第二章(2) 馬車

 石畳を蹴る蹄鉄と車輪の音が、林立する家々の壁にこだまし、早朝の皇都の静寂を打ち砕く。


 それは、アルベリクの乗る屋根付き馬車の駆ける音だった。漆黒の車が、皇都の広々とした街路の真ん中を疾駆する。目指すは皇国会議場。本日から一週間かけて開催されるトーブマンズ・オークションの会場である。


 トーブマンズ・オークションは、皇国最大規模の競売会である。


 アルベリクたちの住まうガロア皇国は、隣国パヴァリアには劣れど、周辺諸国を見比べれば屈指の文化国家と言える。その皇国における随一の競売となれば、畢竟ひっきょう多くの人と物が集ってくる。


 しかも、競りにかけられるのは宝飾品だけではない。美術品や骨董品、珍品から稀覯本きこうぼんに至るまで、ありとあらゆる逸品が値付けの対象として扱われる。


 となれば、同好の士のみで開催されるサロンなどよりも、ずっと世間の耳目を集める事ができる。新商品の宣伝の場としては、もってこいの場というわけである。


 アルベリクは、会場に向かう途上、馬車の窓から外を眺めていた。その視線の先には、泰皇の住まう聖域・グリアエの森が広がっていた。糸杉の森の彼方には、禁城の細い尖塔の先が、わずかに見え隠れしている。


 泰皇の住まう御所、禁城。俗なる者は近づくことすら許されぬ、聖域の中の聖域である。貴族や聖職者ですら、そこに立ち入ることが許されるのは、一握りの人物のみであった。


 彼らは謁見に際し、少なからぬ量の献上物を携え禁中に入る。すると、帰り支度をする頃には、彼らの馬車に返礼として莫大な額の金貨が積まれているという。国内の金山の九割を掌握する泰皇の財力たるや、常人の想像の及ぶところではなかった。


 また、禁城は皇国における政治の中枢でもあった。あらゆる重要国事はこの禁城の中で執り行われ、国の行く末は密室の中で秘密裏に決められてゆく。


 しかるに、皇国における富と名誉と権力は、この禁城というひとところに集約しているのであった。


 皇都で出世を目論む者ならば、誰もが望む。禁門をくぐり、泰皇と謁見する栄誉を賜ることを。そして、皇都で商いを営むものならば誰もが一度は夢見る。己の店が皇室御用達となる日のことを。侍従に数多の自慢の品を携えさせ、自らもまた極上の衣を装い、泰皇陛下の御前にしめやかに進み出る日のことを。


 今まさに、アルベリクの瞼の裏には、その光景がありありと浮かんでいた。今の彼にとって、それは単なる気慰みの夢想などではない。ナタリーを得た今、実現可能な目標になったのである。彼女は、禁城の扉を開く鍵なのだ。


 ──男ひとり、身ひとつにして、ついにここまで来たか。


 野望をうちに秘めた男の瞳は意気軒昂にして爛々らんらんと光り輝き、遥か彼方の尖塔の先を睨んで離さなかった。


 今日から開催されるオークションは彼の栄光へ至る階段の、ただの一歩に過ぎない。といって、その一歩を軽んじるわけにはゆかない。一段一段、一歩一歩を、確かめるようにして進む。それを怠れば、この皇都では、たちまち足元を掬われることだろう。


 ふと道脇に目をやると、見知った顔の人間が路端を歩いているのが見えた。それはつい先日アルベリクが解雇した、あのアンリだった。


 彼はうなだれながら、とぼとぼと足取り重く歩んでいる。その靴は泥で汚れ、服は何日も着古したのか、くたくたに皺が寄っていた。


 アルベリクの馬車が横を通り過ぎても、彼はそれに気づく様子もなく、街区の路地の中に姿を消していった。


 あれこそ、まさしく足元を掬われた者の成れの果てである。と、アルベリクはまるで他人事のようにそう分析していた。自らの手で彼の命脈を断ったにも関わらず、である。


 一歩間違えれば、自分もあの体たらくに堕する。そんな焦燥にも似た感覚が、アルベリクの全身をひりつかせた。自らの手で誰かを切り捨て、陥れる機会が増えるほど、他人から陥れられ、切り捨てられる危険性も増えてゆく。その危険を未然に防ぐには、彼らの息の根を止めるか、彼らの手が届かないところまで上り詰めるしかない。


 アルベリクは、そのような強迫観念に突き動かされて生きていた。自身の行動が道義にもとるか否かなど、一瞬たりとも考えなかった。彼の行動原理は、明快である。躊躇すれば死ぬ。だから進む。それだけだった。

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