後日談 虎徹の変化

 僕が主夫になることを家族で決定し、実際にそうなるまで、全く何もなかったわけでもないが、それでもそれほど大きな事件もなかった。

 虎徹が五年生、忍が一年生になるときには退職するという目途が立っていることで、『今のところは仕方がない』と様々なことに対して、自分の気持ちを落ち着けることが出来ていた。


 虎徹が小学校に入るときには色々と心配することはあった。

 親から見るに、こいつは我が道を行くタイプだから、友達ができるだろうかとか、授業内容の理解は困らない気がするが、そもそも授業を大人しく聞いて、先生の言うことを聞くことが出来るだろうかなどを心配していた。


 しかし、ふたを開けてみると意外なことに、彼は友人のことをすごく気にしていて、むしろ友達が言っていたこと、やっていたことを真似したがるではないか。

 案外と協調性もある。

 というわけで友人関係は心配するほどのことはなかった。

 先生に関しても、担任の先生との相性が良く、話を聞く限り、授業は楽しそうであった。


 ただ、二つ困ったことはあった。

 一つは宿題である。

 特に字を書く宿題や繰り返し計算するような宿題は、彼にとって苦痛でしかなかった。無理にやらせようとすれば、大声を上げて嫌がることもあった。また、日記や感想など、漠然としたことをまとめて書けというのも、彼には苦行であった。


 もう、これらに関しては、親としては諦めた。

 字は汚くてもいいし、宿題もどうしても無理だったらやらなくてもいい。

 日記やら感想などは、親が一緒に考えることにした。


 二つ目の問題の方が厄介だった。

 仕事をしていれば、下校時間には間に合わないため、児童クラブに預けるのだが、そこが彼の性質に合わなかった。

 学校生活以上に、周囲と同じような行動を求められ、寝っ転がっていようものなら怒られた。まあ、当然なのかもしれないが、親としては、学校生活でも我慢している部分はあるのだろうから、さらに児童クラブでも我慢するのは、彼の堪忍袋のキャパオーバーなのだろうと理解していた。


 ただ、そこでの友人が出来たり、年上とも平気で話せる虎徹にとっては、学年を超えて交流のある児童クラブには良い面もあったのだ。日が経つにつれ、学年が上がるにつれ慣れてきている様子もあったし、それも五年になれば家に帰ってこれるようにしてられるからと僕が自らに言い聞かせ、納得し、虎徹には我慢させていた。


 とにもかくにも五年に上がると同時に、僕が主夫となり、環境は大きく変わった。


 仕事を辞める理由についても、親として、子供二人にやりたいことをやる時間を作ってあげたいというのが理由の一つであることも伝えた。

 学校が終わってすぐに家に帰ってこられれば、友達と約束をしてくることが出来る。

 やりたい習い事があれば、送り迎えもできる。

 平日に家事が片付いていれば、休みの日は子供たちに合わせてやりたいことをしたり、行きたいところに行くこともできる。

 ただ、父親が仕事をしないことで、家の収入が減ることは、理解しておきなさい。

だいたいそんなことを伝えた。


 それからの虎徹は見違えるように変わった。

 精神的に落ち着いたのがはっきりとわかった。

 父親の状況が変わったことを理解し、その判断をした親の思いも十分に理解してくれていることを、こちらも感じることもできた。また自由になる時間も増えたことで、やりたいことをまずできるというのは、精神的安定に繋がったのだろう。状況によっては「宿題をしなさい」「早く準備をしなさい」ということはあるが、その時に怒るようなことはなくなった。苦手だった計算も、漢字の勉強も、我慢してやっている。

 それに、飲んだコップをキッチンに片付けたり、脱いだ服を洗濯かごに入れるなど、いままで口うるさく言われていたことを、自分からやることも増えてきた。

 僕としては、帰ってきてすぐ「友達と約束してきた」と言っては、遊びに出かける姿を見るのは、仕事を辞めてよかったと思える瞬間であった。



 そんなこんなで2か月程度が過ぎたある日、夕食が終わって、宿題を始めた虎徹のランドセルから出てきたプリントを見て、僕は目を丸くした。

「なんだ、これ?」

 それは、家庭科の授業プリントであった。

 そこには、虎徹の字でこう書いてあった。


『夕食を作れるようになる』


 よく見ると、それは家庭科の授業を通じて何をできるようになりたいかというお題に対しての回答であった。


「虎徹、夕食を作れるようになりたいの?」

「うん」

 虎徹は宿題をやりながら、こちらを見ずに答えた。

「たまには、お父さんの代わりに作れた方がいいかなと思ってね」

 こちらに顔を向けないのは照れ隠しかと思われたが、そうでもない。ただ宿題に集中しているだけのようだ。

 丁度いい、こちらのにやけている顔を見られずに済む。

「そっか、じゃあ、今度カレーでも一緒に作ってみるか」

「うん、いいねえ」

 虎徹はそう言って親指を立てるジェスチャーをした。


 奥さんが仕事から帰ってくる頃には、子供たちは宿題を終え、ボーナスのゲームをしていた。子供たちには、宿題が終わったら三十分ボーナスのゲームをしていいよと伝えているのだ。

 まあ、頑張るのにエサをちらつかせるのは、僕は悪いことではないと思っている。

 それは良しとして、奥さんの夕食を食卓に並べながら、先の家庭科のプリントの話をした。


「虎徹、夕食を作れるようになりたいんだって、パパが家事しているのを見て、お手伝いをして楽にさせてあげたいってことかな?」

 僕がニヤニヤしながら言うと、食前の手洗いを終えた奥さんはこういった。

「……わたしも家事してたんだけどな」


 あ―――っ! やっちまった!!


「いや、まあそりゃそうだけど、ほら、状況が変わって初めて気づくこともあるじゃない」

 思わぬ奥さんの反応に、僕は焦ってフォローをした。

「ははっ、冗談だよ。半分はね」


 半分かい! と心の中で突っ込みながらも、言われてみればその通りだとも感じた。


 今まで、家事について夫婦でやってきたわけで、奥さんももちろん頑張っていた。

 それはその通りだ。デリカシーが無かったかもしれない。


 ただ子供からしたら、生まれてこの方当然のように行われていることは当然なわけであるのだから、それを大変なこととして認識できていなかったとしても、それを責めても仕方がない。状況が変わったことに対して、虎徹なりに考えて、その結果として出てきた答えの上げ足を取る必要もない。


 奥さんも別に本気で不機嫌になっているわけでない。

 ちゃんと分かっている上での発言だ。


「何にしても良いことだね。」

 奥さんはそう言って笑顔を見せると、食卓に着いた。


 そう、良いことなのだ。


「そう言えば五年生なら自然学習で飯盒炊爨があるんじゃない? それでカレーを作るでしょ? 今度作ってもらおっかな?」

「うん!」

 奥さんの声掛けに、虎徹はゲームから顔を上げて返事をした。

 カレー大好き忍くんは、カレーの言葉を聞いただけで小躍りしていた。


 こうして、家族の楽しみなことが一つ増えた。

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