第45話 額飾り--前編--
オリアスとヒルドの婚約が発表された三か月後、婚礼の儀がヨトゥンヘイム王宮で盛大に執り行われた。
王太子の婚儀であれば婚約発表から一年程度の準備期間が必要となるのが通例だが、ヒルドの体調の落ち着く時期を見計らい、なおかつ子が生まれる前に挙式を済ませる為に、その日程になったのだ。
王太子の婚儀に一年の準備期間が必要となるのは、結婚に伴って新たに離宮を建て王城から独立するからだが、三か月では到底間に合わないのでオリアスの居室は当面そのまま使用し、王城内の使われていなかった幾つかの部屋を改装して、王太子妃が住まう仮の後宮とする事になった。
スリュムがフレイヤの為に建てた離宮は本来ならばヨトゥンヘイム王妃の後宮となる筈だが、フレイヤがヨトゥンヘイムを訪れる事が稀で滅多に使われない事もあって、離宮の一つという扱いになっている。
「ヒルド、綺麗よ…」
花嫁の控室を訪れた母のアルネイズは、美しく着飾った娘の姿に目を細めた。
懐妊以来ずっと室内にいた為、日に焼けて褐色だった肌は生来の白さを取り戻し、胸元に金糸の刺繍をあしらった純白の絹のドレスはゆったりと身重の体を覆い、額では宝石が輝いている。
その額飾りは婚礼の祝いとしてフレイヤから贈られた物で、フレイヤが母から譲り受けた由緒ある品だと聞き及んでいる。
フレイヤがその額飾りをヒルドに贈るとアグレウスが知ったのは、婚礼の一月前の事である。
「お召しでございましょうか」
そう言ってファウスティナがアグレウスの執務室を訪れたのは、夜がやや更けた頃だった。
呼んだ覚えは無いとアグレウスは思ったが、すぐには口を開かなかった。
その服装から、相手がフレイヤに仕える女官であると気付いたからだ。
が、フレイヤの使いならば、こんな時間に来るのは妙だ。
僅かな時間、思案した後、アグレウスは無言のまま軽く手を振って取次の侍従を下がらせた。
二人きりになってから改めてファウスティナに向き直り、その左右で色の異なる瞳に見覚えがあるのを思い出す。
「呼んだ覚えは無いが、そなたは…」
相手が誰なのか思い出そうとしながら、アグレウスは言った。
ファウスティナは口角をきゅっと上げ、作り笑いを浮かべる。
「レオポルドゥス公爵家のファウスティナにございます」
「…以前、公爵家の園遊会で会ったな」
その時の事を思い出しながら、アグレウスは言った。
「覚えていて頂けたとは、光栄に存じます」
言って、ファウスティナは優雅に一礼した――園遊会で初めて会った、その時と同じように。
数十年前のその日、レオポルドゥス公爵家で盛大な園遊会が催され、上級貴族の全てと女皇フレイヤが招待された。
表向きの名目は別にあったが、成人したばかりの公爵の孫娘のお披露目が目当てであるのは誰の目にも明らかだった。
片足が不自由な為、外出を好まないフレイヤの名代としてアグレウスが出席したが、レオポルドゥス公爵家の目当てがアグレウスの出席にある事もまた、誰の目にも明白だった。
公爵家にアグレウスまたはオリアスと年回りの合う女児が生まれた時点で、二人の皇子いずれかのお妃候補であると周囲から目されていたからだ。
その二年前にマクシミリアヌス公爵家で同じように園遊会が開かれ、アグレウスは同じように回りくどい招待を受け、公爵の末娘であるエレオノラに引き合わされていた。
エレオノラはいかにも深窓で育てられた上流貴族の令嬢といった風情で、アグレウスの印象には残らなかった。
そのアグレウスがファウスティナの事は覚えていたのは、左右ではっきりと色あいの異なる瞳のせいである。
上流階級にのみ見られる特徴なので表立って口にする者はいないが、数世代にわたって繰り返された血族結婚がその原因と見做されており、高貴な血筋が保たれているが故の美質であると捉える者がいる一方、濃すぎる血がもたらした業病であるかのように忌み嫌う者もいた。
園遊会で初めて会った時、ファウスティナは少しも悪びれる事なくまっすぐにアグレウスを見つめ、あたかも色の異なる瞳を見せつけられているかのようにアグレウスは感じ、違和感を覚えた。
二人は皇族の貴公子と上級貴族の姫君に相応しい態度できわめて儀礼的にわずかばかり言葉を交わしただけだったが、アグレウスが感じた違和感は園遊会の間、ずっと続いていた。
