後宮の精霊姫~雪の日、少女は王子に連れ去られた~

真木

1 静牢

――雪の降る夜に生まれた子は、瑠璃の精に連れていかれた。

 ロゼはお気に入りの最後の詞を口ずさんで歌を終えると、立ち上がって階下に向かった。

 静牢せいろうと呼ばれるここは、後宮の一隅にありながら官吏たちの娼館のようなところだった。この世界には風に溶け、水と共に行き交う無性むせいという者たちがいる。この世界で子を成すことができない彼女らは、いつか精霊界に至るのを夢見て、路銀を得るために静牢で娼婦の真似事をしていた。

 一方でこの世界を支配する有翼人種は、めったに女性の個体が生まれない。力のある者は精霊界から女精にょせいをさらってきて伴侶とするが、ほとんどの有翼人種は無性を抱いてしのぐ。

 今日も静牢は昼間から帳で閉ざされていて、その中で冷ややかな欲望がこすれ合う。そこに情はなく、ただお互い欲望を満たすだけ。それはロゼにとって心地よい安息の場所だった。

 ロゼは空いた房に入ると、汚れたシーツを籠に入れて外に出る。ロゼの仕事は静牢の下働きで、毎日行為後の部屋の掃除と洗濯場を行き来する。

 静牢は正式な女官が派遣されることもまれで、ロゼは部屋を使う無性たちから掃除代金をもらって生計を立てている。無性たちのように遠い場所を目指すわけではないから、それで細々と食いつないでいくことができた。

 裏の井戸で洗濯をしながらふと空を仰ぐと、また雪が降りだしていた。

 ロゼは雪の降る夜に生まれた。今は亡き父が教えてくれた。

 あの歌は白い朝に結ばれた有翼人種の夫婦が、嵐の昼に争いに明け暮れ、そして夜に唯一の娘を精霊に連れ去られるという物語だ。かつて世界の覇者となった有翼人種は獣性を抑えきれず、弱い個体、特に女性を暴力にさらして失った。それを苦い思いで振り返ったものだと父は言っていた。

 自分にも降りかかったその暴力を思い出して、ロゼはぎゅっと体を抱く。

 もう五年も前のことだ。ロゼは大人になったし、外界と隔絶されたところに身を置いている。どこにも行けないが、また嵐に巻き込まれて千切れるような思いをするのなら、それでよかった。

 そう思いながら、舞い落ちる雪の中でまた歌を口ずさんでいたときだった。

「もし。人を探しているのだが」

 ふいに声をかけられて、ロゼは無感動に目を向ける。

 振り向くと、大柄で肩の張った無性たちが三人、官服に身を包んでいた。無性たちに性別はないが、有翼人種は男性に近い体格の者を選んで従僕にすることがある。ロゼを見下ろしていた者たちも、そういう屈強な体格の者たちだった。

 ロゼは一瞬怯んだが、自分の格好を見て安堵する。身を売るときの無性のように情欲を刺激する格好ではなく、本来の無性のように地味な一枚布で体を覆っている。

「この界隈に人はおりません。身を売る無性だけです」

「だが、変わった無性がいると聞いた。他の無性を世話しているという」

 お互いに無関心な無性と、ロゼは少し違う。しばしば暴力的に抱かれる無性を見ると放っておけず、少ない貯金をすぐ彼女らの薬代に渡してしまう。

「……尊き官吏の方々に、無性の区別はつきますまい。失礼」

 ロゼはそういうときにするように、最小限の礼を取って中に向かった。灰のように降る雪にまみれて、回廊に身を隠す。

 そろそろ静牢にいられなくなる頃だろうか。とはいえ他に行くあてもなく、半刻もしない内に静牢に戻って来た。

 薄暗く湿った空気に包まれた屋根裏に入ると、階下で有翼人種と無性が事を終えるのを待つ。まるで食べ物の残りを漁るねずみのようだと思いながら、ロゼはうずくまって目を閉じていた。

 階下に一人の有翼人種がやって来たのは、それからまもなくのことだった。 

 静牢は無性が官吏を引きこんで部屋を使う。一人で入ってくる官吏は珍しい。

 辺りは静まり返っていて、まるで真夜中のようだった。彼が扉を閉じると、外気の流れも止まってしまう。

 彼がついと目を上げて、鋭いまなざしで屋根裏を見上げたとき……ロゼは時が巻き戻るような錯覚を抱いていた。

 闇色の髪と大樹のような褐色の肌、そして有翼人種の中でもっとも高貴といわれる瑠璃と同じ色をした瞳が、薄闇の中で光っていた。

 ……ジュスト様。何度も夢の中で繰り返した名前を飲み込んで、ロゼは久しぶりに表情を変える。

 弾けるように笑っていた子どもの頃が胸をよぎった。泣くことも忘れた今とはまるで正反対の自分が、記憶の中を走っていった。

「高貴な方。無性をお求めですか」

 ロゼは哀しい微笑を収めて、するりとはしごから滑り降りると彼の前でひざまずく。

「少しお待ちください」

 部屋で休んでいる無性を呼びに行こうとして、ロゼの足が止まる。

 ロゼの右手がつかまれていた。半分凍った水で一日に何度も洗濯をしていて、その手は赤く腫れあがっていた。

 王家に連なる血筋の彼に、賤しいものを触れさせてしまった。ロゼが眉を寄せると、彼もまた顔をしかめる。

「痛むか」

 そういう意味ではない。ロゼは首を横に振って手を引こうとしたが、ジュストは離さなかった。

 戸惑いながら彼を見上げる。五年前に一度会ったきりのロゼを、彼が覚えているはずがない。まして花冠を乗せてひらめくドレスをまとっていたあの頃と違い、今のロゼは幽鬼のように痩せ、日々を空ろに過ごしているだけの下働きだ。

 振り払うだけの力も持たないロゼの手を取ったまま、ジュストはロゼの瞳をのぞき込むようにみつめた。ロゼはガラス玉のような目で瑠璃の光を拒みながら、少しの間立ちすくんだ。

「変わった無性がいると聞いた。どこにも行きたがっていない無性だと」

 ロゼは思う。身を売る無性たちの方がよほど美しい生き方をしている。子を得るため、見たこともない遠い地を目指す彼女らは、ロゼより輝いている。

 目を逸らそうとしたロゼの頬に、ジュストが触れる。ロゼの顔を上げさせて言う。

「私も同じだ」

 ジュストは目を和らげて、打ち明けるように告げる。手はつかまれたとき痛んだのに、離された今の方が痛むような気がしていた。

「……だからひととき、共に過ごさないか」

 その言葉を聞いたとき、ロゼは確かにうれしいと思った。

 無性に戯れの愛の言葉をささやく官吏もいる。これもその一つに違いないのに、ロゼは抗おうとは思わなかった。

 五年前に心に宿し、どこにも逃れることのなかった小さな恋心に一つの終わりを見せてやれるのなら、それもいいと思った。

 ロゼは目を伏せて、ジュストの手に身を寄せるようにうなずいた。

 外では風に巻き込まれた雪が、結晶となって宮を凍らせ始めていた。

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