第21話

 何分ほど経っただろうか。イエラは走っていてわかったことがある。


 まずは街の中心街はほとんどが壊滅状態であったことだ。それは、通りのあちこちに散乱している死体の数がその悲惨さを物語っている。


 だからこそ、進めば進むほど目の前に広がる光景に気を失いそうになる。


 ほんのさっきまでここら一帯は賑やかしい活気と熱気に包まれ、平和な日常が存在していたはずであった。


 行商人が開く露店の列。


 買い物を楽しむ異国の人々。


 街の警備を担当している駐留軍の軍人。


 酒を飲んで陽気に騒いでいる地元の住人。


 若気の至りで喧騒に身を任せる少年少女。


 どれもが見知った日常の光景であったが、それが今では影も形もない。あるのは身を焦がす膨大な炎と、老若男女関係なしに転がっている焼死体の群れ。


 それは、異国の本で読んだ地獄絵図という光景にそっくりであった。


 イエラは目を逸らしながら、それでも前を見つめて走っていく。


 大通りを抜ける間際になると、右側に大きな広場が見えてきた。イエラは立ち止まり、広場の中を一望する。


 広場の中は大通りよりも被害は少なそうであったが、広場全体を囲むように植えられていた木々は火災に巻き込まれ焼け焦げていた。ここは人々の憩いの場として有名であり、〝癒しの女神〟が奉られていた広場でもあった。


 イエラはしばし広場を眺めていると、大通りのほうから猛々しいエンジンを唸らせる車の音が聞こえてきた。


 軍用車両である。台数は三台。その三台の軍用車両は徐々に速度を落としていき、イエラからやや離れた位置で止まった。


 先ほど大通りで見たタイプの車ではない。装甲板が厚く、見た目には戦車のような物々しい印象がある。装甲車と呼ばれている車であろうか。以前、ワードが家に来たときに父親との世間話でそんな車のことを話していた気がする。


 そのうち、一台の装甲車のドアが重苦しく開いた。車の中からは銃火器で武装した三人の兵士が出てきた。兵士たちは持っていたライフル銃を構えて周囲を確認すると、その後から一人の優男がゆっくりと出てきた。


「これは思いのほか損害がひどいようですね」


 ロジャーである。


 装甲車から出てきたロジャーは、周囲から漂ってくる匂いに顔をしかめながらも人差し指で眼鏡の体裁を整えていた。


 その態度からでもロジャーがとても落ち着いていることがわかる。


 戦場さながらの悲惨な光景が広がっているのに、ゆっくりと首を動かし周囲を一望していた。それどころか、薄っすらと笑みを浮かべている。


 助けに来た? イエラはてっきりロジャーたちを救援部隊だと思った。しかし、すぐに様子がおかしいことに気がついた。


 ロジャーが降りてきた装甲車以外にも、同タイプの装甲車が二台あった。


 もちろん二台の装甲車に乗っていた人間は完全武装した軍人のはずである。だが、実際に装甲車から出てきた人間は軍人ではなかった。


 全身を漆黒のローブで纏い、頭には付いていたフードが深々と被せられていた。


 人数は全部で六人。微かに見えた顔には不思議な文字の刺青が施され、表情は見るからに虚ろであった。本当に人間なのかすら怪しい。


「では、始めますか」


 ロジャーがパチンと指を鳴らすと、それが合図であったように六人の黒ずくめの人間たちは広場の中央へと歩いていく。


 イエラはその男たちを呆然と眺めていると、ロジャーを護衛していた一人の兵士がイエラの存在に気がついた。何やらロジャーに耳打ちをしている。


 ロジャーはイエラに顔を向けた。すると、護衛の兵士を引き連れてイエラのほうへ近づいてきた。


「やあ、かわいいお嬢さん。こんばんは」


 ロジャーの第一声はそれであった。周囲が混乱と死と業火で溢れているというのに、気さくな笑顔でイエラに挨拶を交わしたのである。


 信じられなかった。イエラは近づいてきたロジャーに怒声を浴びせる。


「あなた軍人さんでしょ! そんな挨拶はいらないから早く皆を助けてよ!」


 イエラは広場のあちこちに人差し指を突きつけた。その指の先には怪我や火傷を負って動けない人間たちが倒れていた。その中には今すぐにでも救助しなければ命すら危ない人間も大勢いた。


 ロジャーはイエラの言い分を一応聞いて周囲を見渡したが、さして何をすることでもなく、ただそ知らぬ顔をしていた。


 そんなロジャーの対応を見たイエラは、我慢の限界を超えた。


 今の状況を改善しようとしないロジャーを一発ぶん殴ろうと近づいたが、護衛の兵士にあっけなく止められてしまった。


「こわいお嬢さんだな」


 イエラの堅く握られた拳をちらりと見たロジャーは、口とは正反対に恐怖など微塵も感じていない様子であった。それどころか、いきなり殴りかかろうとしたイエラに白い歯を覗かせて笑みを見せた。