『レオポルドゥス公爵様の姫君の瞳の御色、御覧あそばしましたか』
園遊会を辞して皇宮に戻る支度を他の侍女に指図しながら半ば独り言のようにドロテアが言った時、アグレウスは違和感の正体に気づいた。
園遊会への出席が決まった折にもドロテアは『レオポルドゥス公爵様の姫君の瞳の御色、御覧あそばしますように』と、やはり独り言のように呟いていた。
アグレウスがまだ幼かった頃、フレイヤの女官の中に鳶色の右目と薄い灰色の左目を持つ年配の宮女がいた。
ドロテアははっきりと態度に表さなかったが、自分の乳母がその色違いの瞳を持つ女官を毛嫌いしているらしい事は、幼いアグレウスにも何となく感じ取れた。
やがてその女官が年齢を理由に職を辞して宮廷を去った時、ドロテアは安堵したように『これでもう、あの瞳で見られる事がなくなりました』と呟いた。
好奇心を抑えられずどういう意味なのか尋ねたアグレウスにドロテアは――かなり回りくどく曖昧な表現ではあったが――あのような色の瞳は好ましからざる血族結婚の繰り返しの結果なのだと教えたのだ。
それでアグレウスは女官が病気なのだと思い、それが理由で辞職したのだと考えて、あの女官は何の病なのかと翌日、侍医に尋ねた。
もしやフレイヤに伝染するような悪い病では無かろうかと、子供心に心配したのだ。
侍医は女官が辞職したのは「充分に長く陛下にお仕えしたから」であり病などでは無いと説明すると共に、病の話は誰に聞いたのかと尋ねた。
『…別に、誰にも。』
やや躊躇ってから、アグレウスはそう答えた。
皇太子である自分の乳母が女皇の女官を密かに毛嫌いしていたなどと、知られてはならないと思ったのだ。
『もしやかの女官の瞳の色をお気になさいましたか?』
侍医の問いに、アグレウスは首を横に振った。
が、侍医はそれを見なかったかのように左右で色の異なる瞳を持つ貴顕の名を幾人も挙げ、それは由緒ある家柄で高貴な血統が保たれている事の証なのだと説いた。
そしてアグレウスは侍医の瞳の色が左右でわずかに異なっているのを、その時初めて気づいたのだ。
侍医の言葉を聞いて
それなのに初めて会った時、アグレウスはファウスティナの瞳の色に、何故か悪い印象は持たなかった。
そして何故、悪印象を持たないのかがわからず、それが違和感となって
ドロテアの言葉を聞いて幼い頃の記憶が蘇り、アグレウスはドロテアの独り言のような呟きの意味を理解した。
『…そなたはファウスティナの瞳の色を好ましく思わぬようだな』
アグレウスの言葉にドロテアはやや驚いて相手の横顔を見たが、その表情はすぐに平素の無表情へと戻った。
『私には意見も感想もございませぬ。全ては女皇陛下と東宮様の御心次第でございます』
アグレウスはそれ以上何も言わずに帰途につき、ドロテアもファウスティナに関し、それ以降、口にする事は無かった。
園遊会で初めて会ったその時と同じように、今もファウスティナは少しも悪びれる事なくまっすぐにアグレウスを見つめている。
ファウスティナは侍医と同じように、色違いの瞳は高貴な血統が保たれている証と認識しているに違いないのだと、アグレウスは思った。
そしてあの時、悪印象を持たなかった理由が、今になってやっとわかった。
ファウスティナの右の瞳は自分と、左の瞳はオリアスと同じ色なのだ。
「それで、用件は何だ?」
「二の宮様のご婚礼に関連して、東宮様のお耳に入れておく事がございます」
短く、アグレウスは問い、ファウスティナも端的に答えた。
「申してみよ」
内心では不穏なものを感じながら、それを抑えてアグレウスはファウスティナを促した。
一息置いて、ファウスティナは口を開く。
「本日、女皇陛下からヒルド様にご成婚のお祝いとして下賜される額飾りをご用意する旨、申し付かりました」
ファウスティナの言葉を聞き、自分はまだ祝いの品を決めていなかったと、アグレウスは思った。
通例より準備にかけられる時間が遥かに短いので特注品を作らせる事が出来ず、すぐに手に入る品か手持ちの何かから選ばなければならないのだが、そういった中から王太子の婚礼のような特別な機会に相応しい祝いの品を選ぶのは困難だからだ。
