第5話

「では、これにて」


「はい。いつもありがとうございます」


 カールは玄関の前でシモンに深々と頭を下げた。シモンも軽く頭を下げると、カールに踵を返して歩き始めた。


 外灯に照らされた閑静な住宅街の歩道をシモンは歩いていくと、徐々にシモンの耳には人間たちの声が聞こえてきた。


 緩やかな坂道を下り通路の角を曲がる。すると、途端にシモンの身体は熱気と喧騒に当てられた。

 オークション市である。


 騒音と呼んでもいいくらいに人々の賑わいは凄い。


 長年この街で医者として生計を立てていたシモンには見慣れた光景であったが、やはり騒がしいことには変わりはない。


 露店の商品に値段をつけて買い物している人間たちの横を通り過ぎながら、シモンはさして興味を示さず帰路を急ぐ。


 その途中、大通りに面した広場を通り過ぎようとしたシモンの目に真っ先に飛び込んできたものがあった。広場の中央に設置されていた石像である。


〝癒しの女神〟と名前がつけられていた全長五メートルはある巨大な石像。一流の彫刻家が手がけたのか、今にも動きそうなくらいの躍動感が感じられる。


 その裸身をあらわにしていた女神は、背中に生えている二本の翼を大きく左右に広げ、自分を抱きしめるような格好をしていた。


 シモンはしばらくその石像を眺めると、広場を通り細い路地へと入った。


 一転して光から闇へと転じられた吹き溜まりの空間。漂ってくるのは腐敗したゴミの匂いばかり。

 しかし、不思議とシモンの足取りは落ち着いていた。


 路傍に放置されたゴミの横を通り過ぎながら、奥へ奥へと進んでいく。


 やがてシモンは路地を抜けると、目の前には無数の四角形の石が並んでいる異様な空間が広がっていた。


 墓地である。


 綺麗に並んでいる墓標には、その下に眠っている人間の名前が刻まれている。


 シモンは墓場の横を歩いていくと、すぐ目の前に一軒の家が見えてきた。


 年々、コンクリートの家が目立ってきたミゼオンの街では珍しい木造式の建物であった。見た目にはログハウスに似てなくもない。


 看板も何も立てられていないが、ここが医者であるシモンの診療所であった。


 しかし診療所といっても誰も通院にはこない。何故なら、シモンは自分の診療所には誰もこさせず、その代わりに自分が患者の家に直接診察して回るということをしていた。


「ただいま」


 シモンは玄関の扉を開けて中に入るが、一向に返事は返ってこない。室内には灯火も温かな夕食も用意されてはいない。


 いつものことである。三年前に唯一の家族であった一人娘を無くしたシモンは、流れるようにこの街にやってきた。


 シモンは持っていた鞄をテーブルの上に置くと、部屋の明かりもつけずに奥の部屋へと移動した。


 奥の部屋にはベッドと本棚が一つずつあり、静かに主の帰りを待ちわびていた。


 シモンはゆっくりと動いた。向かった先はベッドではない。本棚であった。


 本棚には医学書がきっちりと収まっていた。若い頃からこつこつと集めた古今東西の医学書の前に立ったシモンは、その中の一冊に手を伸ばした。


 本を取ったシモンであったが、目的は本の閲覧ではなかった。


 シモンは本を取り出すと、その本が納まっていた奥に手を伸ばした。途端、何かが外れる音が聞こえた。聞こえてきたのはベッドのほうからである。


 シモンは持っていた本を元の場所に納めると、音がしたベッドに近づいた。


 ベッドの四方には小さな車輪が取り付けられており、子供の力でもすんなりと移動できる仕組みになっていた。


 シモンはベッドを壁の端にまで移動させると、ベッドがあった真下には取っ手が着いている隠し扉が存在していた。先ほどの音はこの隠し扉の鍵が開いた音であった。


 シモンは取っ手を摑むと隠し扉を開けた。地下へと続く暗い階段がそこにはあった。そこから流れてくる地下特有の湿った空気がシモンの肌に纏わりついてくる。


 一切の光源がなかったその階段に、シモンは躊躇せずに足を踏み入れた。もはや明かりなどなくても隅から隅まで構造は頭の中に記憶している。


 かつんかつんと石床を踏み鳴らす音が響く。それほど階段は深く続いてはいないが、一人分の足音でもやたらに響き渡る。


 シモンは階段を降り終えると、わき目も振らずに部屋の中央へと進んだ。


 そこは研究室であった。


 四方の壁をコンクリートで固められた重苦しい空間。床には割れた実験道具が散乱し、足の踏み場もないほどであった。


 壁の前には本棚も置かれていたが、棚に収まっていた書物は医学書ではなかった。


『禁断の錬金術大全』


『魔術への渇望と堕落』


『精霊神話と幻獣解本』


『テルトラインの秘術』


 などの、いわゆる魔術書と呼ばれる禁断の書物であった。


 そのどれもが装丁は古く、ここ数十年で書かれたものではないだろう。所々に傷が目立つが、これらは絶対に店頭では手に入らない希少価値の高い書物であった。


 魔術読本禁止撤廃令。


 約三百年前に世界七十三カ国が加盟していた世界連合政府が発表した、魔術、およびそれらに属するすべての事柄に関する本の収集を禁じた政令である。


 そしてこれらが示す内容は多岐にわたる。


 魔術に関する書物の所持、売買の禁止はもちろんのこと、書物に書かれている内容の実践、強要の禁止が主な内容であった。


 今でこそ科学技術や機械技術が発達し、世間の暮らしぶりは豊かになったが、二百年前ほど前には魔術、呪術により世界の治安を守るという組織が星の数ほどいたのである。


 そして魔術とは人間が神、または悪魔の力を借りてその身に神秘的な力を宿すことにあると唱えた人間たちは、本能の赴くままに魔術を実践した。


 世界中で起こった魔術のための非人道的なおぞましい人体実験の数々。それは、新聞などには絶対に載せてはならないほどの凄まじい内容であったという。


 だからこそ連合政府は魔術読本禁止撤廃令を掲げ、各地で人体実験を行っていた宗教団体を根こそぎ制圧した。


 それにより各地での魔術に関する噂は減少し、いつしか人々の記憶の中からも消去されていったはずであった。だが人が人として生きていく限り、神秘的な力を渇望する人間がこの世にいなくなることはない。


 魔術読本禁止撤廃令――別名、〈魔術師狩り〉と呼ばれたこの暗黒時代を生き延びた魔術師たちは、弾圧された恨みと自分たちの信念のもとに国を超えて一つに集結した。


 シモンはよたよたと研究室の中央へと歩いていく。そこには透明なガラスケースが置かれており、中にはまだ十四、五歳くらいと見える全裸の少女が納められていた。


 両目は閉じられ、眠っているようにも見える。冷凍保存でもされているのか、曇ったガラスケースからは熱を奪う冷気が微かに漏れ出ていた。


「ただいま……カサンドラ」


 シモンは死んだ娘の名前をつぶやくと、ガラスケースにそっと手を当てた。ひんやりした感触が手の掌全体に伝わってくる。


「カサンドラ、もうすぐ、もうすぐ目を開けられるようになるよ。そしたら、また一緒に旅行に出かけような。お前が好きだったミシュラの美術館や博物館を見に行こうな」


 普段、他人には決して見せない笑顔で少女に話しかけるシモンの右手首には、十字架に翼が生えた蛇が巻きついている奇妙なペンダントが巻かれていた。

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