 一方、護衛の兵士に身体の自由を奪われたイエラは、「早く医者を呼んでよ!」と喚き散らしている。


 ロジャーはイエラの言葉で何かを思い出したのか、「そう言えば……」と護衛の兵士に話しかけた。


「シモンはこの街で医者をしていたそうですね」


「はい。部下からの情報だと診療所を持たずに自分の足で診察していたようです」


 兵士からの情報を聞くなり、ロジャーは腹を抱えて笑いだした。


「ははははッ、何を今更善人ぶるような行為をしているんだ。まさかそんなことで今までしてきた実験の罪滅ぼしになるとでも思ったのか」


 ロジャーが一人で高笑いをしていると、イエラはロジャーが口にした言葉の内容に顔をしかめた。


 実験? 罪滅ぼし? イエラの頭の中には巡回医者であったシモンの顔が浮かんできたが、すぐに首を左右に振ってその顔を掻き消した。思い出すと、路地で女神像に無残にも殺された場面が浮かんできてしまう。


「お嬢さん。君はシモンをご存知なんですか?」


 イエラの様子からシモンと顔見知りだと推測したロジャーは、イエラの顎の先端を摑んでクイッと持ち上げた。ロジャーがイエラを見下ろす形になる。


「シモン先生は立派なお医者さまだ。この街の人は皆感謝している」


 毅然とした態度でイエラがそう言い放つと、ロジャーは自分の顔をイエラの顔に近づけた。お互いの息がかかるくらいに接近する。


「シモンがこの街では大変立派な医者だということはわかりました。でもね、どんな人間にも表と裏の顔が存在するんですよ。善の部分である表と、悪の部分である裏がね」


 ロジャーはイエラの顎から手を離すと、広場の中央へ視線を向けた。つられてイエラも顔を向ける。


 広場の中央は大きく地面が窪んでいた。それも何故か中心の位置から外側に向かって放射線状に窪んでいる。何か巨大な物が上空から飛来してきたのだろうか。


 いや違う。イエラはすぐに気づいた。


 たしか広場の中央には〝癒しの女神〟が奉られていた。その女神像の周囲には円形状に花壇が植えられており、そこには四季折々の美しい花が咲き乱れていたはずであった。


「やっぱりあれは……」


 イエラの脳裏にあの惨劇がありありと蘇ってくる。


 大通りの路地で目撃した化け物の正体は、ここにあった女神像に間違いなかった。シモンを殺し、カサンドラを連れ去り、多くの住人を死に追い遣った女神像。


 イエラは思った。あれは〝癒しの女神〟ではない。ただの〝殺戮の女神〟だと。


 だがイエラはすぐに自分の考えを否定しようとした。現実にそんなことが本当に在りうるのだろうか。石像が勝手に動き出し、人間を殺して回っているなど。


「現実ですよ」


 まるでイエラの心を見透かしたみたいに答えたロジャーの視線は、広場の中央に合わされている。


 やがて、黒ずくめの男たちの動きが止まった。上空から見ると、女神像が奉られていた場所を中心に囲むように立っている。


 いったい何が始まるのだろう。イエラはその異様な光景に目を奪われていると、黒ずくめの男たちが囁き始めた。距離があったためよく聞き取れないが、たしかに何やら口を動かしている。


 すると、広場の中央に異変が起こった。黒ずくめの男たちが囁くにつれ、地面に光の線が浮かんできたのだ。


 イエラは何が起こっているのかわからなかったが、その浮かんでいた青白い光の線はやがて黒ずくめの男たちを取り囲み大きな円となった。


 それだけではない。円の中には縦や横、斜めに走る一条の光の線が浮かび上がり、ある形を形成していく。


「これって……まさか」


 黒ずくめの男たちの囁きが聞こえなくなると、広場の中央には巨大な六芒星が完成していた。普通ではあり得ない常人には信じがたい光景。だがイエラはその光景をまだ受け止めることが出来た。


 蔵書の中に隠してある魔法に関する書物。たしかその本の一冊に書いてあった。


 正三角形と逆三角形を組み合わせた六芒星は、別名〈ダビデの盾〉とも〈ソロモンの封印〉とも呼ばれ、霊と肉の結合や火と水の結合を象徴するらしい。


 そしてその形自体にも魔除けとしての効果もあったらしいが、それ以外にも力があるとも書かれていた。六芒星は悪魔や精霊の類をこの世に召喚させる儀式にも使用され、また意のままに操る力があるという。


 一連の惨劇を目撃して働かなかったイエラの頭が、ここにきて急速に働き出した。

ロジャーたちが今やろうとしていることの意味を理解してきたからだ。


 イエラは広場の中央からロジャーに顔を向き直した。


 今の状況について意見を求めようとしたのだが、肝心のロジャーは炎粉のせいで茜色に染まった虚空を見上げていた。仕切りに目線を動かし、何かの到着を待ちわびているようにも見える。


