第29話 報復
「お帰りなさいませ、フォルカス様」
城に戻った夫を、テレンティウス伯爵の長女マグダレナは精一杯の愛想を込めて侍女たちと共に出迎えた。
「ただいま」
短く言って、フォルカスは微笑した。
その笑顔を見るたび、マグダレナは元親王で美貌の貴公子を夫にする事ができた幸運に感謝する気持ちになった。
だが同時に、お世辞にも美人とは言えない自分が新婚の夫に相応しくないと、他ならぬ本人から思われているのではないかと、不安になる。
夫の外出の多い事がその不安を増すのだが、嫌われたくないので外出先を尋ねたり外出の多さに不満を漏らしたりは決してしなかった。
それに不安を増す要素は、フォルカスの外出の多さだけに留まらない。
フォルカスとマグダレナの結婚後、テレンティウス伯爵家では頻繁に茶会や舞踏会を催し、多くの貴族や裕福な平民たちを招いていた。
テレンティウス伯爵は他の貴族たちのように伝統的な領地経営をするだけでは無く、積極的に事業を広げ、投資を行う事で財を築いた。
その商工業者のような振る舞いや、事業の為に平民の富裕層と交流を持つ姿を、多くの貴族たちは密かに嘲笑していたが、その嘲笑には多分に嫉妬も含まれていた。
テレンティウス伯が娘の夫にアグレウスの子息を望んだのは、そうした冷笑や悋気を退ける為であり、頻繁に舞踏会などを催すのは、望みどおりに手に入れた婿を披露する為である。
伯爵は得意満面であったが、マグダレナの心境は複雑だった。
容姿の整ったフォルカスの隣に並ぶと、いやが上にも自分の外見が劣っているのが目立ってしまう。
元親王を婿養子に迎えた事で伯爵家は他の貴族たちから一目置かれるようになっただろうが、自分個人への侮蔑は一層、酷くなったのだと感じずにはいられない。
それでも――と言うより、それだからこそ――彼女は来客の前では堂々と振舞い、精一杯、幸福な新妻を演じる事であざけりを跳ね除けようとしていた。
マグダレナの心労の種は他にもあった。
言うまでも無く舞踏会には女性も多く招かれ、美女も少なくない。
そしてフォルカスが彼女たちに温和な微笑を向け、楽しそうに一緒に踊る姿を見る度に、胸を締め付けられるような息苦しさを覚えた。
それでも表面上は寛大な笑顔を絶やさず、おだやかな眼差しで夫を見守った。
今のところ唯一の救いは、フォルカスは外出が多いものの外泊する事は無く、夜は必ず妻の許に帰って来る事だ。
「ところで一つ、お願いがあるのだけれどね」
居間に落ち着くと、微笑を浮かべてフォルカスは言った。
「はい。何なりと」
「少し、遠出をする用事ができたので、侍女に旅の支度をさせてくれないかい?」
「旅……で、ございますか?」
驚きを隠しきれず、マグダレナは訊き返した。
フォルカスは再び微笑する。
「旅と言うと大袈裟に過ぎるね。ほんの二泊ほどだよ」
「それでも……他所にお泊りになるのですね……」
自分の口元が引きつっているのを、マグダレナは感じた。
そして、笑顔を見せなければならないと、自らに言い聞かせる。
「実は母上の乳母だった女性が病に臥せっていると人づてに聞いてね。見舞いに行くつもりなのだよ」
マグダレナの不安を見透かしたように、穏やかな口調でフォルカスは言った。
「で……では、私もお供いたします」
思わず言ったマグダレナに、フォルカスは幾分、哀しそうな表情を浮かべて首を横に振る。
「知っての通り、母上の祖国はもう、戦で滅んでしまった。戦の後、乳母の家も凋落して……今はとても苦しい暮らしをしているらしい。君を連れて行けるような家には住んでいないのだよ」
「それならば、その方を我が家にお迎えしてはいかがでしょうか?」
「この城に?」
訊き返した夫に、マグダレナは温和な笑顔を見せて頷いた。
「フォルカス様にご縁のある方ならば、当家にも縁のある方です。不如意な暮らしをしているのならば、こちらで引き取って、医師にも診せましょう」
