2089/11/09 つぎはぎ

 二人が『それ』と出会ったのは、11月9日の昼過ぎのことだった。

 その日は珍しく、分厚い雲の切れ間から太陽が顔を出していた。大災害によって引き裂かれ、半ば水没したニューヨークの街を、陽光がまばゆく照らす。水面、砕けたガラス、折れた鉄骨、倒れて崩れ、荒廃した摩天楼の残骸――それらが日の下できらきらと輝いていた。ここにどれだけの死が積もっているのか、まるで知らないとでも言うように。

「運が悪いですね。冠水もひどいですし。眩暈がします」

 かろうじて原型を留めていた四階建てのアパートの一室、外を眺めながらたまさかの魔がため息をついた。ニューヨークに上陸したのは真夜中で、その時の彼は随分と浮き足だった様子で崩れたビルを覗き、瓦礫を押しのけ、使えそうな物資を見つけては楽しげにカズキに報告していたのだが(カズキは眠かったのでほとんど聴いていなかったか、実際に寝ていた)夜明けと共に天候が回復傾向にあることに気がつくと、この建物の四階の一室に閉じこもったのだった。

「夜や曇りの日ならともかく、日が出ますとね。いや、日光で死にはしませんが、沈みかけじゃないですかここ。流水の上みたいなものですよ。余計に馬力が下がるってものです」

 言い訳じみた吸血鬼の言葉を要約すると、陽光と流水で弱った状態で崩れかけの高層建築にいた場合、万が一の時に『飛んで逃げる』選択肢が取れない可能性がある、だから安全をとる、とのことだった。

「俺は瓦礫に埋もれても別にいいんだけど」

 カズキは一刻も早くこの吸血鬼の手から解放されたかった。

「俺は嫌ですよ」

 たまさかの魔は一秒たりともカズキから離れたがらなかった。二人の主張は相変わらず平行線だった一方、全身揃っているたまさかの魔に優位があった。彼はカズキの首を抱えて移動し、夜が明けていく中、荒れ果てていたアパートの一室をどうにか休息できる程度に整えた。

 元は一人暮らしの部屋、だったらしかった。一人用のベッドが一つ。家主はおそらくは、若い男だったのではないか。ほとんどガラクタになった家具や雑貨の断片(グレートーンの机や椅子、剥がれかけた球技のポスター、履き潰したスニーカー)から、なんとなくカズキはそう感じた。家主がどんな人物にしろ、もう生きてはいないだろうが。

「曇るのを待つか、最悪日没までここで一休みですねえ」

 ポットからティーカップに血を注ぎながらたまさかの魔が言った。

 彼は部屋を見つけるが早いが、ひっくり返っていたベッドを元に戻し、シーツを整え、その上にずっと羽織っていたコートと燕尾服のジャケットを放り投げた。そうして比較的無事だった椅子を引っ張ってきてサイドテーブル代わりにし、座面にティーセットを広げて「吸血」を始めたのだった。カズキの首はベッドの枕元、レースのクッションの上に据えられていた。

 血を満たしたカップを持って、たまさかの魔がベッドに腰掛ける。大災害の衝撃で歪んでいたのか、スプリングはひどく軋み、カズキが感じる「寝心地」はお世辞にも良いとは言い難いものだったが、彼がそれを気にしている様子はなかった。

 そんなたまさかの魔の表情が変わったのは、カップの血を一口飲んだ時だった。わずかに眉根が寄って、目を細める。

「もう結構薄いんじゃねえの、それ」

「そうですね」

 カズキが言ってやると、たまさかの魔は困ったように笑うだけで、否定はしなかった。

 血のポットの奇跡は徐々に薄れていく。液体を生み出す権能はそのままだが、生み出される血は時間経過とともに血のような水に変わっていく。以前たまさかの魔自身が語ったことだ。

「このぐらいなら『血』と呼んでも差し支えありませんよ。風味は落ちますがね」

 そう笑ってたまさかの魔はカップを傾けた。音は立てず、ただその喉が嚥下に合わせて動いた。

 異変が起こったのは、彼が三杯分の血を飲み干した時だった。ぴく、とたまさかの魔の尖った耳が動いた。

 カズキにも「それ」は聞こえていた。

 部屋の外から、音がする。このアパートは各階の共用廊下も建物内にあるせいか、音がよく響く。崩落や倒壊によるものではない、人為的なもの。湿った何かを引きずるようなそれが、徐々に大きくなっている。

 明かりも何もなく、ひび割れた壁から差し込む光しかない暗い廊下を、何かが、近づいてくる。

「生存者じゃねえな」

「お分かりになりますか」

「舐めんな。と人間の見分けぐらいつく」

「アレと一緒にされるのは心外ですがね。同胞と言うにはかなり――変質しているようだ」

 たまさかの魔は空になったカップを置いた。ベッドに放っていたジャケットに腕を通し、肩にコートをかける。カズキの首を抱え、廊下に面した玄関のドアに向き直った。

「わざわざ俺に見せつけるつもりか?」

 来訪者が玄関から侵入してくるとしたら、カズキももろにそれを見る羽目になる。化け物に今更怖気付く訳でもないが、だからといって見たいとは思わない。文句を言ってやると、至って真面目な声で吸血鬼は言った。

