理事長は猫 ~占い部には僕の好きな三人の女子がいる~
金沢れん
第一章
第1話 理事長は猫
四月中旬。
帰宅するため、僕が校門へと向かっていたときのことです。
「そこの女子、待つニャ! お前に用があるニャ!」
突然、そんな声が聞こえたかと思うと、僕の前に一匹の黒猫が飛び出してきました。
僕は立ち止まって、キョロキョロとまわりを見回しますが、僕以外、誰もいません。
「お前のことニャ」
黒猫が、僕に向かって言いました。
どうやら、呼び止められたのは僕みたいです。
少女のような声で喋る黒猫。
この黒猫が、うちの学校の理事長です。
喋らなければ、本物と間違えてしまいそうですが、これは、理事長が自宅から遠隔操作している、アバターロボというロボットなんです。
理事長は高齢ということもあって、身体的負担を減らすために、このアバターロボを使って、学校にいる生徒や教職員とコミュニケーションをとっているのです。
ちなみに、理事長(猫)が少女のような声で喋るのは、生徒ウケがいいように、ボイス変換しているのだとか。
まあ、それはいいとして……。
理事長の言葉を聞いて、僕はため息をつきました。
また、正さないといけないからです、相手の勘違いを。
入学してから、何度、同じセリフを言ったでしょうか。
でも、勘違いされたままでは困りますから、言わないわけにはいきません。
「あの、僕、男子ですけど……」
「なんと、そうなのかニャ! 女子みたいな顔をしてるから、女子かと思ったのニャ!」
……わかります。
自分でも、女子みたいな顔してるなって、思います。
実際、入学直後に、僕のことを女子だと勘違いした、ほかのクラスの男子から、遊びに誘われたり、告白されそうになったくらいですから。
男女別制服の学校なら、僕がスラックスを履いてる時点で、男子だと分かりそうなものなんですが、うちの学校、七本木(しちほんぎ)学園高校はジェンダーレス制服の学校なので、女子もスラックスを履けるんです。
それで、僕を女子と勘違いしたんだと思います。
高校一年の男子なのに、身長は百六十センチくらいしかなくて、華奢な体型をしている、というせいもあるのかもしれませんが。
……さて。
誤解がとけたところで、僕は理事長がさっき言ったことを聞き返します。
「僕に用、ですか?」
「誰か、校門のところまでこないかと思っていたら、お前がやってきたのニャ。男子でも女子でも、どっちでも構わないのニャ。一緒についてくるニャ!」
理事長はそう言うと、校門から勢いよく飛び出していきます。
「ええっ? ちょ、ちょっと!」
強引すぎます!
理由くらいは言ってほしいです!
僕は慌てて校門を出て、歩道を疾走する理事長を追いかけます。
理事長は、住宅街のあるほうへ行こうとしているようです。
◇
僕の前方を疾走していた理事長が、住宅街の中にある公園の前で、急停止しました。
理事長は公園のフェンスに飛びつくと、そのまま公園の中へと入ります。
僕は息を切らしながら、少し遅れて公園の前までやってきました。
アバターロボって走ると早いんですね、追いつこうにも、なかなか追いつけません。
理事長は、なにかをさがしているのか、公園の中をウロウロと歩き回っているようです。
公園にはトイレと数台のベンチがあるだけで、遊具類は設置されていません。
少し休んで、呼吸を整えた僕が公園の中に入っていくと、理事長が駆け寄ってきました。
「あそこにあるベンチの上に、二匹の猫がいるのが見えるニャ」
理事長の言う通り、公園の奥にあるベンチの上に、二匹の黒猫がいます。
「ええ、いますね。同じ大きさの黒猫が二匹」
どちらも、首輪はついていません。
「実は、私の操作していたアバターロボが突然、暴走して、校外へ飛び出してしまったのニャ。暴走したアバターロボをGPSで追跡したら、この公園に逃げ込んだことがわかったのニャ。お前には、その逃げたアバターロボを捕まえてもらいたいのニャ」
ようやく、自分が呼び止められた理由がわかりました。
それは誰かに頼まないと、できないことですよね。
でもそれって、僕じゃなくてもいいような……。
僕はそのことを理事長に聞いてみました。
「秘書の人はどうしたんですか? 秘書の人には頼まないんですか?」
学校には、理事長の実務をサポートする秘書がいます。
理事長(猫)は、女性の秘書と一緒に校内を歩いていることがあるので、その秘書に頼めばいいんじゃないかと僕は思ったんですが……。
