香りに誘われて

水月蓮葵

香りに誘われて

 駅を出たところで、特別なことは何も待ってない。光を失った静かな街並みだけ。

 明かりがあるとすれば、コンビニくらいだ。


 なんでこんな時間まで働かなきゃいけないんだ――と心の中で文句を垂れるが、社畜の運命だからと諦める自分にわびしくなる。

 唯一の救いがあるとするならば、日をまたいでないことだけだ。


 もう栄養とかどうでもいい。上手くなくても、まずくなきゃ何でもいい。腹を満たして、そんで寝よう。

 心身のだるさをごまかすように、ご褒美らしくないご褒美をぶら下げたつもりだった。



「……はあ、何が悲しくて数時間後にまた仕事に行くんだ」



 もはや、この移動時間すら無駄なんじゃないか、なんて思い始める自分は相当疲れてる――が、どこか他人事に思えた。




「あ、しまった。コンビニ通り過ぎた」




 ふと、気が付いて足が止まる。ぐるぐると考えるクセは良くない。こうして、大事なことを取りこぼしていく。

 この先進んでもあるのは公園と家だけ――かといって、今からコンビニまで戻るのは億劫だ。一食抜いたところで、死にはしないから大丈夫だろう、と重い足に鞭を打った。


 だんだん見えてきたのは小さな公園。子供が遊ぶような遊具はなく、ただベンチと四季折々を楽しめるように植物があるだけの場所だ。

 通り過ぎようとしたら、何かの香りが鼻腔をくすぐった。



「金木犀かぁ……そっかぁ」



 もう一度、スンッと吸うと甘くて、華やかで心安らぐ匂いがする。

 仕事や日常に流されて忘れてしまった季節感をこの香りで取り戻せたのはまだ心に余裕があるからなのか、それともこの香りのおかげで余裕を取り戻せたのか。どちらか分からないが、ほんの少し救われた気がした。

 おかげでベッドにダイブする気満々なのに、足は違う方へと向かっていく。


 近づけば近づくほど甘さを増す蜜の木はベンチの隣に、一本植えられていた。背丈の高いそれを阿呆のようにボーっと見上げれば、パラパラと花弁が愛らしく咲いていた。


 小さいのに遠くからも分かるこの香りには感心させられる。

 自己主張の強さ、というべきなのか、自己を確立している、というべきなのか。いや、花は花だ。別に「なにもの」にもなろうとはしない。そんなおこがましいことを考えるのは人間くらいだ。



「――こんばんは」



 静かで少し肌寒い中、聞こえてきたのは鈴のような声。

 こんな時間に誰かがいるとは思わず、目を見張った。



「ふふ、ごめんなさい。驚かせてしまいましたね」



 声のする方へと顔を向ければ、ベンチに同世代くらいの女性が座っている。

 人の気配に気が付かず、金木犀にしか目が入っていなかった自分にも驚いたが、気配を上手に消していた彼女にも驚かされる。

 飛びのく俺に目を真ん丸にして、クスクスと笑う口元を手で隠していた。


 柔らかく、おおらかなその雰囲気は可憐な人――いや、品の高いお嬢さんというのが適切かもしれない。

 何がそんなに楽しいのか分からないが、彼女の笑いは止まらなかった。



「……そんなに笑わなくても」

「ご、ごめんなさい。あまりにも反応が良くて……こんな夜遅くにどうしたんですか?」

「えっと、仕事帰りで……」



 目に涙を溜めて笑ってるもんだから、羞恥心が込み上げてくる。ポリポリ、と後頭部をかいて答えれば、彼女は慌てたように謝罪してくれた。

 空いている自分の隣をポンポンッと叩いて、首を傾げる。


 同世代と言えども年若い女性が、夜更けにこんな無防備で大丈夫だろうか。本当に何も知らない箱入り娘なのではないか、と正直心配になってきた。



「まあ! それはそれはこんな遅くまでご苦労様です」

「え、あ、ど、どうも……えーっと、君はこんな時間に何を?」



 パチンッと手を叩き、目を輝かせながら労わってくれる。その笑顔は控えめに言って、天使――いや、癒しの女神だ。ここ数年、誰かに気遣ってもらったことがない俺は慣れないそれに照れくさく感じながらも、チラリ、と視線を向けた。



「――誰かと会いたかったんです」

「誰かって……?」



 くりくりとした目が一瞬、まんまるになるが、すぐに細められる。静かに告げられたそれは、どこか物悲し気に聞こえた。


 下心を持つ男に勘違いされても仕方ない言い方だ。

 どう解釈していいのかと、眉根を寄せていると彼女は「あっ!」と声を上げるもんだから、肩がビクッと揺れる。



「お兄さん、もうすぐ十二時になっちゃいますよ」

「それはまずい!」



 華奢な手首に付けられたオシャレな腕時計。それを差す指に促されるまま見れば、針はてっぺんで重なろうとしていた。


 飯も食わずに寝ようとしていたのに、見ず知らずの女性とこんなに話をしていた――普段の俺ならあり得ない。

 焦りと驚きのあまりに重い腰を勢いよく上げた。



「……おやすみなさい」

「き、君はまだ帰らなくていいの?」



 お開きと言わんばかりだった彼女が、立ち上がる様子はない。ただどこか寂しそうな瞳と交わった。

 さすがにこんな夜更けに若い女の子を置いて帰るのは心苦しくて、眉根を寄せた。



「もう少ししたら、帰りますよ」

「……気を付けるんだよ?」

「ありがとう。優しいお兄さん」



 彼女より先に帰ることに少しの罪悪感を覚える。でも、残業続きのせいで睡眠不足もあるから、帰りたい気持ちの方が上回っていた。


 ふわりと笑みを浮かべる彼女は、手を振ってくれていた。それは俺の背中が見えなくなるまで続いていた、気がする。



 それから帰宅すると速攻で寝た。短いながらも深い眠りについていた俺の鼓膜を揺らすのはアラームの音。

 うるさいなぁ、と目を開けて携帯の画面を見れば、遅刻ギリギリの時間だ。



「やべっ!」



 慌てて飛び上がって、適当にスーツを身に纏い、脱兎のごとく飛び出した。

 疲労が取れず、運動不足も重なって、正直身体が痛い。遅刻よりはいくらかマシだと我慢して、駅に向かう途中、甘さが鼻腔をくすぐった。


 香りと記憶が紐づいて、あの子はちゃんと無事に家に帰れただろうか、とふと過る。

 そういえば、どうして彼女はあの場所にいて、俺に声をかけたのか――なんて疑問まで浮かんでくるが、今はそれどころじゃない。

 上司に怒れない未来を優先するため、すでに重い足で地面を力強く蹴った。


 帰りにあの金木犀の香りをまた堪能したい。

 彼女とまた話したい――という願望を頭の片隅に置きながら。


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