波打ち際の僕と崖っぷちの首

送水こうた

第1話 坂道


 バイトが終わり、さあ帰ろうと駅前に停めてある自転車へと向かうと、カゴの中に生首が入っていた。

 長い髪で青白い肌の恨みに血走らせた目をギョロギョロ剥いている若い女ではなくて、短いくせっ毛をぴょんぴょん跳ねさせて血色のよい頬を持ち眠たそうに目を伏せている僕と同じくらい……二十代半ばくらいの男性の生首だ。

 きっとカラスのイタズラか、この生首を持て余した誰かが良い投棄場所が見つからなくて手近にあった僕の自転車のカゴに捨てていったに違いない。なんて迷惑な。

「えーっと……」

 わざとらしく咳払いをして、困ったようにカゴの中見下ろして腕組みをしていると、僕の視線に気がついた生首がチラリとこちらを見上げてきた。

 それから「ふわぁーあ」とあくびをしてぼんやりあさっての方角を眺めた。

 おい無視すんなよ。こっちは迷惑してるんだって。早くどっか行ってくんないかなあ。あ、でも生首だから動けないのか。

 そうこうしている間に電車が来たらしい。何人か駅舎から出てきては思い思いの方へ去ってゆく。高めのヒールを履いたお姉さんが隣に停めてあった自転車を解錠した。ペダルに片足を乗せ、ケンケンと地面を蹴って颯爽とサドルに跨る姿がなんだか眩しかった。誰も僕と自転車カゴの中の生首には見向きもしない。

「ちょっともお……」

 勘弁してよ、なのかいい加減にしてよ、なのか誰に対して何を言いたいかも定まらないまま、僕はチェーン錠を外して生首をカゴに入れたまま自転車に乗った。サドルを跨いでよたよたと両足で交互に地面を蹴り、ペダルを漕ぎ始める。段差に引っかかり、ガタン、と車体が跳ねてついでに生首がポンッと弾んだ。

「うわぁ、ビックリしたあー」

 カゴの中の生首は半開きだった目をぱっちり開けて叫んだ。

 僕は無言でくるくるの髪の毛を掴んで生首をカゴの真ん中に据えると、再びペダルに足をかけた。

 Z駅前のまばらに店が並ぶ細い道を抜けて踏切を渡る。Z町は海沿いに走る線路の周りに出来た小さな町だ。夏場は海水浴客でほどほどに賑わうけれど、それ以外は鄙びた雰囲気が漂っている。

 険しい地形が続く海岸線沿いを拓いて作った線路沿いから、国道に出るまでは緩いカーブと急勾配の坂道だ。僕はサドルから立ち上がり、全体重をかけてペダルを漕ぐ。ギッチギッチとタイヤやフレームを軋ませながら、えっちらおっちら坂を登るたび車体が左右に揺れて、カゴの中の生首もころんころんと転がった。

「あああ、目が回るう」

 生首があまり切迫した様子もない悲鳴を上げた。多分、普通に喋れば甘くて柔らかい声なのだろう。体がくっついていればモテる方のかもしれない。

 そんな生首を無視して、無心で自転車を漕いだ。腿に乳酸が溜まって、息が切れる。肺が破裂しそうになる。がむしゃらに苦しさを味わっていると、ようやく僕が今、ここにいるという実感が湧き上がってくる。僕につながっている血管と、酸素を取り込む呼吸器とそれに応える筋肉。握ったハンドルを滑る汗と踏みしめるペダルとチェーンの重さ。

 これらが僕の世界の全てで、その外側は僕の預かり知らない領域だ。例えば自転車のカゴの中で、見ず知らずの男の生首が、おむすびみたいに転がっていようとも。

(僕には、カンケイ、ない——)

 なんとか坂を登りきると、国道には出ないで右に曲がる。小さな区画がいくつも集まっている住宅街を進んでゆく。崖の上に広がる住宅街の奥まったの一角に、誰も住まなくなった空き家がある。こっそり目立たないように自転車を停め、生首を抱えて敷地に入った。

 庭を抜けて空き家の裏手に回ると、崖下を通る線路と海が一望できた。ちょうど夕日が傾いて、海全体がキラキラと輝いている。

「うわぁー眩しいなぁ」

 景色をよく眺められるように生首を掲げてやると、彼は目を細めて鼻の下にシワを寄せた。すごく不細工な顔だ。手がないから、日差しが遮ることができないらしい。

「もっとこう……キレイだなあとか、こんな絶景初めて見た、とか言えないの」

「いや、別に夕陽が見たい訳じゃないから。むしろいきなり目潰しされたみたいでメイワク」

 生首は目をしょぼしょぼさせながら答えた。本当にこの景色は嬉しくないみたいだ。

「僕だっていきなりカゴの中に入られて迷惑だよ」

 僕は腕を振りかぶって生首を放り投げた。

「あー…………」

 生首の声が尾を引くように遠ざかる。やがてガサガサッと崖下の木々に突っ込んでいくような音がした。

 生首が線路まで落ちたのか、木の枝に引っかかって止まったかは分からない。

 僕は太陽が水平線まで沈むのを見届けてから、自転車に乗って帰った。




 

 

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