「今はいないニャ。来客に対応しているのニャ。秘書にはすでにこの場所を伝えてあるから、あとでくるニャ」
確かに、まわりを見回しても、秘書らしき人は見当たりません。
公園にいるのは、僕と理事長の二人だけです。
「秘書を待っているうちに、アバターロボに逃げられると、面倒なことになるから、その前に、誰かに捕まえてもらおうと思ったんだニャ」
それで、僕に声をかけた、というわけですか。
◇
僕はベンチから少し離れた場所で、二匹の猫を観察します。
一匹は寝ていて、もう一匹は毛づくろいをしています。
どこにでもいる普通の猫と同じ仕草をしていて、動作に異常なところは見られません。
「暴走したって言いましたけど、僕の目からは、正常に動いているように見えるんですが……」
僕がそう言うと、足元にいる理事長が答えます。
「外見に騙されてはいけないのニャ。中身は、外部からの命令を一切、受け付けない暴走状態のままなのニャ。カメラ機能がシャットダウンされて、操作もできないから、行動を制御することができないのニャ。最悪の場合、搭載されているAIが、人に攻撃命令を出して、引っ掻いたり、噛みついたりすることもあるのニャ。そうなる前に、捕まえる必要があるのニャ」
僕はなるほどとうなずきます。
「猫はベンチの上に二匹いるんですけど、捕まえるアバターロボは、二匹なんですか?」
「いや、一匹ニャ。もう一匹はたまたま、公園にいた本物の黒猫ニャ」
うわっ、まぎらわしいな。
こんなこともあるんですね。
……あれっ?
僕はふと思ったことを、何も考えず、口にしました。
「暴走したアバターロボがベンチにいるってことは、今、理事長は予備のアバターロボを使ってるんですよね?」
すると、理事長が慌てたようすで答えました。
「はニャッ! そ、そうニャ! 今、使っているのは予備のアバターロボなのニャ! だから、今の私はロボットなのニャ! 本体なんかじゃないのニャ! 予備がなくて、秘書を待つ時間も惜しかったから、本体のままで校外に出てしまった、なんてことはないのニャ!」
「……えっ? 本体?」
「い、いや、なんでもないのニャ! 本体というのはこっちの話なのニャ! 細かいことを気にしてはいけないのニャ!」
「はあ……」
よく考えたら、言うまでもないことですよね。
予備のアバターロボを使ってないのなら、今、足元にいる理事長は一体なんなんだ、ってことになっちゃいますから。
◇
「どちらか一方を捕まえるのはわかりました。それで、どちらを捕まえればいいんですか?」
僕は足元にいる理事長に尋ねます。
二匹とも、僕が見る限り、本物そっくりに見えるので、教えてもらわないとわかりません。
「それが、さっき見たのニャけど、わからなかったのニャ。逃げたのは試作機なのニャが、細部まで本物の猫そっくりに作ってあるので、私でも見分けがつかないのニャ」
……予想外の返事です。
まさか、使っている本人でもわからないとは……。
僕はなにか、見分けるいい方法はないかと考えます。
…………。
んっ、ありました、いい方法が。
先ほどの理事長の言葉にヒントがありました。
方法というのはこうです。
どちらか一方の猫を捕まえて、その場から離れてみればいいのです。
GPSの反応が動けば、捕まえている猫がアバターロボということになるし、動かなければ、もう一方のベンチにいる猫が、アバターロボということになります。
僕はさっそく、理事長にGPSを使って見分ける方法を説明しました。
「GPSは確かに、アバターロボに搭載されてるニャ。でもGPS信号は、この公園で消えたから、今はどちらがアバターロボかわからないニャ。たぶん、アバターロボが、自らGPSをオフにしたんだニャ。だから、その方法は使えないニャ」
「えっ、なんで、そんなことをしたんでしょうか?」
「GPSをオフにすれば、追跡手段がなくなって逃げ切れるとAIが判断したんだニャ。AIがGPSにまで干渉できるようになっていたのが、裏目に出てしまったのニャ」
「……猫のわりには、頭いいですね」
「でも、オフにするのが遅すぎたのニャ。そのおかげで、ここまで追跡できたのニャ」
残念ながら、僕のアイデアは、役に立たなかったようです。
それより、今の説明で腑に落ちないことがあります。
「そのアバターロボの行動についてなんですけど、GPSをオフにして逃走しようとしてるくせに、公園のベンチで無防備に寝そべっているなんて、行動に一貫性がないように思うんですが」
