第2話 黒瘴獣と鼠人族

 黒瘴獣こくしょうじゅう


 それは黒瘴灰こくしょうはいが降り始めたのと同時期に現れた、青みがかった灰色の体をもつ獣であり、霊力を持つ人類を襲うのだ。


 しかも、聖域に侵入することができ、黒瘴灰こくしょうはいを生み出し操ったり火や風を操ったりと特異な力、つまり異能を持ち、霊力が伴った現象以外では傷つきにくい。


 聖霊歴が始まって523年。人類はずっと黒瘴獣こくしょうじゅうと戦ってきた。


 しかし、その歴史の中で黒瘴獣こくしょうじゅうの生息範囲がある程度分かり、また彼らが体内に保有する特殊な黒瘴気こくしょうきの波長を捉える事ができるレーダーの開発され、霊航機の航路の安全性はそれなりに確立されている。


 とはいえ、その安全性も完璧ではなく、こうしてたまに襲われる事がある。


『加速します!』


 黒瘴獣こくしょうじゅうの追跡から逃げるために霊航機が急加速し、僕やローズなど、乗客は急にかかった慣性力に歯を食いしばる。


 ここまで全速力を出しているのだ。逃げ切れるだろう。


 それに、霊航機を護衛している聖霊騎士が黒瘴獣こくしょうじゅうを倒してくれるだろう。彼らは霊力を用いて黒瘴獣こくしょうじゅうと戦う術を持っているのだ。


 だと思ったんだけど、


「ふげっ!」


 霊航機が急旋回した。そのせいで、僕の顔が窓に叩きつけれた。


 そして同時に、ある光景が窓から見えた。


「りゅ、竜種だ! 竜種の黒瘴獣こくしょうじゅうだ!!」


 僕と同じ光景が見えた乗客がいたのだろう。彼が恐怖に叫んだ。それを聞いた他の乗客は悲鳴にも似た叫び声をあげる。


「なんで、竜が出てくるのよ!!」

「聖霊航行社は何をしてるんだ! 竜種ほどの黒瘴獣こくしょうじゅうの存在を事前に感知していなかったのか!!」

「もう終わりよ!」

「わぁぁ~~ん!!」


 無理もない。


 それほどまでに竜種の黒瘴獣こくしょうじゅうは恐ろしい。


 黒瘴獣こくしょうじゅうは内包する黒瘴気こくしょうきの量で強さがおおよそ決まり、FランクからSSランクまで八段階に分類されている。


 竜種の黒瘴獣こくしょうじゅうは最低でもCランクに分類され、小聖域に大きな被害を与える程の力をもち、数年に一度現れるかどうかといった存在だ。


 討伐には精鋭数十人規模で構成された聖霊騎士団を要する。霊航機を護衛している聖霊騎士四人では相手にならない。一分もつかどうか。


 そもそも、一般人にとっては一番弱いFランクの黒瘴獣こくしょうじゅうでさえ死の対象だ。昔の文献によれば、絶滅してしまったヒグマ三頭分の強さがあるとか。


 ともかく、乗客は死の宣告をされたのだ。絶望だ。


 そして絶望は更に広がる。


「きゃあっ!」

「ふぐっ!」


 霊航機に大きな衝撃が走り、洗濯機の中に放り込まれたのかと思うほど激しく揺れたのだ。


 天井の照明が激しく点滅し、乗客の荷物は吹き飛ぶ。その一つの堅いキャリーバックが僕の顔を直撃し、その痛みに悶絶してしまう。


 しばらくして激しい揺れが収まり、霊航機が停止した。


 ……地獄みたいだったな――


「ホムラ君! 大丈夫かしらっ!?」

「もがっ」


 あれ、なんか柔らかいものが顔に当たってる。キャリーバックじゃない。とても甘くて心地の良い匂いがする柔らかいものだ。


 まるで天国みたいだ、と思いながら手を伸ばしてみる。


 とても柔らかかった。温かく、弾力があって、マシュマロみたいな――


「ひゃあ!?」

「ひゃあ?」


 僕は顔をあげた。


 先ほどの激しい揺れのでローズが僕の方に倒れてしまったらしい。柔らかいものは彼女の胸で、僕はそれを揉んでいた。


