第6話

 茶谷は、恭介と如月に電話で「ミナミに可愛いギャルが大勢いるキャバクラがあるので、行きましょう」と、誘ってきた。

「人間の男は、多情な一夫多妻制の猿の末裔だから、男から女遊びを奪い去ると、殺伐とした世界しか残らなくなりますよ。皆、欲求不満の頭を抱えて、自暴自棄になり凶悪化するでしょう。ところが、道徳家気取りの連中は、この世から享楽を失くしてしまえば、正義が全うされる――と、平気でうそを言う。危険ですよ」茶谷が告げると

「僕も、茶谷さんの意見には賛成です。女は恋人にもなれれば、男の玩具にもなってくれます。うまく、使いこなすのが正しい道楽ですよ」如月がすぐに賛成した。

「如月さんの意見は、極論だと思います。男にとって、美しい女性は、恋人であろうと娼婦であろうと、聖女ですよ。イエス様にとってのマグダラのマリアと同じですよ。玩具にしてはダメですね」今度は、亀山が異論を唱えた。

 恭介は、三人の男が話すのを横目に、黙って様子を見るしかなかった。亀山の言う通り、イエスがそうしたように、釈迦も姦淫を否定しつつも、娼婦を罰しなかった。それどころか、釈迦は、古代インドでは金持ちだった遊女アームラパーリーから、マンゴー園を寄進され、これを受け入れていた。

 昼間は重苦しい空の下で、夏の強い日差しに照らされた町は、じりじりと焦げていた。暑さが高まると、頭の中まで煮え立った。太陽は、ありとあらゆるものに鉄槌を下し、暑熱によって苦しめた。夜になっても熱気に包まれていたが、暑さは幾分ましになっていた。町の中は大勢の人々で溢れており、家の外に出ると様々な喧騒に囲まれ、好むと好まざるとにかかわらず、世界と恭介とを結びつけた。恭介には――そこにいる人々が、不自由に拘束されつつも、自由に対する幻想を追い求めているかに見えていた。

 キャバクラの――PUSSY――の店内に入ると、天井からぶら下げられた大きなシャンデリアが目に付いた。床には、落ち着いた色の絨毯が敷き詰められ、ソファーは一見してふかふかそうに見えていた。

 しばらくすると、キャバ嬢のユイ、マリナ、ヤヨイ、ノアの四人が席に着いた。まず目についたのが、四人が粒ぞろいの美人だという事実だ。恭介は、中でも、童顔に似合わず、形の良い胸と腰つきで、ほっそりとした脚が目立つ、ユイに心を奪われた。

 ユイは、恭介の隣に腰かけると、すぐに太腿の上に手を置いた。ユイは身体を近づけて、驚くほど密着させると、緊張している恭介に対して積極的に話しかける姿勢で、リラックスするように仕向けた。

「あなたは大阪に住んでいるの?」

「ううん、神戸に住んでいる」

「この店には、来たことがあるの?」

「今日が初めてだ。こういう感じの店も初めてだよ」

「じゃあ、私があなたにとっては、初めての女なのね」

「うん、まあ、そうかもね」

 四人は離れたボックス席に座ったが、隣の席の亀山の声がよく聞こえた。

 恭介は、照れ臭くなり、猥談をする気になれなかった。照れ隠しに、ユイの話す面白い客のエピソードや、仕事の苦労話を聞きながら、ひたすら水割りを飲んだ。ユイにも、飲むようにすすめると、さらに饒舌になった。

 恭介には、すぐに彼女が混じりけのない好人物だと分かった。真っ直ぐに向けられた澄んだ瞳が、人を疑う気持ちがないのを証明し、聡明そうな頭部の形状が内在する知性を想像させた。ユイは親切心を示し、明るい声で話し続けた。

「この前、初めて来たのに、いきなり胸に触った客がいたの。それも、ギュッとつかむの。痛いくらいに……」

「そういう奴、どこにでもいるよね。ユイちゃんも、気を付けないと」

「最悪の気分だったわ」

「分かる、分かる」

「夜の街で生きていくって、大変なのよ」

「重たい話だよね」

「じゃあさ、明るい話をしてあげようか?」

 ユイの饒舌に気圧されて、恭介は肯定的に話を聞き、相槌を打ち、容貌を褒めた。酒に酔った頭では、形容詞が思い浮かばず「君の気遣いが可愛い」「今の表情が、可愛かった」「目の形が、可愛いよね」「今の話も、可愛らしいと思う」と、可愛い――を連発していた。