僕がそう質問すると、理事長が答えます。
「それは、猫の習性のせいニャ。日当たりのいい場所を見つけたら、日なたぼっこするとか、体が汚れたら毛づくろいするとか、高い木を見つけたら、登りたくなるとか、そういう猫としての習性もプログラムされているから、そっちも影響してるのニャ。AIを搭載して、賢くなっていても、習性には逆らえないのニャ」
「それって、なんのためにプログラムされてるんですか? 自分で操作するアバターロボに、必要ないじゃないですか」
僕はさらに質問します。
「アバターロボは商品化する予定があるのニャ。操作しないときは、ペットロボとしても使えるように、猫の習性をプログラムしてあるのニャ」
「へー、そうなんですか」
それは、はじめて知りました。
試作機の段階で、すでに本物と見分けがつかないんだから、発売されれば、さぞかし、売れるでしょうね。
アバターロボとして売るより、ペットロボとして売るほうが、需要あるかもしれません。
◇
僕はほかに見分ける方法はないものかと、二匹の猫を見比べていました。
そして、寝ているほうの猫を見て、あることに気づきました。
「あっ、よく見たら、お腹が呼吸で動いてるじゃないですか。お腹が動いてるほうが本物ですよ。アバターロボはロボットなんですから、呼吸しませんよね」
そう指摘すると、理事長はため息でもついたのか、一呼吸おいて返事をしました。
「……ダメニャ。本物そっくりに見えるように、呼吸してなくても、アバターロボのお腹が動くようになっているのニャ」
「試作機なのに、細部にこだわりすぎですって!」
思わず、ツッコんでしまいました。
「私に言われても困るニャ。私はただ『外見を本物の猫そっくりに』という要望を開発チームに送っただけなのニャ。そしたら、開発チームが要望通り、本物そっくりに作った、ということなのニャ。きっと開発チームに職人肌のやつがいるんだニャ。いわゆる、職人のこだわりというやつだニャ」
「じゃあ、抱いてもわからないんですか? 体重や体温で判別は……」
「それもダメニャ。体重は本物の猫と同じくらいの重さにしてあるし、体温も本物と同じになるように設定してあるニャ。とにかく、外見はあらゆる面で、本物そっくりにしてあるニャ」
こりゃ、ダメですね、ホントに見分けはつかないみたいです。
「そういえば、肝心なことを思い出したのニャ。暴走したアバターロボは、外見がメス猫として作ってあるのニャ。だから、そこにいる猫が、ニャン玉のついているオス猫なら、アバターロボではなく、本物ということになるのニャ。つまり、どちらかが、オス猫ということがわかれば、必然的にもう一方は、アバターロボというわけニャ」
おっ、それは、いいことを聞きました。
それなら、運がよければ、一発で見分けがつきそうです。
「先に言っておくのニャが、捕まえるだけではダメニャ。捕まえて、電源スイッチを押してもらう必要があるニャ。今は大人しくしているからいいのニャが、捕まえても、暴れたりして、また、逃げ出すかもしれないから、電源スイッチを押して、動作を停止させないとダメニャ」
「わかりました。それで、電源スイッチはどこにあるんですか?」
「肛門の中ニャ」
「え?」
聞き間違い?
肛門の中って、聞こえたんですが。
「肛門の中に電源スイッチがあるニャ」
聞き間違いじゃなかった!
「ど、どうして、そんなところにあるんですか!」
「私が決めたわけじゃなくて、開発チームがそう決めたのニャ。体の外に電源スイッチを配置すると、人からさわられたとき、誤って、押されてしまう可能生があるニャ。そういうことが起きないように、絶対に通常ではさわらない場所に、電源スイッチを配置する必要があったということなのニャ。それが、肛門の中というわけなのニャ。ここなら、誤って押されることがないので安全なのニャ」
……それって、肉球とか、鼻を長押しするとかじゃ、ダメだったんでしょうか?
商品化を目指してるのに、電源スイッチが肛門の中とは……。
……まあ、いいけど。
僕は理事長に質問します。
「そのスイッチは、どうやって押せばいいんでしょうか?」
「指を突っ込んで、押せばいいニャ」
理事長が即答しました。
「……は?」
「指を入れれば、届くところにスイッチはあるニャ。問題ないのニャ」
いやいや、問題あるでしょ!
それって、本物の猫だったときのこと、考えてないですよね?