 そして彼女の顔は真っ赤に染まっていた。竜の眼は恐ろしく開き、拳が高くあげられていた。


 あ、殴られる。死んだ。


 そう思ったのだけど、


「…………はぁ。落ち着きなさい。私。今は緊急事態よ。殴るのは後よ」


 どうやら許された。助かった。


 ほっと胸を撫でおろしていると、消えていた照明が光り始めた。アナウンスが流れる。


『ただいま、機体後方部が激しく損傷し、エンジンが緊急停止、え、あ、これは言っちゃダメっ!? あ、失礼しました! 当機は安全です! すぐに離陸いたしますので、落ち着いてください!!』


 あちゃ~~。

 

 アテンダントさんもパニックなのはわかるけど、これは流石に駄目だよ。不安を煽りすぎる。


 ローズも隣で頭を抑えていた。


「いや! 死にたくないですわ! わたくしを誰だと思っているですのっ!? 早く出発しなさいよ!」

「帰りたいよぉ!! お家に帰りたいよ!!」

「早く出発しろっ!!」

「俺たちはここで死ぬのかっ!!」


 乗客の怒声と悲鳴が錯綜さくそうする。乗客には若い人が多く、彼らの恐慌具合は激しい。アテンダントさんたちが混乱を収めようとするが、無理だ。


「こら、やめなさい!」

「うるせぇ、離しやがれ! こんな所で死ねるかっ!」


 窓を開けて霊航機から飛び出そうとする者も現れる。冷静を保っている他の乗客が止めているが、いつ飛び出してしまうか。


 その時、


「そこの小僧じゃ!! 全てはそこのネズミのせいじゃ!!」


 耳長エルフ族の老人が、杖の先を僕に向けて怒鳴ってきた。すると、他の乗客も僕を見て、両目を吊り上げる。


「そうだ、お前のせいだ!!」

「お前がこんな所にいるからっ!!」

「ここから出ていきなさい!!」

「霊航機から出ていけ!!」


 僕への出ていけコールに、ローズが怒りの形相を浮かべる。


「アナタたち、何を馬鹿なことを言っている――」

「うるさい!! 厄災の種族がいるから、俺たちは竜に襲われたんだ!」

「違うっ! 鼠人族は厄災の種族じゃない! 七十年前に、聖霊宣言で私たちの過ちを認めたでしょう!」

「そうだよ! 君たちは間違っている!」

「少しは落ち着きなさい!」

「うるさい! こいつは厄災の種族なのよ!」

「追い出すべきだ!」

「そうだ!!」


 ローズや冷静な乗客が庇ってくれているが、パニックに陥った乗客の多くが僕に手を伸ばしてくる。


 ……鼠人族は、黒瘴気こくしょうきをもたらし黒瘴獣こくしょうじゅうを引き寄せ操る厄災の種族として迫害されていた。


 黒瘴灰こくしょうはいと同じ青みがかった灰色の髪と瞳を持ち、特性として黒瘴気こくしょうきを含めた毒に耐性を有していたからだ。


 七十年前にようやく聖霊宣言で人権が認められたが、僕らへの差別意識が完全に消えたわけではない。


「出ていけ!!」

「やめなさい!!」

「ホムラ君ッ!」


 そしてローズたちの庇いも虚しく、僕は何人もの男たちに体を掴まれ、窓から霊航機の外へ放り投げられた。黒瘴灰こくしょうはいが降り積もった荒野に転がる。


いたたたた」


 放り投げられる直前に掴んだ黒刀を支えにして立ち上がりながら、僕は腰をさする。


 もう、乱暴なんだから。


 頬を膨らませながら、パンパンと服についた黒瘴灰こくしょうはいを叩き落とす。


て」


 手に火傷を負った。黒瘴灰こくしょうはい黒瘴気こくしょうきの結晶だ。その毒は猛毒であり、触れただけで火傷を負うほど。


 僕は慌ててポーチから白い宝石が嵌ったペンダントを取り出し、霊力を注いだ。

 