 照れによる躊躇いと、アルコールによるほろ酔い気分と、興奮による微弱な神経の震えを感じていたので、恭介からはうまく話せなかった。

 隣席の亀山は、席に座ったタイミングから、自分がいかに女にモテているか、経験豊富なのかを滔々と話し続けた。恭介は、亀山には到底、敵わないと思った。

「ノアちゃん、外に出て酒を飲まないか、ムードのあるワインバーを知っているので、連れて行ってあげるよ」

「男の魂胆は、見え見えよ。皆、結局はあそこが目当てなのでしょ」と、ノアは亀山の誘いを軽くあしらった。

 恭介も、亀山の男らしさを見習うつもりで「外でデートしない」と誘ってみた。するとユイは「いいよ。私のメッシー君兼、アッシー君兼、ミツグ君になってくれるならね」と答えた。意味を問うと――食事も交通費も奢って、店に来て指名してくれるなら、交際してもいい――を伝えるためのギャル語だと説明した。

 恭介には、ユイが媚態的な表現の陰に、我が身と本心を隠そうとしているかに見えた。それは、彼女が自分の繊細な精神を攻撃から守り、汚辱にまみれるのを防ぐ盾だと考えた。

 店の外に出て、アーケードの下を歩いていると動物愛護団体のボランティアが話しかけてきた。ボランティアの女子学生は、クリップボードに挟んだ用紙を示すと、ペンを握らせ「ここに署名をお願いします」と、求めて来た。

 恭介はペンを手に取ると、記された内容を注意深く読み、一つの項目を除いて動物愛護団体の方針に共感した。用紙には――動物虐待に反対しますYES・NO 犬猫の殺処分に反対しますYES・NO 動物実験に反対しますYES・NO 動物実験の必要性を精査すべきだと思いますYES・NO――との設問があった。

 四つの項目のうち、恭介は――動物実験に反対します――の項目にだけNOに〇印を付けた。何故ならば、動物実験は医学の進歩に貢献しており、十分な成果につながっている――と認識していた。人間の健康や命よりも、動物の方が上だとするのは本末転倒だと思案して選んでいた。だが、無益な殺傷を容認するつもりはなく――動物実験の必要性を精査すべきだと思います――には、YESに〇印を付けた。

 如月は、つまらなそうにボランティアに背中を向けると「ちぇっ、下らない。意味も何もないだろ? そうまでして、自分をよく見せたいのかね。時間の無駄以外の何ものでもない」と嘯いた。

 茶谷は、すべての項目をYESとしていたが、亀山が手にした用紙は恭介と同様に――動物実験に反対します――の項目にだけNOに〇印が付いていた。

 亀山はクリスチャンらしく、聖書を引用して説明した。

「旧約聖書の創世記には――神は植物と動物をお造りになった後に、神のかたちに似たものとして人をお造りになりました。そして、彼らに『海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配するように』と仰せられました――と書かれているから、言わば神様のお墨付きですよ」と明かすと、「ただし、闇雲に殺傷するのには反対ですね」と付け足した。

「君たちは、偽善者だな」如月は、軽蔑したような口調で吐き捨てた。

「おいおい、言い過ぎだ。良いことをして、素晴らしい気分のときに……、いくら如月さんでも、それは一言多いですよ」茶谷は反論した。

「よく考えてみろ。牛肉、豚肉を食べ、鰐皮のベルトを腰に締めている君らが、動物の命を救えと指図するのは、そもそも矛盾していないか?」

 恭介は――動物愛護は、動物よりも人間の命を救うための精神を教えている――と伝えようとして、思わず唾を飲み込んだ。大学一年生の時に一般教養科目で、心理学の教授から「殺人犯人は、予行演習で人殺しをする前のステップとして、動物を虐待したり、殺したりする事例が多いので、動物愛護精神とは、動物自体を救う精神ではなく、人の命を救う精神だ」と、恭介は教わっていた。それを目の前の如月に納得させるのは困難に思えた。

 如月の語調の強さに押し切られると、恭介は反論できなくなった。かといって、如月の自説が、恭介を含む三人を啓蒙したわけではなかった。

「締めのラーメンを食べに行こう」と、亀山が提案すると四人でラーメン店に向かった。恭介は、かなり酔いが回っていた。亀山がすすめる豚骨ラーメンは、具材のゆで豚は柔らかく煮られており、もやしやニラをだしに絡めて食べると、驚くほど美味だった。

