相州碓氷峠碓井貞光邸・金平頼義温泉問答の事
「くはーっ、あああああああああーあ」
裸のまま大の字に足を伸ばして湯に浸かった金平は、そのあまりの心地良さに思わず間の抜けた声をあげてしまった。火をくべて沸かすこともなく懇々と無尽蔵に湯が溢れ出てくるなど、都でも味わえない。金平は滅多にありつけぬ贅沢を存分に堪能していた。
ここ箱根で温泉が発見されたのは古く、天平の頃というからこの時代より二百年以上も昔にとある僧が発見したのが始まりと言われている。温泉行楽地として発展を遂げるのはずっと後の時代になってからの事だが、当時からすでに地元の住民たちはこの天然資源の恩恵を最大限に利用していた。
温泉は山頂付近の源泉から引かれた湯の道を通り中腹まで送られて来る。冷たい石の水路を通っていくうちに熱い湯は丁度人が入るのに適した温度となり、入浴用に作られた溜池に注ぎ込まれると言う仕組みだ。季節や水量に合わせて流れる量を調節するための石造りの堰(せき)も、長年使われ続けている事を表すように薄黄色い湯の花の結晶で覆われていた。
金平も川で水浴びをするぐらいの経験はあったが、こんなに大量の湯で全身浸かるなどという経験は初めてのことだった。みるみるうちに全身に血が巡り、傷んだ筋肉が柔らかく
ふと、金平は自分の左手を眺めてみる。金平の左腕には中指と薬指の間から肘あたりにかけて真っ二つに裂けたかのような古傷がある。実際この傷はかつて都を襲った鬼の一人と戦った時に相手の刀で真っ二つに切り裂かれたものだった。奇跡的に腐り落ちることなく傷自体は塞がったのだが、ズタズタに切れた神経はもはや機能することなく、金平の左手は茶碗一つ掴むことができない状態となった。
この先一生左手は動かせないものと覚悟していた金平だったが、主君である
金平は己の左手を眺めながら、その時の頼義の神々しい姿を思い出す。
当時都を急襲した鬼の王は、視界に入った女性を無条件で意のままに操ることができるという恐るべき能力の持ち主だった。頼義もまたその呪縛に囚われ、その体の中に異界へと通じる「道」を開かれ、あわや彼女自身も「鬼」に堕とされてしまうところであった。
彼女を救ったのは父である上野介頼信が施した「神降ろしの秘儀」であった。頼信はまだ幼い娘に神を降臨させるための「道」をすでに開いており、その「神の道」を通って顕現した源氏の守護神「八幡神」の力を得た頼義は、鬼の王によって繋がれた「鬼の道」を封じ、見事鬼の王を退治するにいたったのである。
「八幡神」の力は今も彼女の中に眠っている。人の手にはあり余るその強大な力を一人で背負いこむ宿命を帯びた少女の、これから先に続くであろう過酷な人生を思うと金平は心が痛んだ。せめて自分がその人生の一助ともなるのなら……金平は頭の中に沸き起こった思いをかき消すかのようにバシャバシャと音を立てながら湯で顔を何度も洗った。
大きくかぶりを振り、天に向かって大きく一息つくと金平は湯から上がるために石造りの縁に手をかけた。そして顔を上げると、その向こうには
無防備に裸身をさらけ出した頼義が立っていた。
「な!?なななななな……!?」
金平は思わず素っ頓狂な叫び声を上げた。相手は目が見えていないことを承知していながら、つい反射的に湯の中に身体を沈めてしまう。
「ああ金平、やっぱり先に入っていましたか。もう、介添えしてくれる人がいないからここまで来るのに苦労しましたよ」
そう言って手探りでそろそろと湯船に近づいて来る。一応湯浴み用の
「ななな、何やってんだよ
しどろもどろになって金平が怒鳴る。頼義はそんな金平の態度などまるで意にも介さず
「私は目が不自由なのですから、どなたかに付き添ってもらわないと湯にも入れないでしょう。もう、あなたは私の『眼』なのですからしっかりとお役目を果たしてくれないと困ります」
そう言って頼義はぷう、と頬を膨らませる。普段は年齢に見合わず大人びた物腰の目立つ頼義だが、金平の前では年相応のお茶目な姿を見せるものらしい。
「そそ、そんなのはなぁ、屋敷の女房にでもやらせりゃあいいじゃねえか、なんで俺が!?」
「家の方々はもうお休みになられています。私たちは飛び込みの来訪者なのですからそこまでお手数をおかけするわけにはいかないでしょう。さ、手を貸して下さい、足元が滑ってちょっとおぼつかなくて」
なんの恥じらいも無しに少女は金平に向かって手を差し出す。仕方なしに金平はなるべく彼女の姿が目に入らないように気を使いながら湯の中に導き入れた。
「ああ、これは良いものですね。体の芯まで温まります」
湯に入った頼義は心地良さげに吐息を漏らす。屋敷を訪れる前まではよほど疲労が溜まっていたのか顔色もすぐれなかったものが今はもうすっかり元の艶やかな肌目を蘇らせている。
金平は頼義の座る場所から離れ、腕を組みながらじっと目を閉じている。金平とて
そんなモヤモヤとした感情の大元にあるものが何かを、金平はまだ気づかないでいる。
らしくもなく色々と頭の中でグルグルと考えを働かせているうちに、金平はとうとう頭がのぼせてきたようだった。目の前がチカチカし、顔が火照る。
「悪い、先に上がるわ……」
そう言って金平は湯を上がろうとした。頼義の世話はまた落ち着いてから戻ってすればいい。とにかく今は早く寒空に当たってこの火照りを覚ましたかった。金平が瞑っていた目を開けると
「金平……」
すぐ目の前に頼義の顔があった。
「のわっ!!」
金平は不意に急接近してきた頼義の顔を間近に触れて心の臓が跳ね上がった。密着して来る頼義の素肌の感覚が直に伝わって来る。金平の心の臓は破裂せんばかりに激しく鼓動を繰り返した。
「な、な、な……」
動揺する金平に頼義は人差し指を自分の唇に当てて「音を立てるな」と合図を送った。
「金平、我々の他にこの湯を使う者はいましたか?」
「……?い、いや、こんな時刻だ、俺たちの他には誰もいないはずだぜ」
金平がこの温泉地に来て湯に浸かり始めたのは夕刻の日の入前だった。灯りも乏しい中わざわざ暗い湯に入りに来るもの好きもおるまい。頼義の顔に緊張が走る。その顔を見て金平もようやくフワフワとした気分から「鬼狩り」の武者としての闘気が蘇ってきた。
「こちらに近づいて来る足音があります。二人、三人……?武器らしき物を手にしているようです。その足取りに……殺気があります」
「!?」
金平は思わず周囲を見回す。金平には「侵入者」の気配は感じられない。目の見えぬ頼義はそのためか鋭敏で繊細な聴力でもって周囲の気配を察知する事に長けている。足音でその主が男か女か、若者か老人かまで聞き分けるほどだ。
夕陽は完全に沈み、西の空にわずかに
湯船は一瞬にして真っ暗闇になる。金平は閉じていた方の片目を開けて周囲を見回した。先に闇に馴染ませていた片目はすぐに「夜目」となってはっきりと闇夜のわずかな灯りを捉えていた。その金平の目が、周囲に高くそびえる針葉樹の中に紛れて潜んでいる「何者か」の姿を発見した。
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