第44話 参議
ファウスティナが祖母に呼び出された前日、アグレウスは母フレイヤの私室に呼ばれ、オリアスが婚約したと聞かされた。
「婚約…ですか」
意外に思い、アグレウスは訊き返した。
レオポルドゥス公爵とマクシミリアヌス公爵が自家の姫をオリアスの妃にしようとしているらしいとの噂を耳にしたのは三か月ほど前の事だ。
たった三か月でヘルヘイムの公爵がヨトゥンヘイムにいる王族との婚約を成立させるのは早過ぎるし、何より両公爵家の動向には注視しているが、取り立てて何の動きも無かった筈だ。
内心、警戒心を抱きながら表面上は平静を装うアグレウスとは対照的に、フレイヤはおっとりと微笑んで頷く。
「月に一度は文を交わしているというのに、そんな相手がいるなんて少しも話してくれなくて…」
フレイヤの口調はやや寂しげではあったが、それでも喜びの方が上回っているのだと、その表情から窺えた。
「それで、相手は誰なのですか?」
「ボルソルン大将軍という方の姫だそうです。スリュム殿が盟友と認める程、多大な功績のあった方だとか」
「ではヨトゥンヘイムの貴族の令嬢…という事ですか」
相手がレオポルドゥス公爵の孫姫でもマクシミリアヌス公爵令嬢でも無いと知り、幾分か安堵してアグレウスは言った。
少なくともこれで、オリアスが姻戚関係を通じてヘルヘイム皇宮に影響力を及ぼす事態は避けられる。
「何でもオリアスの側近護衛官を務めている
「……!」
隠しきれずに驚愕の表情を見せたアグレウスに、フレイヤはくすりと笑う。
「私も驚きました。オリアスの事は、ついこの間、成人したばかりのように思っていたので…」
――オリアス殿下の側近護衛官を勤めております、ヒルドと申します
アグレウスの脳裏に、ヒルドの言葉が鮮明に甦った。
オリアスに掛けられた呪詛を解く為ならば自分の生命を
そしてオリアスとヒルドが深い仲で無い事は、あの時、はっきりと確かめた。
――まさか、あの夜…か?
背筋がぞくりと粟立つのを、アグレウスは覚えた。
――あの夜に懐妊し…そしてあの夜の事をオリアスに……
ヒルドに夜伽を命じた時、アグレウスはヒルドがそれを誰にも口外しないだろうと高を括っていた。
そんな事をすればヒルド自身の恥辱になるからだ。
だからその時には気にも留めなかったのだが、自分の側近護衛官を凌辱されたと知ってオリアスがどれほど憤るか、火を見るより明らかだ。
だがオリアスは、あの夜の事に関して詰責の書状を送っても来ない。
或いはヒルドが懐妊したのはあの夜ではなく、ヨトゥンヘイムに戻ったすぐ後かも知れないと、アグレウスは思った。
思おうとした。
が、その考えは言葉になる前に打ち消された。
オリアスの性格を考えれば、ヒルドと特別な仲になったのなら、その時点で婚約の手はずを整えた筈だ。
そしてオリアスがそういう性格だからこそ、ヒルドと深い仲でありながらそれを公表していないなら、そこに何らかの秘密がある筈だとアグレウスは考え、興味を持ったのだった。
父スリュムに毛嫌いされているアグレウスに取って、オリアスは貴重な橋渡し役だし、ヨトゥンヘイムの強力な兵団を利用するのにも不可欠な存在だ。
だから何があってもオリアスを味方に付けておきたかったし、もしもオリアスに秘密があるならそれを握っておくのは得策だと考えた。
だが、それは裏目に出た。
オリアスの秘密を握るために取った手段は、失敗すれば余りに危険な悪手だったのだ。
「…どうかしましたか?」
深刻な表情で黙り込んでいるアグレウスに、不審そうにフレイヤは訊いた。
「何でもありませぬ。ただ…弟に先を越されるとは思っておりませんでしたので…」
「あなたには幾人も側室がいるではありませぬか。でも確かに、お妃はまだですね」
再び鷹揚に微笑んで、フレイヤは言った。
「祝いの品を、考えねばなりませぬ」
半ば上の空で、アグレウスは言った。
オリアスが激怒しているのは明らかだが、表立って非難はしてこない。
ヘルヘイムとヨトゥンヘイムの関係悪化は望んでいないという意思の表れなのだろうが、それだけであれば当てつけのように婚約発表と共にヒルドの懐妊を公表などしなかっただろう。
それに妃に娶ると決めたくらいなのだから、オリアスに取ってヒルドは――深い仲では無かったにせよ――アグレウスが思っていた以上に大切な相手だったのだ。
それをあのような形で傷つけられた以上、オリアスが自分を赦す事は決してないのだと、アグレウスは改めて思った。
そしてそれは大きな後ろ盾を失う事を意味し、アグレウスは強い焦燥感を覚えた。
喉元を締め付けられているかのように息苦しく、無表情を保つのに精いっぱいだった。
「…と考えているのですが、どう思いますか?」
だから、フレイヤに問いかけられた時も、殆ど聞いていなかった。
「良いお考えだと思います」
「あなたが賛成してくれて、安堵しました」
嬉しそうに微笑んでフレイヤは言ったが、その言葉と微笑みの意味を、アグレウスは理解していなかった。