「胃に染みるね」茶谷がしみじみと言葉にすると

「どうだ? いい店だろう?」と、亀山は店主の表情を見た。

 店主は、ほんの一瞬嬉しそうな表情をしたもののすぐに素に戻ると、手にした包丁でトントンとネギを刻んだ。

 胃袋を満たした後、四人はラーメン店を出た。

 通りの裏手から、人の大きな声が聞こえて来た。声の方に歩き、様子をのぞき見ると男女が言い争っているのが分かった。体格のいい酔漢が奇声を上げると、不死の鎧を身に纏っているかのように、若い女性に乱暴に食ってかかっていた。最初のうちは、男の怒りが心底から出てくる激情ではなく、酔いのせいで気が大きくなり、人をからかいたくなっているものと思えた。

 だが、男には良心の呵責が感じられず、面白いように女性をいたぶり始めた、酔漢が危険人物なのは、視線の定まらない鋭い目つきや、乱暴な言葉づかいで分かった。男の怒りは心の均衡を失わせ、醜い悪意を孕んで、毒を吐き出していた。恭介は、男に幼児性の強さと、不気味な獣性を感じると身震いした。

 酔漢は、女性の髪をつかむと道路上に引っ張り倒した。痛々しく見えたが、恭介にはどうすることもできなかった。女の「ギャッ」という悲鳴が届いた。

 人としての誠意を見せ、良心の所在を示し、紳士的に振る舞うのが、世渡り上手な利口者がなしうる技巧とも知らずに、男は酔いの力を借りて醜態をさらし続けていた。偽善が心の罪であるのと同様に、貪汚の罪科も問わずにはいられなくなった。

「ああいう男には関わりたくないよね」と、如月は冷ややかに笑った。

 恭介は、警察署に通報しようとしたが、警官が来るあいだにも乱暴されて、女性が大怪我しないか気になった。酔漢は狂ったように顔を打つと、意味不明の唸り声を発していた。

 通行人は、誰もが男女の諍いを遠巻きに見ながらも、早足で通り過ぎて行った。

 亀山は、酔漢に向かって行くと余裕の表情を見せて

「その女性と、力比べする勇気がおありでしたら、僕と道場で勝負しませんか?」と、声を低くして問いかけた。

 酔漢は、亀山の自信に満ちた表情を確認すると、黙ってそこを立ち去って行った。残された女性は、腰をみっともなく屈めると、すまなさそうに「ありがとうございました」と、ちょこんと頭を下げて、歩き出した。

 如月は、女性の後ろ姿に向かって「くれぐれも、ああいう男とは、関りにならない方がいいですよ」と告げて、満足そうな表情をした。

 茶谷は「亀山君は、フル・コンタクト空手の有段者なので、こういうときに頼りになる存在です。高校時代に、空手の全国大会で優勝経験があると聞いています」

「亀山さんの伝家の宝刀は、たいしたものですね。一度、勇姿を拝見したいですね」

「道場には毎週、通っていますが……、試合には出ていません。大分、錆びついていますよ」

「僕は、以前ああいう男に殴られて、道端に大の字に倒れているところに野良犬が来て小便をかけられた経験があります。誰も、助けてはくれなかった。そういうときに亀山君がいてくれたら、助かりますね」

 茶谷は事実とも、ほら話とも分からない体験を言葉にした。

 恭介は、友人を選ぶ基準として、歌人の与謝野鉄幹のいう――友を選ばば、書を読みて、六分の侠気、四分の熱――を参考にしていた。U社の茶谷と亀山は、銀行の同僚の如月ほど本を読まないので物知りではなかったものの、侠気と熱っぽさでは、如月の比ではなかった。如月は、博覧強記で好奇心旺盛だが――人助けをしよう――と考える優しさに欠けていた。

       ※

 恭介は、日本を取り巻く景気の実態を――十七世紀のオランダのチューリップ狂時代――と対比させて考えていた。オランダがネーデルラント連邦共和国と呼ばれた――、この時代は、経済、科学、文化のあらゆる面で、世界中で称賛された黄金時代だった。当時のオランダでは、フランスから可憐なチューリップの球根が入ってくると、美しいこの花に貴族や富裕層が目をつけて、邸宅の花壇にチューリップを植えるのが富の象徴になった。

 チューリップ投機が最高潮に達した頃には、高価な球根はオランダ人の平均年収の数十倍の価格に達していた。チューリップの資産価値が、内在価値を大幅に上回ったのは――さらに高くなる期待感が異様なまでに膨らんだのが、原因だった。

