ペン回し

大垣

ペン回し

 横浜に出て来て三年になる。

 横浜はそこまで悪い場所ではない。伊勢佐木長者町の駅から歩いて十分ほどが僕のアパートだった。引っ越してきた時は、洋室六畳ほどのワンルームは田舎の広々とした土地で過ごした身にはやや窮屈だった。しかしそれも三年も経つとすっかり慣れてしまった。というよりも、むしろこれくらいの広さでないと落ち着かないようになっている。七階から人工的で無機質な街並みの夜景を眺めるのも嫌いではない。

 必要なものは大抵何でも揃うし、東京にもすぐ行ける。娯楽としては気軽に横浜スタジアムへ好きな野球を観に行けるし、退屈に困ることもあまりない。

 僕は伊勢佐木長者から四駅ほど離れたオフィスビルの一角で、男性向け化粧品の会社に勤め、在庫管理や購買を担当としていた。別段面白かったり、やりがいのある仕事でもないが、その分割り切ってそこまでの情熱も注がず、可もなく不可もないような生活を送っていた。

 その日もやはり僕は会社へ向けて、曇り空のもと朝から足を運び、電車に乗り込んだ。

「おはよう」と、電車がちょうど動き出した辺りで声がした。見ると同期の吉松だった。吉松は僕と家が近いらしく、たまに会う。

「おはよう」と、僕も返した。

「すっかり朝は寒いな。この間までまだ暑かったのに」

「木枯らし一号が吹いたらしいから、もう秋も終わりだよ」

「そうか。サーフィンはもう出来ないな」

「冬でもやればいいじゃないか」

「俺は夏のサーファーなんだ」

 吉松はそう言って欠伸を一つした。吉松の欠伸につられて前に座っていたスーツの中年もまた欠伸をした。

「でも冬は乾燥するから、うちの商品は売れるな」吉松は芸大出身で、宣伝部に居た。

「そうなると発注が増えて面倒くさい」と僕は言った。

「まあそういうな」

 そういう話をしていると気がつけば僕は自分のデスクに座っていた。書類やらが置かれていて、昨日から引き続きやることはあった。購買部門は広報部や営業部と比べると花方の仕事ではないが、閑職という訳でもない。しかしあまりべらべらと喋る性分でもないので自分には合っていると思っていた。

 時折、自分はこの事務仕事のようなことをこの会社で定年までやるのだろうか、とふと考えることがある。その度に、もっとアクティブに生きるべきだという考えが生まれ、その次に贅沢は言わずに居れるだけ居ればいいという考えが堂々巡りに生まれるのを何度も繰り返す。

 もし自分が七〇年代のモーレツ社員と呼ばれた人間のように、脇目もふらず生きられたらどんなに楽だろうかと、パソコンを眺めながらちょうどそういうことを考え始めそうな時に、向かいに座っている購買担当の女が声をかけた。

 女は僕と同じくらい若かったが、極めて凡夫な女性だった。特段可愛くも綺麗でもない。仕事以外で喋ったことはほぼなく、喋っているのを見かけることも少ない。パソコンの向こう側から聞こえてくるのはタイピングとクリックの声だけである。しかし仕事は卒なくこなしてくれるし、彼女の普通さはこの人にモテようとか、そういう仕事中に妙な気を起こさせないのでそういった意味では気に入っている。恐らく向こうも似たようなことを考えているはずである。

「ちょっといいですか……」と、女は平凡な声色で言った。内容は取るに足らない報告だったが、僕は言われたことをピンクのメモ用紙に書き付けるためにペンを取った。

 漢字の一つが何故か出てこなくて、僕はメモ用紙を見詰めたままペンをくるくると回した。中指と薬指の間から、人差し指と中指の間へくるり。そしてまた逆再生するみたいにもとの場所へくるり。

 それが三往復したぐらいで、そう言えばこのペン回しを教えてくれたのは中学校の同級生だったと思い出した。


 彼は背が小さかった。そして不良だった。正確に言えばそこまでの不良だったわけではない。万引きしたり、無免許でバイクに乗ったり、後輩を恫喝したり、倉庫裏に隠れてタバコを吸ったりもしていない(結構他にそういう人間がいた)。ただ少し、授業を真面目に聞かなかったり、先生に口答えする程度の反抗期の中学生だった。

 その時僕の前に彼の席があって、小学校から一応顔見知りではあったから、何かと話すこともあった。別に一緒に帰ったりとか、休みの日に遊ぶとか、そういう仲ではない。ただ前の席の、ちょっぴりヤンキーな友達という程度だった。

