第七話     天・地・人の理

「正直に答えよ。なぜ、お主が円明流を知っておる? なぜ、あれが円明流の秘奥義――有無二剣だと知っておるのだ?」


 武蔵は口を顔面を蒼白そうはくにしている伊織を見下ろしながら、伊織の首筋に突きつけている大刀を持つ右手にさらなる力を込めた。


 薄皮一枚の部分で止まっていた刃が伊織の首の肉に少しだけ食い込む。


 伊織の健康そうな首の肌から赤い線が垂れた。


 血である。


 出血量自体は大したことなかったが、日常的に自分を含め他人の血を見る機会が少なかった高校生たちには刺激が強すぎたのだろう。


 特に何とか意識を保っていた少女たちからは悲鳴に似た声が上がった。


 けれども当人の伊織は何の反応も示さない。自分の首筋から垂れている血のことになど構わず、ただひたすらに武蔵の鋭い眼光を真っ向から受け止めている。


 武蔵は表情を崩さずに心の中で感心した。


(この間合いで俺の〝気〟の圧を受けても意識を保っていられるとは……やはり、俺がこれまで打ち倒してきた兵法者に連なる者か)


 武蔵は改めて自分の素性すじょうを知る伊織の全身をまざまざと観察した。


 ふけや埃のないつややかな黒髪。


 血色のよい桃色の肌には切り傷などの類はほとんど見られない。


 何よりも南蛮国のものと思しき服の清潔感たるや、城に務める家中の侍に匹敵する綺麗さである。


 武蔵は伊織の首筋から大刀の刃を離した。


(違うな、この娘は俺の命を狙う刺客ではない。


 そもそも、こんな小綺麗な格好ができる裕福な刺客などいないだろうに)


 仮に本物の刺客だったとしても、武器の一つも持っていない刺客など恐るるに足りなかった。


 それに刺客にしては肝心の腕前があまりにも未熟すぎる。


 たとえ目の前の伊織が武器を持って襲ってきたとしても、自分ならば寝ていても反応することができるだろう。


 では、なぜ伊織が円明流のみならず、円明流えんめいりゅうの奥義たる有無二剣うむにけんの存在を知っていたのか。


 答えは分からない。


 そして分からないこそ、この場で伊織を斬るわけにはいかなかった。


 そもそも、武蔵は未だにこの状況をよく理解していないのだ。


 先ほどから他の人間たちの言動を聞いて自分なりに思考してはいるものの、あまりにも意味不明な言葉が飛び交いすぎて要領ようりょうを得ない。


(いかんな……色々ありすぎて気が高ぶりすぎておるわ)


 武蔵は大きく肩をすくめ、胸内にたまった様々な感情を吐き出すように大きく息を吐く。


 思えば山中で光の滝に飲まれ、気がつくと南蛮国の城中(?)のような場所にいたことが感情を激しく揺さぶる最初の出来事だった。


 そして実はここが魔法なる人外の技が存在する異世界であり、成り行き上とはいえアルバートという南蛮国の騎士と闘うことになった。


 本当はアリーゼという女魔法使いと闘いたかったが、頭を冷やした今となっては闘いたいという欲求が少なくなっている。


 なぜか? この場から生きて逃げられないからである。


 武蔵は伊織からとアルバートへちらりと視線を移した。


 今しがた剣を交えたアルバートなる南蛮国の騎士との戦いは久しぶりに楽しめたものの、アルバートを斬り殺さなかった理由はそこにあった。


 ここで南蛮侍たちの長と思しきアルバートをあっさりと斬り殺してしまっては生存の可能性が限りなく低くなる。


 それは魔法使いのアリーゼと闘った場合も同じだった。


 斬ろうと思えば二人とも斬れないことはないが、二人を斬ったあとは城中の侍という侍が大挙として押し寄せてくるだろう。


 ましてやここはかつて吉岡一門と死闘を繰り広げた、京都一乗寺下がり松のような逃げやすい屋外ではない。


 間違いなく、退路を断たれて殺される可能性が非常に高かった。


 もちろん、そのような危険を犯してでも自分の腕前を試したいと思う兵法者はいるだろう。


 けれども宮本武蔵という兵法者は断じて違った。


 必ず勝てるという勝負を極限まで見極めたからこそ、これまで数々の強者と闘っても五体満足で生き延びることができたのである。


 そして兵法の極意とは、単なる剣の腕前だけで決まるものではない。


 天――人間では操作できない運の環境。


 地――人間が操作できる地理的な状況。


 人――人間という生物特有の感情の波。


 この常人では不可能な天・地・人の三つを的確に把握はあくし、生かすよう尽力してこそ本物の〝天下無双〟が成し遂げられるのだ。


 武蔵は再びアルバートから伊織へ視線を戻した。


「剣を向けて悪かったな、娘。いや……先ほどのことも謝罪がまだだったか」


 ふむ、と武蔵は難しい顔をしながら大刀を鞘に納めた。


「この武蔵、他人に借りを作るのは好まんが、一人に二度も頭を下げることはもっと好まん。それゆえ、お主に問おう。何か俺にして欲しいことはないか? あれば何なりと申してみよ」