 当然ながら、チューリップの異様なまでの高騰は、花の寿命のように萎み、チューリップ価格の落ち込みが、オランダ全土に長い不況をもたらしていた。オランダのチューリップ狂時代と比較してみると、恭介には、今の日本の現状に似ている――と、思えていた。

 フランスの社会心理学者、ギュスターブ・ル・ボンは著書の『群集心理』の中で――群衆は、衝動的で興奮性が高まり、判断力や理性が低下して付和雷同しやすい――と、指摘していた。恭介は、異様なまでの不動産の高騰を――群衆の時代――といわれる現代のある種の群集心理による熱狂だ――と、考えていた。

 要するに……恭介は、チューリップ狂時代と、現代日本に共通するのは、常軌を逸した高騰と破綻の流れに――期待収益の誤算に加えて、人後に落ちまいとする投資家のあせりが生み出した幻想の産物であって、実態が何もない点にある――と、分析していた。人が経済を論じるときに、消費者心理に対する洞察を欠いていては、判断ミスが生じるのも当然ではないか――と問いかけずには、いられなかった。

 珪砂・石灰石・ソーダ灰にカレットを加えた原材料を溶解窯で溶かして成型したガラス細工の世界に、製造過程で内部に発生した泡が残っていたため、冷却後に脆くも崩れ去ってしまった――と、恭介は想像していた。現代人はガラスの城を夢中で作っていると、透明度を見誤り、泡や濁りに気づかないままに、完成させるほど、未熟な存在なのか……。

 恭介は、これまで大学の講義でも、行内の研修でも、現代の資本主義社会における企業には――営利目的と公共の福祉の二つの大きな目的がある――と、教えられてきた。

 企業は閉ざされた箱のようなもので、企業利益のためには、社会全体の繁栄など二の次になった。強く主張すると――君は左傾化している――と、思いもしない嫌疑をかけられ、誤解されかねなかった。

 自分は正しい立場で、ものを言っている――自尊心は、誰に理解されなくても、安心感につながる。法律上の正しい判断や、道徳的な良心に基づく行動や、正確な計算で割り出した答えなどで――、それが、証明できれば展開も変えられる。だが、予測の難しい大きな事象では、容易に正しさが証明できないため、強く反論されると自信が揺らぎ、堂々としてはいられなくなった。

 恐らく、国中に自分と同じ意見を持つ者は大勢いる――と、恭介は考えていた。しかし、彼の目には、日本の集団主義のような力の論理が、自由に発言する機会をも奪っているかに見えていた。

 恭介が、現状への危機意識を口にするたびに、彼の上司たちは眉を顰めた。

「はっきりと……、言っておこう。本を多読して、無駄な知識をいくらため込んでいても、今の君には、わが社で出世する機会はないね。役に立たなければ、ごみ屑同然の知識だよ。残念だな」

「それは……、あまりにも」と言いかけて、恭介は言葉を失っていた。

 人に対して無能の烙印を貼る横暴や、リストラがはたして大義なのか? 企業の業績悪化を従業員に責任転嫁せざるを得ない事態を支店長は明らかに見誤っていた。いや……、分かっていて、まともな言葉が見つけられないのだ。――狂っている――と、恭介は思った。熱狂と、あぶく銭と、酒臭い吐息の匂いが混じり合う夢想の中から、誰もが抜けられずにもがいていた。それでいて、支店長は恭介の意見をまともに聞こうともしなかった。

 恭介は、――絶望――の言葉の意味を実感として、理解できた。こういうときは、いつも喉に強い渇きを感じた。酒を飽きるほど飲みたい――さもなければ、周りの人間を酒浸りにしてしまいたいと願った。

 テレビのコメンテーターたちは、バブル期は――経済大国日本の強さを賛美しつつ、株価や地価の高騰を望ましく捉えていた――が、バブル崩壊後も相変わらず視聴者に偏った意見を伝えていた。彼らの中でも「まだまだ、不動産は安くなりますから、今買うべきではありません」と、軽々しく語る者や「投資などはもってのほかです。箪笥預金がもっとも安全です」と、無責任な言動が目立った。バランスを欠いた扇動ほど、人々を迷走させるものはない――と、恭介は胸の奥に、違和感を覚えていた。

 イギリスの哲学者、ハーバート・スペンサーは『教育論』の中で「いかにすぐれた政治的手腕を用いても、鉛の思想を黄金の行為に誤魔化すことは不可能である」と、主張していた。

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