだろ。おれはこの街をきっと出ない。祖父と同じように、死ぬまで、ずっと。

真崎:……。

高瀬:……だめだな、ちょっと悲観の波が来てる。前よりはずいぶんマシになったと思ってたけど……まだ引きずってるのかもしれない。

真崎:寒くて腹が減ってると嫌でも悲観的になるさ。さっさと飯にしよう。

高瀬:うん……。

真崎:出汁は鱈と白菜から出るし、適当に調味料を入れればそれっぽくなるだろ。他になにかあるか?

高瀬:ちょうど頂いた豆腐がある。ちょっといい絹ごし。

真崎:いいな。入れちまおうぜ。

高瀬:待って、昆布があった。せっかくなら湯豆腐にしよう。ポン酢もあるし。

真崎:ああ、そりゃいい。


真崎:さて、そろそろ頃合いかな。蓋、開けるぞ。

高瀬:うん。

真崎:あちち……。おお、美味そうだな。

高瀬:いい匂いがする。

真崎:取ってやるよ。何がいい?

高瀬:ありがとう。じゃあ、豆腐と、鱈。

真崎:ほい。俺も豆腐から頂こうかな。ネギは……もう少しだな。どれ、じゃあ、食おうか。

高瀬:うん。いただきます。

真崎:いただきます。

高瀬:……ふふ、誰かと食事をするの、久しぶりだ。

真崎:そうかい。

高瀬:(湯豆腐を食べる)……ああ、柚子があればよかったな。柚子の皮を入れたらもっと美味しかったかも。

真崎:(湯豆腐を食べながら)確かに。(酒を飲む)ああ、でも美味いな。酒とも合う。

高瀬:……相変わらず、いい食べっぷりと飲みっぷりだな。

真崎:そうか?

高瀬:うん。だけど、箸の持ち方がやけにきれいなのが、ちょっとおかしい。

真崎:生憎育ちだけはいいもんでな。

高瀬:……正月は、家に帰るのか?

真崎:帰らない。

高瀬:……そうか。

真崎:帰ったとて、親父が敷居を跨がせてくれるとは思えないしな。文学をやろうとした時点で、一応俺は勘当されたことになってるから。たまにお袋から内緒の仕送りは来るが。

高瀬:……親父さん、確か医者だったっけ。

真崎:そう。兄貴も医者だし、妹も看護学校に入ったらしい。「あいつだけが道を外れた。一族の恥さらしだ」なんだと、親父は未だにおかんむりらしいぜ。

高瀬:そうか……。

真崎:親って、いてもいなくても厄介なんだからたまらんよな。

高瀬:本当に。……今頃あの人たち、何をしているかな。

真崎:さあ。親と言っても所詮は他人なのだから、好きにさせておけばいい。

高瀬:そうだな。

真崎:ただな、高瀬。

高瀬:うん?

真崎:今になって、両親が店に来て、店の権利を譲れだの祖父さんの遺産をよこせだのなんだの言ってきたら、その時はきっぱり断れ。

高瀬:そんなことがあるかな。葬式にも来なかったような人たちに……。

真崎:万が一にでも起こらないとは言えないだろ。そうなったら、「どちら様ですか」と言ってやれ。もし一人じゃ厳しいようなら俺も加勢する。

高瀬:ふふ。それは心強い。

真崎:お前にとっては鎖かもしれないが、この店はお前の財産であり、お前の城なんだ。きちんと守れよ。

高瀬:……ありがとう。

真崎:まあ、なんだ……。色々と偉そうに言ったが、俺も馴染みの店がなくなるのは寂しいからな。それだけの話だ。

高瀬:……ううん、嬉しいよ。……先生になってからも、時々は顔を出してくれ。

真崎:もちろん。

高瀬:ふふ。

真崎:……。

高瀬:……はぁ。

真崎:また溜息。幸せが逃げるぞ。……何かあったのか。

高瀬:いや、特にこれといって何かあるわけじゃない。意味もなく物憂い気分なだけで……。

真崎:……そうか。

高瀬:……最近、ちょっと考えていることがあって。

真崎:なんだよ。

高瀬:……。

真崎:……。

高瀬:……真崎、おれは実は本が好きじゃないのかもしれない。

真崎:……本が好きじゃない? ならこの本の山はなんだ。あれもこれも、お前の蔵書だろう。

高瀬:違うんだ。いや、おれの本であることは違いないんだけど……。……おれが本を読んでいるのは、純粋に本が好きだからとか、そういう理由からじゃない気がしてる。

真崎:なるほど? じゃあ高瀬、お前はなんで本を読んでる? さっきだって、鍋が煮えるまで片時も目を離さなかっただろ。

高瀬:俺は――怖いんだ。

真崎:怖い?

高瀬:――なあ、真崎。お前も本は読むほうだろう? 大きな書店や図書館で、見たこともないような本を、一生かかっても読み切れないほど大量に目にしたとき、お前はどう思う?