「いや……その……あの……」


 ようやく口を開いた伊織だったが、恐怖で気が動転しているのか言葉になっていなかった。


 仕方ないか、と武蔵は憐れんだ目で伊織を見つめた。


 多少の武の心得がある年端のいかない娘が、天下無双たる自分の殺気に中てられて正気を保っていることこそ特筆すべきことだった。


 それこそ、他の少女たちと同様に気を失ったほうが楽だろうに。


「落ち着いてからで良い。俺はどこへなりも逃げはせん」


 などと武蔵が優しく声をかけたときだった。


「茶番はもう済みましたか? 異世界の〈外の者〉さん」


 武蔵は顔だけを声がしてきた方向へと向けた。


 そこには明らかに怒気をまとったアリーゼの姿があった。


 魔法こそ顕現けんげんさせてはいなかったが、すでに上丹田に〝気〟が充満しており、いつでも魔法が使える状態となっている。


「茶番? 何のことだ?」


 武蔵は両眉を寄せて小首を傾げた。


「あなたとアルバートの闘いに決まっているでしょう。偉そうなことを言いながら、互いに向き合ったまま一歩も動かず、しかも動いたと思ったら寸止めしてその場の茶をにごす。これを茶番だと言わずに何と言うのですか?」


「お主、あの闘いを茶番としか見れなかったのか?」


 当然です、とアリーゼは断言した。


「アルバート、あなたもあなたです。騎士団の団長として魔法も使えない〈外の者〉一人まともに捕縛することもできない。そればかりか勝手に私闘をして、あまつさえ敗北する始末……当然ながら責任を負う覚悟はあるのでしょうね?」


「……もちろんでございます」


 アルバートは右拳を左胸につけるような仕草をすると、アリーゼに対して小さく頭を下げた。


「このアルバート、責任を取って騎士団の団長の任を降りる所存であります」


 ざわりと騒いだのは他の騎士団の人間である。


「団長の任を降りる? その程度で足りると思っているのですか?」


 アリーゼは汚物を見るような目で、アルバートに一本だけ立てた右手の指を突きつける。


「この場で自害なさい! それが騎士団の団長としての責任の取り方です!」


 そのアリーゼの命令に、騎士団たちのざわつきが激しさを増した。


 互いに顔を見合わせながら明らかに動どうようの色を深めている。


「見下げ果てたわ」


 武蔵は吐き捨てるようにアリーゼに言い放った。


「俺はこの国のことは何にも知らぬが、どうやらこの国において魔法使いという者は武人以下の存在らしいな。あまりにも精神が未熟すぎる」


 そう言うと武蔵は悠然ゆうぜんとした歩みでアリーゼの元へ近づいていく。


 すると他の騎士団たちに動きがあった。


 アリーゼが危害を加えられると思ったのだろう。


 騎士団たちはアリーゼを守るように壁を作ると、それぞれが持っていた長槍を武蔵に突きつける。


 武蔵はアリーゼたちと五メートルの距離で立ち止まると、納得したように力強くうなずいた。


「良い動きだ。日頃からの鍛錬たんれんの度合いがうかがい知れる。各々おのおのもそうだが、そなたらを指揮する者の教えが良いのだろう……実に見事なり。そのような立派な者の教えを受けているのだ。さぞ、そなたらも鼻が高いであろうな」


 武蔵は騎士団たちに見せつけるように、アルバートへ顎をしゃくった。


 このとき、武蔵は騎士団たちにあんに示して見せたのだ。


 お前たちの長は上役うわやくの気まぐれで死ぬには惜しいほどの素晴らしい人物であり、その人物の教えを受けているお前たちも等しく素晴らしい逸材なのだ、と。


 すると騎士団たちのざわつきがピタリと収まった。


 武蔵は自分の意志が通じた騎士団たちを見回しながら大きく首肯しゅこうする。


「安心しろ。あるばあと殿に自害などさせん。この宮本武蔵が約束する」


 アリーゼは「何を言っているのですか?」と小馬鹿にするように笑った。


「やはり異世界の〈外の者〉は違いますね。魔法が使えないばかりか頭も悪い。なぜ、アルバートの処遇をあなたが決めるのです。いい加減に自分の立場を――」


 わきまえなさい、と言いかけたアリーゼの言葉を武蔵は「黙れ、小娘」と一刀両断した。


「そもそも、この場の長はお主ではないだろう。なあ、そこな御仁ごじん――」


 武蔵はアリーゼから視線を外すと、先ほどから無言の老人に射貫いぬくような鋭い眼光を向ける。


「一国の長と見受けたる貴殿きでんに問う。あるばあと殿ほどの技量と人柄を持つ武人を簡単にしょするほど、この国は人余りなのか? それともこの国の人間は人を人と思わぬの集まりなのか? 答えてもらいたい」


 場の緊張感きんちょうかんが極限まで達したとき、老人はゆっくりと立ち上がった。


 武蔵は自然な仕草で大刀の柄に手をかける。


 そして――。

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