 どれぐらい経ったのか。虚空を見上げていたロジャーが嬉しそうにつぶやいた。


「来たか」


 次の瞬間、茜色に染まっている上空から何かが暴風を纏って広場に落下してきた。


 激しい爆風の到来により、広場に散乱していた花壇の一部が吹き飛ばされる。イエラは思わず目を瞑った。とてもではないが目を開けてはいられなかった。


 やがて風が静まると、イエラはゆっくりと目を開けた。


 女神像である。巨大な艶かしい肢体から生えている二本の翼を自在に操り、自分が奉られていた場所の上でゆっくりと静止していた。


 その女神像を見てイエラは驚愕した。明らかに先ほどとは姿形が変貌していた。


 最初に見たときには全身を灰色で覆われ、石像であることが一目でわかった。だが今は違う。全身が新雪よりも白銀に輝き、石像というよりもむしろ人間に近い印象があった。     

 その姿は女神よりも天使に見えた。


「まさかこれほどとは……素晴らしい」


 ロジャーは感嘆の声を漏らすと、広場に現れた女神像に向かって歩き出した。その足取りからは特に慌てた様子も緊張している様子もない。自宅の庭を散歩するように余裕すら感じられた。


 ロジャーが歩き出すと、イエラを捕まえていた護衛の兵士たちも歩き出した。


「ちょっ、ちょっと! 離してよ!」


 自分は関係ないとばかりにイエラは必死に身体を揺さぶって抵抗したが、イエラを捕まえていた護衛の兵士たちに抵抗は虚しかった。がっしりと両手を後ろで固定され、身動き一つできない。


『オ前タチカ? 我ヲココニ呼ビ寄セタ人間ハ?』


 広場の中央にやってきたロジャーたちに、女神像が話しかけてきた。男性と女性が同時に喋っているような不思議な声色であった。


「初めまして、偉大なる魔王ニーズヘッグの忠実なる眷属よ。私の名前はロジャー・ヴァンヘルム。魔名をアプリュードと申します。以後、お見知りおきを」


 そう女神像に自己紹介したロジャーは、懐から一つのアクセサリーを取り出した。紅玉色をした十字架に、翼蛇が巻き付いていた不思議なアクセサリーである。


 それを見た女神像の両目が拡大した。


 瞳孔が存在していない代わりに、白目の部分全体が血のように深い赤をしている。直視しているだけで気が変になりそうな強烈な圧迫感が感じられた。


『貴様ハ本物カ? 先ホドノ男ハ偽リデアッタ。我ヲ謀ルノナラバ容赦ハセヌゾ』


「先ほどの男?」


 ロジャーは何のことかわからず首を傾げたが、後ろで会話を聞いていたイエラにはすぐに女神の言葉が理解できた。


「何で、何でシモン先生を殺したのよっ!」


 全身を覆いつくしている恐怖を必死で押さえつけ、イエラは女神像に怒声を発した。だが女神像はイエラのことなど意に介せず、ロジャーを見下ろしている。


 ロジャーはイエラを一瞥すると、頬を吊り上げて笑った。


「なるほど、そう言う訳か。シモンは〈マナの欠片〉を見つけたのだな」


〈マナの欠片〉。


 ロジャーのその一言を耳にして、イエラの脳裏には昼間の記憶が蘇ってきた。シモンは自宅に診察に来た際、森の中で拾ってきた不思議な石の名前をポツリとつぶやいていた。


 ようやく思い出した。シモンは〈マナの欠片〉と言っていた。


「どうかお怒りをお静めください。私は本物の〈蛇龍十字団〉の一人です」


 アクセサリーを掲げたロジャーは、不思議な言葉を唱え始めた。


「深き眠りの狭間の悪しき煉獄。留め置く魔は幽界の調べ、ならば聞こえよ、ならば聴こえよ」


 ロジャーが唱えるにつれ、掲げていたアクセサリーから音が発せられた。最初は小さな音から始まり、徐々に音が大きくなっていく。


 鈴を鳴らすように、ちりん、ちりん、と澄んだ音色が。


 ロジャーが不思議な言葉を唱え終わると、十字架に巻きついていた翼蛇が生き物のように蠢きだした。蠢いた翼蛇はロジャーの右手首に巻きつくと、自分の尾を口に入れブレスレットのように固まった。ぼんやりと鬼火のように青白く光っている。


 それを見つめていた女神は、二本の翼を優雅に羽ばたかせた。


『オオオオオ、貴様ハ本物ダ。本物ノ〝ネガエリ〟ノ魔法使いダ!』


 その瞬間、イエラは聞き逃さなかった。


 間違いなく女神像はロジャーにこう言った。


 魔法使い、と。

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