「君はとても優しいのだね」
物柔らかな口調と笑顔でフォルカスに言われ、マグダレナの顔に、作り笑いではない心からの笑みが浮かぶ。
「では君の優しさに甘えさせてもらう事にするよ。まず私が乳母に会って、話をしてくる」
フォルカスの言葉に、マグダレナの顔から笑みが消えた。
「……お言葉ではございますが、フォルカス様が自ら御出でにならなくとも、使いの者を迎えにやれば……」
「乳母は以前の身分を隠して暮らしているのだそうだ。それもあって、本当に母上の乳母だったのかどうか定かではないのだよ。だからまず私自ら行って母上の思い出話でもして、素性を確かめる必要がある」
マグダレナは視線を落とし、足元の絨毯を見つめた。
これ以上、食い下がれば、夫の機嫌を損ねる事になり兼ねない。
「では……侍女に支度を申し付けます。お泊りですので、御者と下男の他に従者もお連れ下さいませ」
「ありがとう。君のような妻を持って、私は果報者だよ」
穏やかな微笑と共にフォルカスは言った。
マグダレナも笑顔を返したが、それは心からのものでは無かった。
ヨトゥンヘイムに来て半月が過ぎ、父のアグレウスにどう報告すべきか、アロケルは悩んでいた。
アロケルが担当となったのは弾正台の官吏になったばかりのエーギルだが、他の四人の祐筆達も、同様に新任官吏に割り当てられたので、国政にかかわるような書類とは無縁だった。
しかも重要な職に就いている文官は全てオリアスの側近で占められており、彼らに近づく他に、重要文書に触れる機会はありそうに無かったし、彼らに近づくだけの伝手も口実も何もない。
半月も経つのに何の報告も行わない訳には行かず、かと言って役に立ちそうに無い情報を送ってアグレウスを失望させるのは避けたく思って苦慮するアロケルは、その日、エーギルがオリアスと豪族たちの会議に臨席している事を、他ならぬ本人から聞き知った。
「文官になられたばかりとお聞きしましたが、そのような重要な会議に参加しておられるのですか?」
半ば驚き、半ば感心して訊いたアロケルに、エーギルは苦笑した。
「参加……って訳じゃないな。発言は許可されていないから、ただの見学だ」
「見学……ですか?」
訊き返したアロケルに、エーギルは頷く。
「前も言ったが、俺はアルヴァルディ様を尊敬しているから少しでも見習いたくてな。親父殿に頼んで豪族会議に顔を出せるようにしてもらった」
エーギルの説明に、アロケルは驚きを隠せなかった。
オリアスが身分の割りに気さくな性格である事は知っていたが、側室腹の異母兄の依頼――それも、国政にかかわるような――を受け入れるだろうとは、思っていなかったのだ。
自分の立場に置き換えたら、異母兄のザガムに頼みごとをする事自体が考えられない。
オリアスの性格によるところも少なくないのだろうが、何よりヘルヘイムとヨトゥンヘイムの風習の違いの影響が大きいのだろうと、アロケルは思った。
「それで……豪族との会議ではどのような事が話し合われるのでしょうか?」
勤めて平静を装って、アロケルは訊いた。
「その時によって色々だが……豪族たちからの陳情を受けたり、逆に豪族への通達を行ったり。豪族たちが大人しく従わない時の方が多いから、それをアルヴァルディ様が説得したり、陳情の受入と引き換え条件としたりの駆け引きになる事が多いな」
「とても興味深いお話ですね」
微笑してアロケルは言ったが、内心では、こんな曖昧な内容ではアグレウスに報告できないと危惧していた。
だが自分の職務に無関係な事をしつこく聞き出そうとすれば、疑いの目を向けられてしまうだろう。
「ただの見学とは仰っても国政にかかわる会議にエーギル殿が出席なさっているとは、お父君はさぞ、エーギル殿の事を誇りに思っておいででしょうね」
「さあ……それはどうかな」