真崎:わくわくするね。片っ端から読んでやりたくなる。

高瀬:おれは……違うんだ。恐ろしいと思う。読んだことのない本が、つまりは自分の知らないことが、この世にはこんなに――あるいはもっと果てしないほどあるのかって、絶望に近い気持ちになる。

真崎:高瀬……。

高瀬:書店や図書館に行った時だけじゃない。この店の蔵書を整理している時もそうなんだ。ここにある分だっておれはきっと読み切れていない。知りもしないものを売ってる。そう思うと、すごく罪深いことのような気がして……。

真崎:落ち着け、高瀬。……あのなあ、お前はこの世の全てを知りたいわけか?

高瀬:……そうかもしれない。

真崎:はっ、お前がそんなに傲慢だとは知らなかった。

高瀬:傲慢……だろうか。

真崎:そうだろ? 全てを知るなんて神にしかできない。人間様にはせいぜい「無知の知」がお似合いだ。

高瀬:だけど……。

真崎:……。なあ、高瀬。旅に出ないか。

高瀬:え?

真崎:さっきお前は、一生この街を出ないかもしれない、と言った。そのくせ全てを知りたいなどと言う。だったらその目で見ようじゃないか。見たこともない景色を、知らない街を。

……年末年始くらい店を閉めたって、誰も文句は言わないだろ。

高瀬:……年末年始だけなら、それは旅ではなく「旅行」じゃないのか。

真崎:細かいことはいいんだよ。書を捨てよ、町へ出よう、だ。


真崎(N):かくして、俺の強引な誘いにより、俺と高瀬は旅に出ることになった。大晦日の朝に待ち合わせ、列車に乗って数時間、夕方には宿についた。

 列車の中でも、土産物屋が並ぶ観光街でも、彼はどこかそわそわしていた。終始落ち着かない様子で、けれど今までになく楽しそうで、ようやく普段の様子に戻ったのは宿で腰を落ち着けてからだった。

 晩飯の時間、食事処に行くと、「真崎様」と書かれた半個室に通された。卓上にはぎっしりと小皿が並んでいた。

高瀬:こんなにあるのか!

真崎(N):彼が驚いた矢先、さらに鮎の焼き物が運ばれてきて、彼はますます目を丸くした。おかしくて仕方がなかった。

高瀬:そんなに笑わなくてもいいだろ。

真崎(N):腹を抱えて笑う俺を見て、彼は不貞腐れたように顔を赤らめた。


高瀬:はぁ~、いいお湯だった。ご飯も美味しかったし、いいところだな。

真崎:それは何よりで。ちょっとは気分転換になったか?

高瀬:なったなった。ありがとう、誘ってくれて。……ふう、やっぱり部屋に戻ってくるとほっとするな。

真崎:景色がいいからかもな。

高瀬:うん、山の中だから歩いてくるのは大変だったけど。

真崎:五冊も本を持ってくるからだろ。何が「おれは本が好きじゃないかもしれない」だ。

高瀬:う……。いいだろ、それは。……それにしても、今日は本当に楽しかったな。知らないことばかりだった。

真崎:わかったろ。この世に俺たちが知らないことなんて山とあるんだ。すべてを知り尽くせるわけがない。

高瀬:うん。思い知った。……世界はなんて広いんだって思った。

真崎:怖かったか?

高瀬:いや。真崎と一緒だったからかもな。

真崎:はっ、唐突に何を言うんだ。

高瀬:……思えば、真崎は、おれが辛いとき、いつも一緒にいてくれた。

真崎:祖父さんが死んだばかりの時とか?

高瀬:ああ……あの時はしんどかったな。

真崎:ひどい憔悴ぶりだったな。食事もとれないし、風呂にも入れてなかったし。

高瀬:何より本が読めなかった。

真崎:ああ……あのときもお前はそれを一番気にしていたよな。生きることそのものがボロボロだったくせに。

高瀬:……あの時、何を読んでも頭に入らなかった。文字が情報として処理されてくれなかったんだ。もう終わりだと思った。逃げ場所が急に封じられて。

真崎:どこまでもお前らしいよ、まったく。

高瀬:……だからさ、真崎。「だったら俺が読んでやる」ってお前が突然朗読を始めた時は、びっくりしたけれど、すごく救われた気がしたんだよ。

真崎:大袈裟だ。

高瀬:おれにとってはそのくらい大ごとだったんだ。

真崎:そうかよ。

高瀬:……。

真崎:……。

高瀬:……あ、除夜の鐘だ。聞こえたか、真崎。

真崎:うーん……? あ、聞こえた。うっすらとだけど。

高瀬:そうか、もう年越しなのか。……ん? どうしたんだよ、真崎。

真崎:いいものを持ってきたのを思い出してな。ちょっと待ってろ……うん、これだ。

高瀬:……日本酒?

真崎:そう。特級酒だ。さっき売店で特別いいのを選んできた。たまには高瀬も一緒に飲もう。飲んだこと、ないだろ?