「あ、あの、押すのなら、指ではなくて、そこらに落ちてる木の枝とかでもいいのでは?」
「突っ込むものが固いと、本物の猫だった場合、肛門を傷つけてしまうことになるのニャ。動物愛護の観点から、それは望ましくないのニャ。かわいそうなのニャ。やわらかい指のほうがいいのニャ」
「ぐっ」
僕の提案は、あっさり却下されてしまいました。
本物の猫の肛門に指を突っ込むことになる僕は、かわいそうじゃないのか、と言いたくなります。
よく考えたら、肛門に指を突っ込む時点で、すでに動物愛護してないような気がするんですが……。
理事長は、戸惑っている僕を気にするようすもなく、一方的にこう告げました。
「さあ、早く捕まえるのニャ。大人しくしている今が、絶好のチャンスなのニャ」
◇
僕は猫を捕まえるため、ゆっくりとベンチに近づきます。
僕に与えられたミッションは、アバターロボを捕まえて、肛門の中にあるという、電源スイッチを指で押すこと。
二匹のうち、どちらかが、アバターロボなので、当たる確率は二分の一。
つまり、運が悪ければ、本物の猫の肛門に指を突っ込むこともありうるのです。
でも、理事長は「アバターロボは外見がメス」と言っていたので、もし、最初に捕まえた猫が、オス猫だったなら、必然的に、もう一方はアバターロボということが確定します。
最悪なのは、どちらも、メス猫というケース。
これだと、実際に肛門に指を突っ込んでみるまでわかりません。
どうか、最初に捕まえた猫が、オス猫でありますように。
そんなふうに祈ったあとで、僕は寝ているほうの猫をそっと抱き上げました。
ここで逃げられると、すべてが台無しなので慎重に。
「うにゃん」
人に慣れているのか、猫は暴れることなく、抱かれてくれました。
抱き上げた猫は温かく、お腹も呼吸しているように動いています。
僕は猫の股間を見てみました。
ニャン玉は……ない!
ついてない!
つまり、この猫はメス猫ということです。
「どうニャ? オスかメスか、どっちだニャ?」
足元にいる理事長が、僕を見上げるようにして、聞いてきます。
「……メス猫でした」
がっかりしましたが、まだ、チャンスはあります。
僕は猫を抱いたまま、もう一匹の猫のほうに視線を移します。
こっちの猫は、さっきから毛づくろいに熱心で、今は股を開いて、毛づくろいをしています。
つまり、よく観察すれば、ニャン玉があるのか、ないのかが、この位置から、すぐに確認できるのです。
こっちがもし、オス猫なら、僕が抱いているほうが、アバターロボということで「当たり」が確定します。
僕は毛づくろいをしている、猫の股間を見てみました。
こっちは……ない!
こっちも股間にニャン玉がない!
「どうしたニャ。何を驚いてるニャ」
「今、股を開いて毛づくろいしてたから、こっちの猫も確認したんですが、こっちもメス猫です。結局、どちらもメス猫でした」
最悪のケースですが、仕方ありません。
僕は猫を抱いたまま、木陰に移動します。
ここなら、歩道を歩いている人から、これからする行為を見られることはありません。
抱いた猫の肛門を見ると、色艶のあるピンク色をしていて、時々、ピクピクと動いています。
なんだか、本物に見えるんですけど……。
よく考えたら、秘書がくるのなら、指を入れるのは秘書に任せる、という手もあります。
僕はただの生徒なんだし、秘書と違って、理事長とは雇用関係にないんですから、こんなことで理事長の命令に従う必要なんてないはずです。
僕は秘書がくるまで、このまま、猫を逃さないように抱っこしているだけで、いいのではないでしょうか……。
そんなことを考えて、肛門に指を入れるのをためらっていると、
「早く、肛門の中に指を突っ込むニャ! また逃げられたら、捕まえるのに、手こずるのニャ!」
と言って、理事長が急かしてきました。
どうやら、秘書がくるまで、待ってはくれないみたいです。
自分はいいよな、命令するだけだし。
……はあ、仕方ない。
「じゃあ、入れますよ」
僕は意を決して、猫を左腕で抱きながら、右手の人差し指を猫の肛門に突っ込みました。
ずぶっ。
「うにゃああ――――」
激しく猫が暴れます。
「り、理事長! すごい暴れてるんですが! これ本物なんじゃ!」
「アバターロボでも、肛門の中に指を突っ込まれたら、リアルさを演出するために、暴れるようになっているのニャ。だから、今の段階では、判断できないニャ」
ああ、もう、余計な機能ばっかり!
「もっと、指を深く突っ込むのニャ。指先に硬いものが当たれば、それが電源スイッチなのニャ」
僕は暴れる猫を逃さないように必死に抱いて、人差し指をさらに深く突っ込みます。
指先に何かが、当たったような感触。
「あっ、指先に何か、硬いものが当たりました!」
「それニャ! それが電源スイッチニャ! それを押すニャ!」
僕は理事長の言う通り、その硬いものを押しました。
でも、猫の動きは止まりません。
「押しました! でも動いたままです! いったん、暴走すると、電源スイッチを押してもダメなんでしょうか!」
「…………」
理事長?