 彼はよく後ろを振り向いては、僕の方にちょっかいを出したものだった。おおよそ勉強をする気もない人間に、椅子に縛り付けられる学校生活というのは些か退屈だったに違いない。僕はまあ真面目な方だったので、それを適当にいなしながら過ごしていた。

 不良ではあったのだけれど、瘦せていて背は小さいので威圧感みたいなのは全くない。確かにまだ中学生ではあるのだが、無邪気な、無垢な子供っぽさをその時僕は感じていた。

 ある時、彼が先生と一緒に教室に戻ってきて、頬に腫れを作り目に薄っすら涙を浮かべている時があった。どうやら他のもっと「真面目な」不良に因縁をつけられて、殴られたらしい。当時別に喧嘩なんて珍しくなかったが、彼は何故だかその相手に一発も殴り返さなかった。別に体格は同じくらいの相手だったから、十分殴り返せたはずだが、彼はしなかった。単に度胸がなかったのか、相手の背後にあるもっと大きな敵を恐れたのか、はたまた何か信念があったのかは分からない。彼はその喧嘩についてあまり喋ろうとしなかった。

 兎にも角にも、彼はそういう中学生だった。

 その日、彼は何を思ったのか、僕に勉強を教えてもらおうとした。僕は当然了承した。

  そこで僕は彼に勉強を教える変わりに、彼からペン回しを教わったのだ。

 中学生の時、ペン回しをカッコ良くできることはちょっとしたステータスでもあった。勉強をそっちのけにして、色んな技を習得した者も少なくなかった。ペン回しがしやすいボールペンを探している者さえ居た。

 彼もそのうちの一人で、手先が器用なのか、色んなペン回しが出来た。当然僕も出来ないより出来た方が良かったから、一番初歩的な技を教えてもらった。中指から人差し指にペンをくるりと移動させるだけのものだったが、僕はそれを何度も授業中に練習した。

 要するに彼は僕のペン回しの師匠だったのだ。それが出来るようになると、今度は逆に人差し指から中指に戻したり、親指の上で一周させる一番スマートなペン回しを練習した。

 進級して彼と別れる頃には、僕は一通りのペン回しが出来るようになっていた。

 クラスが別々になった後も、たまに廊下ですれ違うと、彼は笑って僕のあだ名を呼んだ。彼のことを思い出そうとすると、その時の笑っている顔がよく浮かぶ。その顔と一緒に、少し高めな声も脳内ではっきりと再生される。きっと僕はどこかでそれが嬉しかったんだと思う。

 しかし卒業も間近になると、彼は学校にあまり来なくなった。何故だかは分からない。僕も受験で忙しかったから、学校の中から彼の存在が段々に薄らいでいってしまっていたことに気がつかなかった。結局卒業式にも彼が居たかどうかはっきり覚えていない。

 再び彼の名前が上がったのは僕が中学校の同窓会委員で、各人に連絡を取っている時だったが、彼は音信不通で成人式にも来なかった。


 僕はやっと漢字を思い出して、メモをし終えた。

 それからまたモニターとにらめっこしていると、昼休みの時間になった。

 僕は昼食はいつも社員食堂で取っている。賑わう食堂の中で僕はカツカレーを頼んで、空いていた窓際の席に座った。

 いざ食べようとすると、目の前に突然唐揚げ定食がどんと置かれた。見ると吉松だった。

「やられたよ」そう吉松は言った。

「何が?」

「発注しておいた新商品のポスター、誤配送で今広島にあるらしい」

 そういうと吉松は大きな溜息をついた。

「ツイてねえなあ」

「吉松」

「なんだ?」

「お前にサーフィン教えたの誰だ?」

「なんだそれ」

「いいから」

「お気楽だねえ購買部は。まあいいや、高校ん時の先輩だよ。家の近所の。俺んち海近いからさ。そんでその先輩がサーフィンやってて格好良かったから教えてもらった。モテそうだったし」

「その先輩、今何してる?」

「死んだよ。夜中に道路渡ろうとして轢かれて」

「ふうん。そうか、悪かったな聞いて」

「いいや全然別に。今課長に怒られる方が嫌だから。で、サーフィンしたくなったのか? サーフボード貸してやろうか」

「いいや、全然」

 吉松は一瞬不思議そうな顔をしてから、唐揚げにかぶりついた。僕もカツカレーの一口目をやっと口に運んだ。

 外を見ると、空は真っ白な、雪原のような曇り空だった。その中を真っ黒なカラスが風に乗って飛んでいく。冬はすぐそこまで来ていた。

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ペン回し 大垣 @ogaki999

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