「女皇陛下がお選び遊ばしたのは、陛下が母君より譲り受けられ、スリュム王陛下とのご婚礼の際に身に着けておられた額飾りだと承っております」
「……!」
ファウスティナが祖母のセンプロニアから厳しく躾けられていたように、アグレウスも感情を表に現さぬよう、乳母のドロテアから教え込まれていた。
だがファウスティナの言葉を聞き、驚きを隠す事が出来なかった。
フレイヤがその母から譲り受け自らの婚儀で身に着けた額飾りは、本来であればヘルヘイムの皇太子妃に受け継がれるべき品だからだ。
そしてアグレウスの驚愕は、ファウスティナの予想通りだった。
それを予測したからこそ、呼ばれてもいないのに今、ここに来ているのだ。
ファウスティナに表情を見られまいと、アグレウスは相手に背を向けたが、それが却って動揺を隠せないのだとファウスティナに確信させる事となった。
「私もとても驚いております。あのような由緒あるお品を陛下がお選び遊ばそうとは…」
宥めるような口調で、ファウスティナはアグレウスの背中に語り掛けた。
ここに来たのはアグレウスに『事実』を告げる為と言うより、それによって立場が微妙になるアグレウスに、自分が――と言うよりレオポルドゥス公爵家が――味方であると伝える為だ。
「女皇陛下は東宮様もこの事にはご賛同なされたと仰せでしたが…」
ファウスティナの言葉に、アグレウスは反射的に相手を見た。
そして、すぐにまた視線を逸らす。
――私が賛同しただと? それどころか、そんな話を一体、いつ――
動揺するアグレウスの脳裏に、オリアスの婚約を伝えた時のフレイヤの言葉が蘇った。
――あなたが賛成してくれて、安堵しました
あの時、確か祝いの品が話題に上っていたと、アグレウスは思い出した。
だがあの時には自分がオリアスを激怒させるような事をしてしまったのだと思い知り、祝いの品どころでは無かったのだ。
動揺の余り、フレイヤの言葉も殆ど聞いていなかった。
「――何故……」
殆ど言葉にならない呻き声が、アグレウスの唇から漏れた。
ヘルヘイムの皇太子妃が受け継ぐべき品がオリアスの妃に贈られるというのは、フレイヤがオリアスを自分の後継者、すなわちヘルヘイムの次期皇帝と見做しているのと同義だ。
だがそんな重大な事を、フレイヤがオリアスの婚約を知った直後に決断するのは余りに異常だ。
――まさか…母上はあの夜の事をオリアスから聞かされているのか…?
もしそうであれば自分の浅ましい行いを嫌悪し、何らかの罰を下そうとしても不思議では無いと、アグレウスは思った。
そして、オリアスの婚約とヒルドの懐妊を知り、オリアスという後ろ盾を失ったと知った時以上に強い焦燥――と言うより恐怖――を覚えた。
オリアスがヨトゥンヘイムの王位だけでなくヘルヘイムの皇帝の座も継ぐのであれば、自分は不要な存在となるからだ。
――まさか…まさかそんな筈は……
喉と心臓を鋼の手で絞めつけられているように感じ、身体が震えるのを止められなかった。
呼吸が荒くなり、無意識の内に胸元をかきむしる。
「東宮様…? あの、大丈夫ですか…?」
ファウスティナは声を掛けたが、アグレウスは答えなかった。
応えられなかったのだ。
常に冷静なアグレウスが激しく動揺する姿に、ファウスティナは「やり過ぎた」と思った。
だが、もう後戻りは出来ない。
「アグレウス様、お気を確かに…!」
アグレウスの前に立ち、小刻みに震える手をしっかりと握ってファウスティナはやや強い口調で言った。
それが非礼であり、フレイヤの女官という立場で取るべきでは無い行動であるのもわかっているが、今はこうするしか無いのだと、内心で自分に言い聞かせる。
「何もご懸念には及びませぬ。フレイヤ様のお考えを変える手段はございます…!」
ファウスティナの言葉に、アグレウスは半ば呆然と相手を見つめた。
ファウスティナを、と言うより、オリアスと同じ色の左の瞳だけを。
「ゆっくり息を吸って、そして吐いて下さい。ゆっくり、ゆっくりです」
アグレウスの手を引いて長椅子に座らせながら、ファウスティナは言った。
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