理事長は黙ったまま、なにも言ってきません。
どうしたのでしょうか?
「……指を抜くニャ」
「え?」
「いいから、いったん、指を抜くニャ」
「は、はい」
僕は指を肛門から引き抜きました。
「抜いた指のニオイを嗅いでみるニャ」
ニオイを?
僕は恐る恐る、自分の人差し指のニオイを嗅いでみます。
「うっ、くさっ!」
理事長は、僕の反応を見て答えました。
「やっぱり、間違いないのニャ。それは本物の猫ニャ。アバターロボではないのニャ」
「ええっ? でも指先に、なにか硬いものが当たりましたよ? じゃあ、指先に当たったのは?」
「それは、腸の中に詰まった猫のうんこニャ」
「きたなっ!」
うわあ、一番、恐れていたことをやってしまいました!
大ショックです!
僕は猫を抱いたまま、へなへなと、その場に崩れ落ちます。
うちは両親の帰宅が遅いから、夕食は自分で作らないといけないのに、本物の猫の肛門に指を突っ込んでしまったので、もう今日は、この手で夕食が作れません。
いや、作ろうと思えば作れるけど、この手で作ったものは、食べる気になれません。
僕が地面に両膝をついて、呆然としていると、猫が身をよじって、腕の中から飛び出しました。
「あっ」
次の瞬間、猫はすごい勢いで走り出して、公園のフェンスによじ登って、公園から出ていってしまいました。
……よほど、怖い思いをしたんですね、あんな逃げ方をするなんて(怖い思いをさせたのは僕だけど)。
ゴメンね、尻の穴に指、突っ込んじゃって。
◇
僕は気を取り直すと、アバターロボがどっちかわかって喜んでいる理事長を横目に見ながら、再び、ベンチへと近づきます。
ここでいったん、手を洗いたいところですが、まごまごしていると、逃げられてしまうので、それはあとまわしです。
僕はベンチに残っている、毛づくろいに熱心なほうの猫をそっと抱き上げます。
「うーなっ」
こっちがアバターロボのはずですが、抱いた感触といい、見た目といい、やっぱり本物としか思えません。
よくできてますね。
僕はさっきと同じく、人目につかないよう、木陰に移動します。
「じゃあ、入れますよ」
そう言って、僕が猫の肛門に人差し指を突っ込もうとすると、
「待つニャ!」
理事長がストップをかけました。
「さっきとは、違う指を入れるのニャ」
「えっ?」
「その猫は、アバターロボなのが確定してるニャ。さっきと同じ指を入れると、アバターロボの肛門が汚れてしまうニャ。それはイヤなのニャ。別の指を入れて、汚れないように気をつかうのニャ」
僕の指も汚れないよう、気をつかって欲しかったんですが……。
「じゃあ、今度は中指を入れますよ」
そう言って、僕が中指を肛門に入れると、激しく猫が暴れ出しました。
逃げないように、しっかり抱きかかえて、僕は指をもっと深く入れます。
指先に、なにかが当たる感触。
僕はそれを強く、押し込みました。
電源スイッチを押したから、これで、動きが止まるはず……。
……って、止まらない!
猫は暴れたままです。
あれっ?
どういうこと?
「あの、電源スイッチのようなものを押したんですけど……」
僕はどうしたらいいのか、わからなくなって、足元にいる理事長に助けを求めます。
「…………」
理事長は、しばしの沈黙ののち、言いました。
「指を肛門から引っこ抜くニャ」
デジャヴ?
僕は言われた通り、猫の肛門から指を引き抜きます。
「引き抜いた指のニオイを嗅いでみるニャ」
ま、まさか……。
僕はゆっくりと指を自分の鼻先に近づけ、ニオイを嗅いでみます。
「くっさあっ!」
理事長は僕の反応を見ると、
「それは本物の猫ニャ。アバターロボではないのニャ」
などと、まるで他人事のように言いました。
「ちょっと! しっかりしてくださいよ! 話が違うじゃないですか! GPSで追跡して、この公園に逃げ込むのを確認したんじゃないんですか! なんで二匹とも本物なんですか! アバターロボは、どこに行ったんですか!」
「うーん、おかしいニャ」
僕が理事長に抗議していると、抱いていた猫はそのスキに僕の腕をすり抜け、逃げてしまいました。
◇
これでもう、公園に黒猫はいません。
ということは、これ以上、僕がここにいても、できることはなにもないということです。
僕は公園のトイレに入って、手洗場で汚れた指を洗います。
石鹸がないので、水洗いするだけですが、洗わないよりはマシです。
理事長に付き合ったばっかりに、えらい目にあいましたが、これでようやく、帰れそうです。
僕がそんなことを考えながら、トイレから出てくると、
「まだ諦めるのは早いニャ。もしかしたら、まだ公園内に潜んでいるかもしれないのニャ。念のため、猫が隠れそうな場所をさがすのニャ」
理事長が、そんなことを言い出しました。
はあっ、今から?
