2089/11/02 食事

 夜。

 割られた窓から差す月光の中、こぽこぽこぽ、と液体を注ぐ音がする。

 白磁に赤い小花の着彩が施されたティーポットから流れ出すのは、紅茶にしてはあまりにも不透明で、あまりにも濃すぎる赤だった。揃いであつらえたらしいティーカップに赤い液体が注がれていく。湯気はなかった。茶葉の香りに代わって漂うのは、血の匂い。

 一杯分の血をカップに注いで、たまさかの魔はティーポットをテーブルに置いた。

「いいポットでしょう。一滴もこぼさないんです。もっとも、紅茶には使えませんが」

 話しかけたのは、同じくテーブルの上、白いレースのクッションに据えられている生首――カズキに対してだったが、彼は不機嫌さを隠そうともせずに黙り込んでいた。

「お気に召しませんか? そのクッション。百貨店の跡地から状態がよいものを見繕ってきたんですけれど」

「うるさい。盗品だろうが」

「お金を払う相手がいませんよ」

 笑いながら言って、たまさかの魔は椅子を引き、席についた。

 二人がいるのは、どうやらかつてパブとして使われていたらしい建物だった。酒の棚には割れた酒瓶とグラスばかりがあり、カウンターは分厚く埃を被り、店内には壊れたテーブルと椅子が散乱していた。壁には終末を迎えた人々の殴り書きがあり、ところどころに乾き切って古びた血が飛び散っている。

 ひどい有様だったが、これでも奇跡的なほどに状態がいい建物だった。ロンドンの建造物の大半が倒壊していた。なんとか崩れずに残ったものも略奪や乱闘のあとで半壊していて、とても身を休められるような場所ではなかった。この建物が見つけられたこと自体が幸運だったと言っていい。それでも、ここを使う際には壊れていない椅子とテーブルを探す必要があり、たまさかの魔は小一時間ほど混沌とした店内を漁る羽目になったのだが。

「では、カズキ」

 血で満たしたティーカップを手に、たまさかの魔が言った。

「あなたには申し訳ないですが、いただきますよ」

「いちいち言うな。鬱陶うっとうしい」

 カズキの言葉ににっこりと笑って、たまさかの魔はティーカップの血を一息に飲み干した。唇に残った血を名残惜しそうに舌で舐めとり、ほ、と息をつく。

「いやあ、一仕事したあとの食事は格別です」

「俺に対する嫌味か?」

「そう聞こえてしまったならお詫びします。何か食べられそうなものを探してきましょうか」

「いらん。腹減らねえし、なんか喉も渇かんし」

 奇跡による一時的な復活だからか、それとも単純に首だけだからなのか。カズキは飲食を必要としないようだった。

「それに残ってないだろ、食糧なんて。あったら生存者がとっくに食ってる」

「……で、しょうね」

 二人が見た限り、周囲に生きた人間の気配はなかった。死体ならそこら中で見た。どれも死後数ヶ月といったところで、なんとか埋葬しようとして叶わなかったらしいものも見た。残された自動車は、二人の知るものよりも随分と進歩しているのが残骸からでも分かったが、どれも壊れていた。壊れなかったものは誰かが乗っていったのだろう。生き残った者たちは、少なくともこの近辺から去ったらしいことが推測できた。

「それより、そのポット」

 カズキが鋭い視線をティーポットに向けた。

「そいつも奇跡だな」

「ええ」

 たまさかの魔はカズキが見やすいように、赤い小花模様のポットを持ち上げてみせた。

「血を生成するティーポットですよ。カップとトランクはオマケだそうです。奇跡で生かされているあなたは食事を必要としないようですが、自前で復活してしまった俺は別です。しかし世界がこんな状況では、血を吸う獲物も見つけられない」

「俺を獲物にすればいいだろ。さっさと殺せって」

「あなたには俺の牙が通らないんですよ。まがりなりにも奇跡による復活なので」

「面倒くせえ」

 そう毒づいてから、カズキはティーポットを見る目を細めた。

「そいつの奇跡も半端だ。そのうち水しか出なくなるんじゃないの、それ」

「はい、そうでしょうね」

 あっさりとたまさかの魔は肯定した。

「具体的な残り時間は不明ですが、血を生み出す効果は徐々に薄れていくそうです」

 二杯目の血をカップに注ぎながら、ごく落ち着いた声で吸血鬼は言う。

「まあ、多少弱りはするでしょうがご心配なく。あなたの最期は見届けますよ」

「心配なんかしてねえよ」

「ふふ、相変わらずのお人。そう言うところが好きですよ」

「気色悪い」

 吐き捨てるようなカズキの言葉にも、たまさかの魔が気分を害する様子はなかった。むしろいっそう愛おしげに彼を見つめながら、二杯目の血をゆっくりと飲み干して、ティーカップを置く。

「カズキ、少しだけお裾分けしてあげましょうか」

 吸血鬼が腕を伸ばしたところで、その意図に気がついたのだろう。「げっ」と声をあげ、カズキは器用に首だけでクッションの上から逃れようとした。

「おや、その状態でも結構動けるんですね?」

「うるさい黙れ、触るなっての!」

「まあまあ、あまり暴れると床に落ちてしまいますよ」

 余裕綽々といった風情で、たまさかの魔がカズキの首を両手で抱える。しっかとその顎を掴んで、青い目を覗き込む。

「あなたが同胞になってくださったらよかったのにって、今も思いますよ」

「うるさい馬鹿、お前いい加減に」

「そうでしたら、この口づけもきっと味わっていただけたでしょうに」

 喚くカズキに構わず、半ば強引に吸血鬼は唇を重ねた。彼の食事の残滓ざんしか、その口づけは鉄の味がした。

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