 すると、僕の体が薄い白い光に包まれた。


 黒瘴気こくしょうき黒瘴灰こくしょうはいを浄化する霊力の防護結界だ。これで、安全に黒瘴こくしょう地帯の中でも動くことができる。


「あ」


 ウィィィーーンと駆動音が聞こえてきた。振り返れば、霊航機が離陸を開始していた。エンジンが再始動したのだろう。


 そして瞬く間に霊航機は発進してしまった。僕をおいて。


「ええ~。おいていかれるとは思ったけど、ここまで躊躇いがないなんて……」


 ……けど、まぁ、いいか。みんな助かるだろうし。


 そう思って、僕は前を向いた。竜が僕を見ていた。


 体長は納屋ほどの大きさで竜種の黒瘴獣こくしょうじゅうの中ではあまり大きくない方だ。竜の中では一番弱いCランクだろう。


 しかし、青みがかった灰色の鱗と翼を持ち黒瘴灰こくしょうはいを纏ったその姿は、恐ろしという言葉の一言に尽きる。


 “死”そのものが目の前にいるかのようだ。体が酷く震え、冷や汗が止まらない。


 竜型の黒瘴獣こくしょうじゅう……黒瘴こくしょう竜の周りには、四人の聖霊騎士が倒れていた。血を流している。息はあるが、瀕死に近い。黒瘴灰こくしょうはいを防ぐ霊力も纏っていない。


 もう、長くないだろう。僕では、助けられない……


「グルゥゥーー」


 黒瘴こくしょう竜が低く唸り声をあげた。その眼には、敵意はなかった。怒りも、何もなかった。


 獲物を見るかのような目をしていた。取るに足らない脆弱な生き物を見るかのような目をしていた。


 僕は眼中にないのだ。爪で一撫ひとなでですれば死ぬと思っているのだ。


 その事実に、足がすくむ。息が苦しくなり、体がガタガタ震える。


 それでも僕はポーチから小さなピストルを取り出し、空に向けて放った。ピュ~と間の抜けた音と共に打ちあがったそれは、上空で弾けて大きく光った。


 聖霊騎士団への救援信号だ。今頃、霊航機に乗っている心優しい少女が通報しているかもしれないが、生存確率を上げるためには僕もできる限りのことはした方がいいと思った。


 ただ、僕の行為は黒瘴こくしょう竜を大きく刺激したのだろう。


「ガアアーーー!!」


 黒瘴こくしょう竜は大きく翼を羽ばたかせて浮き上がり、口を大きく開いた。おどろおどろしい黒の光を口に集め、僕に向かって放った。


 ブレスだ。おどろおどろしい黒の極太の光線だ。打ちぬかれれば、即死だろう。


 ああ、死ぬのかな?


 せっかく地元を出て、おっぱいの大きい美少女と話して、あまつさえおっぱいも揉んだのに。ここで終わるのか。


 にしても、初めておっぱいを揉んだけど、ホント柔らかかったな。兄ちゃんがおっぱいサイコーと言っていた理由も分かる。


 ……あれ、死んで妥当では? 死に際でこんなこと考える僕は死んで当然では?


 そんな阿呆な事を考えている内にブレスは僕の目の前まで迫っていて。


「はぁ」


 溜息を吐いてその場を離脱・・・・・・しようとして・・・・・・、しかしその前に。


「ホムラ君ッッ!!」


 ローズがくれないの刀身の剣でブレスを切り裂いたのだった。

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