不自由な右手の代わりに左手でがしがしと頭を掻いて、エーギルはぼやいた。
「親父殿は元々、俺を大将軍にしたかった訳だし、親父殿自身は見学なんぞでなく、ちゃんと会議に出てる訳だし……」
「会議に出席しておられる……?」
訊き返したアロケルに、エーギルは頷く。
そして、スリュムは四人の息子たちを差別無く会議に同席させて国政の最終決定を行うのだと説明した。
「と言っても、戦や戦士に係わりの無い事だとアルヴァルディ様以外はほぼ無関心だからな。戦以外の殆どの事は、アルヴァルディ様が側近たちと検討して取り決めて、それをそのまま承認する形になっているようだ」
「そうだったのですか……」
再び意外に思いながら、アロケルは呟いた。
ヘルヘイムでは国政の最終決定は御前会議でなされ、フレイヤの代理として常にアグレウスが臨席する慣わしとなっているが、アグレウスがその会議に親王たちを出席させる事は無い。
もし兄の第一王子が将来、ヘルヘイムの皇太子として御前会議を開くことがあっても、側室腹の自分を臨席させる事など決して無いだろう。
「……そんなに意外か?」
アロケルの表情を見遣って、エーギルは訊いた。
アロケルは目を伏せ、苦く笑う。
「ヘルヘイムでは、母親が異なれば同じ兄弟とは看做されないのです……。実際のところ、ザガム殿下の他には、殆ど言葉を交わした事もありません」
「……そうか」
短く、エーギルは言った。
哀しげに視線を落とす従兄弟を慰めてやりたいとは思ったが、かけるべき言葉が見つからない。
「少し、余計なおしゃべりが過ぎてしまったようです。今日の分の報告書を仕上げてしまいましょう」
努めて明るく笑ってアロケルは言った。
そして内心では、スリュムが庶子たちを国政会議に同席させている事をアグレウスに報告しようと考えていた。
「まあ、どなたかと思えばフォルカス様。そのようなお姿で……」
数日後のヘルヘイム郊外。
再び城を訪れたフォルカスに、ミリアムは驚きを隠せずに言った。
平民のような服装をしていたし、実際、商人だと名乗っていたからだ。
「訳あって、本日、私がここに参った事は他言無用に願います。伯爵家の馬車と従者たちも、言い含めて宿で待機させてあります」
穏やかな微笑を浮かべながら、やや声を潜めてフォルカスは言った。
ミリアムは深く頷く。
「ご安心を。取り次いだのは私が祖国にいた頃から仕えてくれている忠実な侍女のみです。今も故国にいる廷臣たちなぞより、ずっと信頼できます」
廷臣への不満を漏らしたミリアムに、フォルカスは黙って微笑んだ。
その様子からすると、ミリアムの故国の廷臣たちは、彼女の思惑通りに動いていないようだ。
故国の廷臣たちに取ってミリアムが今でも主筋である事は確かだが、皇宮を離れた今のミリアムはヘルヘイム宮廷に対して何の影響力も持ってはいない。
旧王家の血筋を遺すという点でもミリアムには最早、期待できない。
故国の廷臣たちがミリアムの居城へ伺候するのは旧王家への忠誠心ゆえだが、今ある平和を脅かしかねない
――廷臣たちが動いてくれるのが理想だったが、矢張り後押しする必要があるか……。
できればその手は使いたくなかったが止むを得まいと、フォルカスは思った。
今日、ここに来たのも、その後押しをする為だ。
「今の私は後宮から退いた身ですが、お陰で却って行動の自由を得ました。それに侍女たちには色々と
「皇宮を離れたお陰で自由を得られた事は、私も嬉しい思いと共に実感しています。以前は公用以外で皇宮から出た事がありませんでしたから」
温和な笑みを浮かべ、フォルカスは優しく言った。
それに侍女が役に立つのも実感していると内心で呟いたが、言葉には出さなかった。
「して、本日そのようなお姿で御出でになられたのは……」
期待を込めて訊いたミリアムに、フォルカスは頷いた。
そして相手の傍らに歩み寄り、小さな皮袋を手渡す。