僕としては、さっさと諦めてほしいのだけど、理事長はとことん、やる気のようです。
ううっ、面倒だなー。
僕は気が進まないながらも、腰をかがめて、ベンチの下とか、植え込みとか、猫が隠れてそうな場所をさがします。
……案の定、さがしても見つかりません。
GPSで公園に逃げ込むのを確認したといっても、GPSをオフにしたあとに、公園を通り抜けて、別の場所へ逃げた可能性もあります。
そうなると、いくら公園をさがしても、見つかるはずがありません。
そろそろ、諦めたほうがいいのでは……、そんなことを思いはじめた頃。
僕は腰をかがめてさがすのに疲れて、立ち上がって、大きく伸びをしました。
そのとき、僕の視線の先に……。
「い、いました!」
さっきの黒猫がいたベンチの後ろにある木の上に、黒猫がいました。
まさか、ホントにいるとは……。
全然、気がつきませんでした。
理事長も、僕の指差す木を見て、黒猫がいるのを確認したようです。
「でかしたニャ! こんなところにいたのかニャ。ベンチのほうに気を取られて、まさか、木の上にもいるとは、気づかなかったのニャ」
当然、捕まえないといけないわけですが、困ったことに、黒猫がいるのは、地上から三メートルくらいの高さにある太い枝で、手が届きません。
「さあ、捕まえるニャ」
手が届かない高さなのに、捕まえろとムリを言ってくる理事長。
「いや、捕まえろと言われても、この高さでは……」
「ここまで追い詰めて、逃げられるのだけは絶対、避けたいのニャ。さっさと登って、捕まえてくるニャ」
「ええ――?」
この有無を言わせぬ強引さ、うちの妹みたいです。
◇
僕は、猫のいる木を眺めました。
三メートルの高さといっても、猫に手が届けばいいのですから、三メートルも登る必要はありません。
身長の分を含めると、実質、登るのは二メートルもないはずです。
幹には足をかけられそうなデコボコがあるし、枝の分岐もあるし、履いている靴はスニーカーだから、登れないことはないと思います。
僕も男だから、木登りくらいはしたことがあります。
けど、それは小学生までの話です。
中学生になって以降は、木登りなんてしたことないから、今も、うまく登れるかなんてわかりません。
二メートルもない高さとはいえ、落下すれば、大怪我をすることも考えられます。
猫の肛門に指を突っ込む程度なら、協力しても大きなリスクはありませんが、木登りは落下して大怪我するリスクもあるし、これこそ、部下である秘書に任せるべき案件では……。
あれ、そういえば……。
「あの、理事長? ここに呼んだ秘書の人って、女性ですよね?」
「そうニャ。女性の秘書ニャ」
あー、やっぱり。
それはマズいですね。
女性の秘書では、木登り自体、できるかわかりません。
しかも、校内で女性の秘書を見かけるときは、いつもタイトスカートを履いていて、靴はパンプスですから、今日も同じ格好のはず。
そんな格好で、木に登れるとは思えないから、秘書がきたとしても、捕まえるのはムリっぽいです。
やっぱり、僕が捕まえるしかないみたいです。
◇
僕は木の前で大きく深呼吸をします。
そして、覚悟を決めると、木に登りはじめました。
もちろん、落ちて怪我したときは、治療費全額そっち持ちで、公欠扱いにしてもらうつもりです。
幸いなことに、登っている間、猫は僕のことをじっと見ているだけで、逃げませんでした。
接近してくる僕を見て、別の枝に飛び移ったりされたら、捕獲するのは困難になっていたところです。
どうにか、猫のいる高さまで登った僕は、足を幹のくぼみにかけて安定させてから、捕まえるため、片手をゆっくり猫のほうに伸ばします。
「シャー!」
うわっ、捕まえようとした途端、猫が牙を見せて、威嚇してきました!
しかも、枝の後ろのほうに後ずさりしようとしてます。
マズい、このままだと逃げられます!