オリアスの婚約発表に伴いヨトゥンヘイムでは恩赦が発令され、呪詛事件以来ずっと城内で軟禁状態だったドロテアたち侍女の軟禁も解かれ、ドロテアが病を得た事もあって、二人の姪ともどもヘルヘイムへの帰国を許された。
アロケルたち祐筆はそのままヨトゥンヘイムに残ったが、監視が解かれる事は無かった。
ザガムの間者であったイレーナは、ザガムの死によって無害になったと見做され、国外追放となった。
恩赦と共に発令されたのは王の許可なく豪族の婚姻・養子縁組を禁じる法令で、豪族同士が結託して勢力を拡大するのを防ぐのが目的であり、豪族の間では当然、不満の声が出たものの、王太子の婚約という慶事に水を差すのは無粋だとして強く反対を唱える者も無く受け入れられた。
この時期にその新法を発令したのは、今であれば豪族の反発が抑えられるであろうとオリアスが進言した為である。
そのオリアスに呼び出され、エーギルはオリアスの執務室を訪れていた。
「まずはご婚約、おめでとうございます」
エーギルの言葉に、オリアスは微笑して軽く頷いた。
「それで、ご用件は…?」
「そなたが
「はい」と、エーギルは破顔して答える。
「初めは自分に文官が務まるのかと心配でしたが、戦士としての経験も活かす事ができるし、適役だと思っています」
エーギルの言葉に、オリアスはわずかに眉を潜めた。
「だが伯の兄上からは、『武官だか文官だかわからない中途半端な役職だ』と苦情を言われている」
「親父殿が…?」
エーギルの脳裏に、『文官になるなら本気でやれ』と言っていたギリングの姿が浮かんだ。
武術競技会で利き腕に治癒不可能な傷を負い、戦士としての前途が閉ざされた時の事だ。
「親父殿はそう言うかも知れませんが、俺は自分にぴったりの役職だと思っています。新設されたばかりの組織だから最初は戸惑う事も多かったけれど、最近では随分、慣れてきましたし、仕事を通じて豪族の知り合いも増えました」
エーギルの言葉に、オリアスはすぐには何も言わず、暫く口を噤んでいた。
それから、口を開く。
「判っているとは思うが、弾正台は豪族の自治権を制限し、王に権力を集中させる為に設立した。そして豪族の反発を抑える為に、豪族の子弟の多くを弾正台の官吏に登用している。彼らを王の臣下とする事で、更に王の権力と権威を高める目的もある」
「…それは分っています」
視線を落として、エーギルは言った。
弾正台の官吏の殆どが豪族の子弟で――それも家督を継ぐ事の出来ない次男坊以下――王の甥がその中に加わっているのはいささか場違いに見えた。
しかもギリングは側室腹とは言えスリュムの長男であり、古くからスリュムと共に戦いヨトゥンヘイム建国にも貢献した大将軍で、エーギルはその嫡男である。
本来であれば大将軍となって父ギリングの領地を相続する筈であったが、負傷によりその前途を絶たれたのだった。
「正直に言って」と、視線を上げてエーギルは口を開いた。
「弾正台で自分が浮いているのは自覚しています。でも治安維持の仕事にはやり甲斐を感じていますし、周りの豪族たちも少しずつ打ち解けてくれるようになりました」
「…では、今のままで構わぬ、と?」
オリアスの言葉にエーギルは何かを言いかけたが、一旦、口を閉じ、やや考えてから再びオリアスに向き直った。
「今のままでいるつもりはありません。弾正台の官吏となった以上は、弾正台長官を目指します」
エーギルの言葉に、オリアスは満足そうに柔らかく微笑した。
「それが聞きたかったのだ。試すような言い方をして済まなかった」
「……え?」
オリアスは部屋の隅で控えているヴィトルに軽く頷き、ヴィトルはそれに応えてオリアスに歩み寄り、羊皮紙を手渡した。
「父上の命令書だ。そなたを、参議に任ずる」
「……!」
唖然として、エーギルは両眼を見開いた。
参議とは上位の行政官であり、政府首班に位置付けられる。
ヨトゥンヘイムではそれまで大将軍たちが行政官を兼任しており、職務遂行の効率化の為にオリアスがヘルヘイムから導入した比較的新しい職制であり、それゆえオリアスの側近が殆どの参議の座を占めていた。
「既得権を奪われる将軍たちの反発もあったし、ほぼ全員が私の側近なので今までは『王太子の侍従』の域を出ていなかった。だがこれからは正式に王の直属の行政官として、この国の
「…そんな重要な役割を俺に……?」
「能力のある者ならば、豪族からも積極的に登用していく予定だ。定員は決まっているので任期を定め、功績のあった者は留任、そうでなかった者はそれで終わりだ」
オリアスの言葉に、エーギルは一瞬、ひるんだような表情を見せた。
が、すぐにそれは強い決意の現れたそれに変わる。
「大役を任せていただき、光栄です。宰相を目指す気持ちで精進します」
エーギルの言葉に、オリアスは再び満足そうに微笑した。
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