耳元で何事かを囁いてからフォルカスが元の席に戻ると、ミリアムは満足そうな笑みを浮かべた。
「これで、可愛そうなマルバスが報われます……」
呟いたミリアムの目は、焦点が定まっていなかった。
同じ頃。
ヘルヘイム皇宮内にある自室で、第一王子ザガムは間者から受け取った密書を前に、眉を顰めていた。
それによれば、ヘルヘイムの二大貴族であるレオポルドゥス公爵とマクシミリアヌス公爵が、それぞれ孫娘や末娘をオリアスに嫁がせようと画策しているのだ。
それが事実であれば、ヘルヘイムで最も保守的で勢力を持つ二大家が、皇太子であるアグレウスを差し置いて、密かにオリアスに接近を図っている事になる。
「皇家と並ぶほどの由緒ある家柄である彼らが、蛮族の国と見下しているヨトゥンヘイムでの勢力拡大を図るとは考えにくい」
ザガムの言葉に、側近のハーゲンティは頷いて同意を示した。
「では彼らが叔父上に接近を図るのは、叔父上をヘルヘイムの次期皇帝に擁立しようとしているから…か?」
ヘルヘイムとヨトゥンヘイムの同盟はスリュムとフレイヤの婚姻のみを拠り所としており、次の代でもアグレウスとオリアス、二人の君主によって統治される予定となっている。
そして二人の君主を持つ連合王国は、二つの頭を持つ蛇のようなもの。常に分断の危機に晒されていると言える。
一人の君主が支配する事によって、連合王国は完全にひとつの国となり、安定と強大さを得られるのだ。
ヘルヘイムとヨトゥンヘイムが連合王国になった時から、君主は一人であるべきだと論ずる者がいるのはザガムも承知していた。
本来であれば戦で勝利したヨトゥンヘイムがヘルヘイムを支配すべきであったが、スリュムはフレイヤの愛を得る方を優先した。
一方でフレイヤはヘルヘイム皇家の最後の生き残りとして、ヘルヘイムの独立を保とうとした。
その為に、ヘルヘイムにはヨトゥンヘイム王とは別の皇帝を立て、ヘルヘイムがヨトゥンヘイムの支配下に入ることを防ごうとしたのだ。
「これが事実であれば由々しき事態だ。父上が次期皇帝でなくなったら、私はどうなるのだ…?」
蒼褪めた顔で、ザガムは呻いた。
「父上がヘルヘイム皇帝になられたとしても私が次の皇太子になれるかどうか定かでないと言うのに、叔父上が皇帝になどなられたら、私が皇太子になる可能性が完全に無くなってしまうではないか」
「…何らかの手を打った方が良かろうかと存じます」
「何か策があるのか? 相手が二大貴族では、迂闊に近づく事も出来ぬぞ」
「お言葉の通り、我らに出来る事は限られております」
「では、どうするのだ?」
幾分か苛立たしげに訊いたザガムに、ハーゲンティは一旦、間を置いてから口を開いた。
「父君である皇太子殿下に、この事をそれとなくお伝えするのです。あくまで商人から聞いた噂で、真偽の程は不明だと申し上げるのが宜しいでしょう。さすれば真偽の究明も為すべき対策も、皇太子殿下がお取り計らいになろうかと」
側近の言葉に、ザガムは軽く溜息を吐いた。
「確かに父上に申し上げるのが最善策だろうが、『それとなく』お伝えするのは至難の業だぞ」
アグレウスは子供たちと親しく交流する事など無い上、外見が祖父スリュムに似ているザガムは嫌われているので、用もなく会いに行く事は出来ない。
母は嬪の位を与えられた側室であるが、ザガムが生まれて以来、アグレウスの関心を失っていた。
「お母君の元の侍女で、今はアグレウス様の側室となっている方々を通じてお伝えするのが宜しいでしょう。お母君が侍女を差し出されたのは、このような時の為でもあるのですから」
ハーゲンティの言葉に、ザガムはもう一度、溜息を吐いた。
こんな手段を講じなければ実の父に何かを伝える事すらままならない現実が、厭わしかった。
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