高瀬:うん。

真崎:まあ、嫌だったら無理強いはしないさ。いい酒を俺一人で独り占めしてやる。

高瀬:(笑いながら)いや、悪いが、飲んでみたい。……その辺に小さいグラスがなかったかな。……あったあった。

真崎:せっかくだから窓辺に座るか。

高瀬:いいね。雪と松葉と渓流と、日本酒。うん、絵になる。

真崎:おまけに浴衣だ。

高瀬:あはは、いいな、すごくいい。

真崎:よいしょっと(椅子に座る)。……じゃあ、開けるか。注いでやるよ。

高瀬:お願いします。……ああ、少しでいいよ。

真崎:こんなもんか?

高瀬:うん、そのくらい。……おれも注ごうか?

真崎:いや、俺は手酌でいいよ。

高瀬:……。

真崎:……。年越しまで、あとどのくらいだ?

高瀬:あと少し。あと十秒。

真崎:……。

高瀬:……。三、二、一。

真崎:(ふっと息をつき)あけましておめでとう。

高瀬:あけましておめでとう。……ふう、なぜだか緊張した。

真崎:ははっ、俺もだ。……よし、乾杯といこうか。

高瀬:そうだな。乾杯。(ちん、と杯が合わさる音がする)

真崎:……どうだ?

高瀬:……うん、おいしい……! 水みたいにするする飲めるな。

真崎:おお。

高瀬:けど、うまみというか、甘みがあって。いいな。真崎が好きでよく飲んでるのも頷ける。

真崎:俺が普段飲んでるのはこんないいのじゃないけどな。……どれ、俺も一口。(酒を飲む)……あ、うまい。さすがいい酒だ。

高瀬:ふふ。

真崎:なんだよ、ニヤニヤして。

高瀬:いや。幸せだなと思って。

真崎:早速酔いがまわってきたか?

高瀬:かもしれない。


真崎:(あくびをする)。もう一時過ぎか。酒も空になったし、そろそろ寝るか?

高瀬:そうだなぁ……。

真崎:だいぶ酔ってるな。

高瀬:そう? ほどんど真崎が飲んだから、そうでもないと思うけど……。あ、でも、ちょっと足元がふらつく。

真崎:ほれみろ。気をつけろよ。

高瀬:はぁい。

真崎:電気、消すぞ。

高瀬:うん。ありがとう。……あ、読書灯だけつけてもいいか。真っ暗だと寝られないんだ。

真崎:どうぞお好きに。俺はたいがいどんな環境でも寝られるから。

高瀬:授業中もよく寝てたものな。

真崎:失礼な、面白い授業は起きていたさ。つまらん授業をする方が悪い。

高瀬:そんなだからお偉方からひんしゅくを買うんだ。

真崎:うるさいな……。ほら、さっさと布団に入れ。

高瀬:はいはい。

真崎:……。

高瀬:……。なあ、真崎。(小声で)

真崎:なんだよ。

高瀬:また、読んでくれないか。

真崎:もう一人で読めるだろ。

高瀬:真崎の声で、聴きたいんだ。

真崎:甘ったれめ。飲みすぎだ。

高瀬:……だめかな。

真崎:(溜息)そんな大したもんじゃないぞ。……何がいい?

高瀬:これ。

真崎:わかった。……冒頭からでいいのか?

高瀬:うん。


真崎:――「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」

 先生は、黒板に吊るした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いをかけました。

 カムパネルラが手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で呼んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。

高瀬:……うん、やっぱり落ち着くな、真崎の声。

真崎:そうかよ。まだ読むか?

高瀬:もう少し。

真崎:わかった。

――ところが先生は早くもそれを見つけたのでした。

「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう」

 ジョバンニは勢いよく立ち上がりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云いました。

「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう」

 やっぱり星だとジョバンニは思いましたが、こんどもすぐに答えることができませんでした。

高瀬:……。

真崎:――「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう」

 ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。そうだ僕は知っていたのだ、勿論カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨(おお)きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、真っ黒な頁(ページ)いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れる筈もなかったのに、すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午后(ごご)にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云わないようになったので、カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。

高瀬:……。

真崎:……寝たか、高瀬。

高瀬:……。(小さく寝息を立てる)

真崎:……寝てるな。


真崎(N):俺は高瀬の端整な寝顔をしばらく見下ろしていた。彼が何を思ってこの本を読んで欲しいと言ったのかを考えていた。彼はジョバンニと自分を重ねたのだろうか。そう考えてすぐ、それはあまりにも短絡的で、同時に面映ゆいことに思われた。カムパネルラ。俺は彼からそう見えているのだろうかと、一瞬でも考えてしまった自分がどこか恥ずかしかった。

 

真崎:……なあ、高瀬。


真崎(N):俺も知らないことが怖いと思うことがある、と言ったら、彼は笑うだろうか。正確には俺は、知りたい、と思ってしまう自分が怖かった。例えば、彼の手の温度。指のかたち。それ以外の、言うに憚られるあらゆること。

――いや、本当に怖いのは、それが受け入れられるかどうかということだ。

 臆病な俺は、寝ている高瀬を起こさないよう、そっと掌に触れる。彼の手はほんのりと温かい。その時、高瀬の手が不意に、俺の指を包んだ。いつの間にか起きていた高瀬は、俺を見て静かに笑った。



(引用:『銀河鉄道の夜』宮沢賢治)

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