そう判断した僕は、身を乗り出して、逃げ道を塞ぐようにして、両手で一気に猫を捕まえます。
「フギャッ」
やりました!
ついに、捕まえました!
捕まえたときは暴れましたが、僕が抱きかかえてからは観念したのか、猫は暴れることもなく、大人しくなりました。
よし、あとはここから下りるだけです!
そう思ったときです。
捕まえて気が緩んだせいか、不安定な体勢で猫を抱いていたせいか、幹のくぼみにかけていた足がすべって、体のバランスを崩してしまいました。
あっ、やばいっ!
そう思ったときには、もう手遅れでした。
ドン!
僕は木から落下し、腰を地面に強打します。
「がはっ!」
強い衝撃が脳天を突き抜け、目の前が一瞬、真っ白になります。
大きな音と衝撃に驚いた猫が、腕の隙間から脱出しようと暴れますが、しっかり抱いて、逃さないようにします。
ここで、逃げられたら、ここまでの苦労が水の泡です。
正直、こんな状態でも、猫を逃さなかった自分を褒めてやりたいと思います。
でも……。
全身に汗が吹き出ます。
……やってしまった。
腰から落ちてしまいました。
腰は人体の中でも、特に重要な部分です。
最悪の事態が頭をよぎり、恐怖と緊張で呼吸が荒くなります。
と、とりあえず、体が動くか、試さないと……。
僕は猫を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がります。
もし、骨折とかしているのであれば、立ち上がる過程で激しい痛みを感じるはずです。
…………。
……あれ?
……痛くない?
立ち上がってから、念のため、腰をひねったり、屈伸をしたり、足踏みをしましたが、激しい痛みは感じません。
ほっ、よかった。
奇跡的に怪我はなかったみたいです。
「大丈夫かニャ。怪我はないのかニャ」
離れて見ていた理事長が、近寄ってきました。
「だ、大丈夫です。体は正常に動きますし、痛いところもありません」
「そうか、それはよかったニャ。では早速、その猫の電源スイッチを押すのニャ。もちろん、使ってない、別の指でなのニャ」
えーと……。
「じゃあ今度は、反対の手の指を使うことにします」
理事長にそう告げて、僕は右腕で猫を抱いて、左手の人差し指を猫の肛門に近づけます。
指を入れる寸前、僕は一瞬、考えます。
……今度こそ、正真正銘、アバターロボだよね?
もし、これも本物の猫だった、なんてことになったら、僕はもう、ショックでぶっ倒れるかもしれません。
猫の肛門に指を突っ込むのが、これで最後であることを祈りながら、僕は、指を猫の肛門に突っ込みました。
当然のごとく、暴れる猫。
指先にコツンと、なにかが当たります。
今までの猫のときとは、違う感触。
うんっ、今度こそ、間違いない、電源スイッチです!
僕が指先でそれを押すと、今まで、暴れていた猫がくったりとして動かなくなりました。
ミッションコンプリートです。
はあ――――。
やっと、終わりました。
僕は、動かなくなったアバターロボをベンチに置きました。
すると、理事長が話しかけてきました。
「よくやったニャ。お前のおかげで、暴走したアバターロボを無事、回収することができたのニャ。そうだ、少年、名前を聞かせるニャ。名前をまだ聞いてなかったニャ」
「あっ、僕は一年九組の橋本睦月(はしもとむつき)です」
「わかったニャ。覚えておくニャ。今回のことで、お前には借りができたのニャ。ご苦労だったニャ」
「い、いえ。お役に立ててなによりです。じゃあ、僕はこれで失礼します」
理事長に挨拶をして、公園から出ようとしたところで……。
おっと、忘れてました。
別れる前に、これだけは言っておかないと。
「あの、今度から、こんなことのないように、アバターロボには、首輪とかをつけておいたほうがいいと思いますよ」
僕がそう言うと、理事長はうなずきました。
「そうだニャ。暴走するとは思わなかったから、油断していたのニャ。首輪をつけていれば、一目でわかるから、こんなに苦労することはなかったのニャ。早速、そうするニャ」
よかった、これで、今後、僕のような目にあう人は、いなくなるでしょう。
今日は、理事長に振り回されたおかげで、ずいぶんと疲れました。
まあ、これから、自宅に帰っても、また、疲れることが待っているのですが。
◇
僕は自宅に向かって歩きながら、今日の夕食のことを考えていました。
僕には両親と、二歳下の妹・心春(こはる)がいます。
両親は共働きでいつも帰宅が遅いので、我が家では、自分たち、つまり、僕と心春の二人で協力して、夕食を作って食べるルールになっています。
