Prologue

プロローグ

「見習い探偵ハロウ・オーリン」


 彼が、僕の名を呼んだ。

 その青い目は、いかにも人を見下してあざ笑っていた。しかし次の瞬間──すっと、まぶたが細められたことにより、獲物を射抜く鋭い眼光が宿る。


 名探偵ギル・フォックス。

 彼の威圧の前に、僕はたまらず息をのみ込んだ。


「人の足を引っぱることしかできない無能な人間など、この事務所には必要ない。不在の所長に代わって、この俺がおまえに引導を渡してやろう」


 偉そうに組んでいた足をほどき、ギルは椅子から立ち上がる。円形に並べられた椅子の囲いを真っ二つに切断するよう、まっすぐに……僕の前まで歩いてきた。

 そして、うろたえる僕の顔面に、人さし指を突きつける。


「いますぐ、この場から消え失せろ。この――ヘリオス探偵事務所に、おまえの居場所はない」


 俗に言う、『追放』というやつだ。


 僕は「えっ?」と小さく声を上げた。なにを言われたのか、まるで理解できないといったふうに、目を丸くしてきょとんとする。一方で、ギルの眼差しは変わらない。無能者を排斥はいせきせんと、自前の青い目をギラつかせている。


 僕は少しずつ、顔に焦りの色を浮かべた。ごまかすように、口元をほのかにゆるませて笑みをつくる。


「そ、そんな……僕を事務所から追い出すつもりかい?」


 冗談だろう?

 と、固い頬でなんとか半笑いしながら、声を震わせた。


 ――この時、僕は静かにまわりをいちべつした。


 ここは探偵事務所の一階にある談話室。冬の季節が過ぎて、すっかり使われなくなってしまった暖炉を背に、椅子が円をつくって並んでいる。

 椅子の数は八つ。僕は、自身とギルを除く、残りの六名の表情をうかがおうとした。案の定、誰もがこの見せしめに顔を暗くしている。一様に暗いと言っても、それぞれ人物の性格に合った個性というものがはっきり表れていたが。


 やるせなく、うつむいた顔。

 気丈に構えるも、こわばった顔。

 明日は我が身と、おののく顔。

 あきらめきった、無心の顔。

 驚きと同情をまぜた、複雑な顔……。


(……あれ?)


 ダンッ!

 突然の強い音に、僕はびくっと肩を震わせて我に返った。

 

 視線を真正面に戻すと、ギルの顔がそこにあった。どうやら先程の音は、彼が床を強く踏んで鳴らした靴音のようだ。


 我に返った僕は、慌てて椅子から立ち上がる。勢いよく立ち上がった反動で、椅子が後ろへ倒れてしまった。だが、それを律儀に直す余裕など、いまの僕には微塵みじんも持ち合わせていない。


「なぁ、ギル……そんな冷たいことを言わないでくれ。僕だって、がんばっているじゃないか! あ……そ、その探偵の見習いとしてね」


 言葉がたどつく。

 もつれた舌をごまかすため、僕は一度咳払いをする。引き続き、頭から弁解の台詞をひねり出そうとするも……ダメだ、なにも浮かんでこない。


「僕だって、がんばっていたんだ!」


 僕は自分の赤みがかった目を向けて、ギルにすがりつく。口をはくはく動かし、悲痛な声色を喉奥からしぼり出して――ああしかし、彼の表情は依然いぜん厳しいままだ。眉根一つ、微動びどうだにさせない。


「そう、がんばっていた……」


「…………」


「だから、ひどいよ。ひどすぎる、追放だなんて……がんばっていたんだ、僕なりにッ!」


 おなじ言葉を何度もくり返しているうちに、とうとう頭のなかが真っ白に染まる。ぎゅっと握りしめた拳の内側で、固くなった指先の冷たさを感じた。


「――なら、ここにいる連中にも聞こうか?」

「!」


 ギルの手が伸びる。彼の思わぬ行動に僕は避ける間もなく、なすがままにシャツの襟首えりくびをつかまれた。


「先日の誘拐事件といい……どうもここ最近、事務所内の空気がたるんでいるのはハロウ、おまえが原因のような気がしてなぁ」


「く、くるしっ……!」


「悪いが、俺はおまえのような負け犬とつるむのはごめんだ」


 乱暴に襟をつかんだまま、彼は首を傾けて後ろへ振り返る。円形状に並んだ椅子の上に座る、ほかの探偵仲間たちにも小馬鹿にするような目を向けて──ハッと鼻を鳴らした。


「俺はちがう。ヘリオス以上に名をとどろかす本物の探偵として、この国で成り上がってやるさ。正義……人助け……無論、そんなものには俺の理想には不要だ。

 なぁ、おまえらももっと正直になるんだ。……欲しいんだろ? 賞賛、名声、金や地位に、権力――まわしい人生すべてをひっくり返せる力ってやつを! それらの見返りを期待して、俺は探偵の道を選んだんだ!」


 ――だったら、不要な芽は間引かないとな。

 と、ギルは僕を見て吐き捨てた。不穏な色をまとう彼の甘言に、異議を唱えてくれる者は……この場に誰一人として現れなかった。


 強い力で突き放される。僕は床に転がり、激しく咳き込んだ。水気を帯びた目で見上げれば、ギルが顎をしゃくる──そのまま出ていけ、と。


「…………」


 よろよろと、僕は立ち上がる。

 立ち去る前にもう一度だけ、探偵仲間たちの顔を見ようと振り返りかけた。けれど、立ち塞がるギル・フォックスが、それを許さない。仕方なく、負け犬らしく顔を下へうつむかせて、僕はそそくさとドアへ足先を向けた。


 背後で、誰かが椅子から立ち上がった音がした。しかし、同時に制止の声も飛んで、結局誰も僕のことを引き止めてくれる者はいなかった。


(…………)


 談話室を出た僕は、そのまま事務所の玄関へ向かい、扉を開いた。

 外は真っ暗な夜──運の悪いことに、冷たい雨が降りしきっている。小さくため息を吐けば、白い煙が闇夜のなかにすっと溶けていった。


 ギィギィ……なにか音が聞こえると思ったら、頭上で看板が風にゆれていた。


『ヘリオス探偵事務所』


 僕はじっとそれを見つめた後、意を決して雨のなかへ飛び出した。湿った臭いが体を包む……雨はたちまち僕の衣服に黒い染みをつくって、紅茶色の髪をしんなり濡らした。

 夜の中通なかどおりを、僕は走った。ひたすらに、足を動かして……。



 * * *



 名探偵ギル・フォックス。

 ヘリオス探偵事務所きっての人気者、いわゆる花形探偵というやつだ。


 憎いやつだと、いまでも思っている。

 しかしこの夜のやりとりを最後に、まさか彼と永遠に別れることになるとは……この時の僕は思いもしていなかった。


 探偵事務所を後にした時刻は、およそ夜の七時半ごろ。

 物語をはじめるには、だいぶ時間を巻き戻す必要がある。


 まだ雨が降っていない、くもり空の朝方へと――。

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