「何が起こるか分からないでしょう。あなたは首だけなんですし、俺がこうしてるのが一番安全じゃないですか」

「お前本当に気色悪いやつだな」

「褒め言葉と受け取っておきます」

 凄まじい音が響き渡ったのは、二人がそんなやりとりをしている時だった。

 最初の一撃で、金属製とおぼしき玄関のドアが捻じ曲がり、二撃めで吹き飛んだ。ドアの残骸はカズキたちに到達する前に逸れ、部屋の壁にめり込んだ。たまさかの魔が羽織ったコートの袖が変形し、かぎ爪がついたもう一対の腕になって、飛んできたドアの破片を弾いていた。

 べちゃ、べちゃり、と、湿った足音が続いた。「それ」が部屋に入ってくる。ひどい腐敗臭がして、カズキは思わず顔をしかめた。

 二人の前に現れた「それ」は、襤褸を纏った人型だった。しかし、顔は青ざめて白いのに右腕の肌は黒檀色、左腕は黄色みを帯びている、と言った具合に、異なる複数の人間のパーツをつぎはぎしたような姿をしていた。顔は腐って半ば溶け落ち、元がどんな容貌だったのか想像することも難しい。右目はなく、落ち窪んだ眼窩だけがあり、青い左目がぎらぎらと二人を見つめていた。

「なるほど」

 たまさかの魔が平坦な声で言った。

「生きた人間の血が吸えなくなって弱り、再生できなくなった部位をその辺りの死体からもぎ取って代用したのですね。それも限界が近いようだが」

「腐ってんじゃん」

「質の悪い血を吸い続けた結果でしょう。例えば人間だけでなく動物、それも腐りかけの死骸から――」

「ああ、お前、お前!」

 ほとんどゾンビのような有様となった「それ」は、腐った指先をたまさかの魔と、首だけのカズキとに突きつけて、水音混じりの声で言った。

「血だ、血の匂いだ!」

 ひどく聞き取りづらかったが、男の声であるようだった。

「新鮮な血だ! それにその首、首だけなのに、生きてる! ゾンビでも、吸血鬼でもない、人間だ! どこから、どこから持ってきた!」

「さて、どこでしょうかね」

 たまさかの魔が淡々と言う。いつものにやにや笑いは鳴りをひそめ、彼は無表情に目の前の存在を見つめている。

 その態度が癪に触ったのか、かつて吸血鬼だったらしいそれは恨めしげに声を張り上げた。

「ずるい、ずるいぞ、お前だけなんて!」

 叫ぶ衝撃にすら身体が耐えられないのか、襤褸の隙間からぼとぼとと腐った「部品」がこぼれている。吸血鬼は本来、血が本体だ。目の前のこいつはどこまでを人間の死体で代用したのだろう? カズキはぼんやりとそんなことを考えていた。

「その人間、私にも喰わせ――」

 相手が何か言いかけたのと、たまさかの魔のコートが再度形を変えたのとは、ほぼ同時だった。

 袖の先が巨大な腕と化し、近づいてきたつぎはぎの吸血鬼を力任せに殴りつけた。床に叩きつけられたそれから、潰れるような水音と、何かが折れる音がした。

「ダメですか。思ったより頑丈ですね」

 たまさかの魔の声は静かだったが、異形の腕の動きは迅速だった。腐りかけの吸血鬼を掴んで持ち上げると、そのまま勢いよく窓に向けて振り抜かれた。

 残っていたガラスが砕け、異形の腕が外に飛び出す。陽光が容赦無くゾンビまがいの吸血鬼を焼く。凄まじい絶叫が響いたが、たまさかの魔の表情は凪いだまま変わらなかった。

「ずるい? 心外ですね。

 悲鳴が弱まってきた。煙が上がり、焼け焦げ、灰になっていく。そして静かになった時にはもう、異形の腕には何も握られていなかった。

「……やれやれ」

 ふ、と異形の腕が消える。たまさかの魔のコートの袖は、いつも通りの姿に戻っていた。あの腐ったものを殴打し、握り締め、陽光で焼いたにも関わらず、一点の染みも汚れもない。

「せっかく整えましたのに台無しになりました。場所を移りましょうか、カズキ」

 カズキは答えなかった。理由は二つ。

 ひとつは、変わり果てたとはいえ、顔色ひとつ変えずに同族をあのように滅してみせ、その上でにこやかに自分に微笑みかける彼は、やはり化け物なのだと改めて認識したから。

 そうしてもうひとつは。

 かつても彼は、素知らぬ顔で魔物を狩っていたことを思い出してしまって、心底うんざりしたからだった。

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