でも、心春は今まで一度も、夕食作りに協力してくれたことはありません。
キッチンに立つのは、いつも僕一人で、心春はリビングでスマホやテレビを見ながら、ソファーに寝っ転がって、夕食ができるのを待ってるだけです。
夕食で使う食材の買い出しすら、したことはありません。
なんていうか、心春は、兄である僕に甘えきってるというか、頼りきってるというか、そんな感じで、ホントになにもしないのです。
唯一、夕食関係ですることといえば、食べたあとの食器を食洗機の中に入れること、くらいでしょうか。
いつもなら、それでもいいのですが(ホントはよくないけど)、今日は、切実な問題を抱えているので、夕食作りに協力してくれるよう、あらためて、心春に頼んでみることにします。
◇
家に着きました。
玄関には、心春の靴があるので、すでに帰宅していることがわかります。
僕が玄関で「ただいまー」と言うと、しばらくして「おかえりー」という、心春の声がリビングから聞こえてきました。
僕は玄関で靴を脱ぐと、そのまま、洗面所へ直行して、指を念入りに洗います。
洗い終わると、二階の自分の部屋で着替えて、リビングへ。
リビングには、部屋着に着替えた心春がソファーに寝っ転がり、スマホをいじっていました。
橋本心春(はしもとこはる)。
公立中学に通う、中学二年生。
髪をツインテールにしているせいか、幼く見えて、いかにも、妹キャラっぽい感じがします。
結構、かわいい顔をしてるので、学校ではモテるんだろうな、とは思いますが、本人からは、好きな男子の話とかは、聞いたことがありません。
心春は僕と同じで、部活に入ってないので、僕と帰宅時間がかぶることがよくあります。
あまりに帰宅時間が早すぎて、友達がいるのか心配になりますが、よくスマホで誰かと話してたりするので、友達はそれなりにいるのではないかと思います。
性格は……、ひとことで言うと、わがままですね。
小さい頃から、僕が心春のためになんでもしてあげたので、そのせいかもしれません。
さて、妹の紹介はこれくらいにして。
僕は心春に言いました。
「なあ、今日の夕食作るの、たまには心春も手伝ってくれない?」
心春は僕のほうを見ることなく、間髪入れずに返事をします。
「手伝わないー」
想像していた通りの言葉が、返ってきました。
まあ、どうせ、頼んでも手伝ってくれないだろうな、と思ってたので、驚きはしませんが。
でも、なんでしょうか、この「私は食べるのが専門で、作るのは専門外」と言わんばかりのふてぶてしい態度は。
もし、僕が部活とかに入って、帰りが遅くなるようになったら、一体、どうするつもりなんでしょうか。
僕が帰るまで、腹ペコの状態で待ってるんでしょうか。
いや、そんなことは、絶対にできないはずです。
夕方の六時前でも「お腹へったー」を連呼してくるくらいですから。
「あのさー」
心春はスマホをいじりながら、僕に話しかけてきました。
まだ、なにか言いたいことがあるみたいです。
「お兄ちゃんは、夕食作るのに慣れて、手際もいいじゃん。でも心春はさ、夕食作ったことないから、手際が悪いんだよ。そんな心春が、お兄ちゃんの手伝いをしたら、お兄ちゃんの足手まといになるのが、目に見えてるよ。ホントは心春も手伝いたいんだよ。でも、手伝うと、お兄ちゃんの邪魔をしちゃうから、我慢してるんだよ。心春だって、お兄ちゃんばかりに夕食を作らせて、ホントは心苦しいんだよ」
ウソばっか!
言い訳もひどいです!
あーあ、どうして、こんな言い訳をする妹に育っちゃったんだろう。
育児に悩む親の気持ちが少しだけ、わかったような気がします。
これは、兄である僕のせいでしょうか。
甘やかし過ぎたから?
責任感じるなあ。
僕はガクッと肩を落とします。
……さて、どうしよう。
猫の肛門に指を突っ込んだので、夕食を作りたくないと言えば、他人事ではないので、手伝ってくれるのかもしれませんが、それを言うと、当然、理由を聞かれてしまいます。
心春のことですから、理由を聞いたら、僕をバカにして、笑い転げるに決まってます。
……やっぱり、ダメですね。
そんなことになったら、ただでさえ、ないに等しい兄の威厳が、さらに失われてしまいます。
僕は、心春を説得することを諦めて、キッチンに立ちます。
心春が手伝ってくれないから、僕は今日、この手で夕食を作ることになるんだからな。
指は念入りに洗って、きれいにしたけど、もし、食事後に体に変調が出ても、許してくれよな。
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