エピローグ

 あの騒がしくも楽しすぎた夏の日々から、実に15年以上の歳月が過ぎた。


 僕は取引先から戻って来たその足で、マンションに立ち寄った。妻が高校時代に住んでいたマンションの斜向かいに出来た新しいマンションだ。元住んでたところは古くなったからね。まだあるけど。


 マンションの裏手、駐輪場へ。番号を確認して、妻の自転車に辿り着く。そういや高校の時、囚人番号とか言って呆れられた記憶が朧気にある。少し頬が緩むけど、他の住人に見られたら変な人だと思われそうだから、すぐに引き締めた。


「あー、やっぱり」


 今朝、出るときに気になってたんだけど、やはり見間違いじゃなかった。後部のチャイルドシートの一部がパキッと割れてる。次女の佳乃よしのはヤンチャに育ってしまって(絶対に妻似だ)、イヤイヤ期が割とヒドイ。これも恐らく、しがみついてギコギコして割ってしまったんだろう。


 僕は車のトランクから工具箱を持って来て、シートを取り外した。そうしてそれを持って、エレベーターに乗り込む。707号室に着くと、鍵を開けて中に入る。この部屋番も妻の希望だったっけ、そういや。まあ僕も懐かしくて二つ返事だったけど。


 工業用のボンドで割れを修復。まあ今回はこれで良いけど、更に蹴っ飛ばしたりして割るようだと、工場こうばに持って行って溶接とかしなきゃかな。いや、その前にガツンと言わないとな。ガツンと……可愛いんだよな。泣くかもとか思うと、どうしても言えないんだよなあ。妻にはここら辺でいっつも小言を言われる。「アタシばっか悪者じゃん! アンタからもたまには言いなさい!」って。


 修復を終え、再び1階へ。駐輪場へ行こうとした所で、エントランスから入ってきた妻とバッタリ出くわした。流石に30超えて銀髪はキツイということで、黒にエメラルドグリーンのラインが入った髪色になったけど、美貌は未だ健在だ。


「あれ? パ、康生」


 二人きりの時はお互い名前で呼ぶようにしてる。いつまでも高校の頃のトキメキを忘れない為だとは言うけど、少し気恥ずかしくもある。


「星架。いま帰り?」


「うん。雛乃はまだ食べてるだろうけど。千佳もその付き添い。アタシは付き合いきれんから帰って来た」


 相変わらず雛乃ちゃんは食いしん坊で、千佳さんは面倒見が良い。


「子供たちも心配だったしね」


 と言う割には、星架の周りにチビたちの姿が見えない。僕の視線に気付いたのか、彼女は軽く笑った。


「お義母さんが今日は1日預かってくれるって。あいつらも喜んでた。ったく、親から離れて喜ぶとは不孝娘どもめ」


 なるほど。迎えに行ったけど、母さんが延長で預かってくれることになったのか。ありがたい。


 ちなみに僕は高校を出た後、星架と同じ大学へ通い、卒業後に結婚した。それと同時に家業も継ぎ(父さんもまだ普通に現役だけど)、二世帯住宅ではなく、近くのマンションを購入。そこから工場こうばに通ってる。


「康生は……ああ、それ直してくれてたんだ?」


「うん。佳乃だろう? 困った子だよ」


 僕は言いながら、彼女とすれ違い、駐輪場へ。と思ったら、妻もついてくる。女子会で疲れてるだろうし、部屋で休んでて良いと言ったんだけど、


「ん~。今朝ぶりだからさ」


 そんな返事が返って来て、しな垂れかかるように寄り添って歩いてくる。寂しん坊め。子供を幼稚園にやったら、ウチの事務所で働いてくれてるから、ほとんど毎日24時間一緒に居るだろうに。今日みたいに僕が外回りしたり、彼女が千佳さんたちと遊んだりとかが無ければ。


「……新しいの買い替えようかとも思うんだけどさ」


「うーん。佳乃もあと少しでしょ。そこからは三輪車になるだろうし」


「……3人目」


「え!? 作る気?」


「どうかな~って」


 しなを作って、僕の腕をそっと指先でなぞる。ここの筋肉、大好きだよね星架。


「うーん」


 数年前に流行した世界的なパンデミックの際、ウチで作っていたプラスティック製のパーテーションが売れに売れて、そのおかげで沓澤家はかなり余裕のある状態だけど。3人目かあ。


「ママが高齢出産はキツイから、今くらいが最終ラインだぞって脅すんだよ」


 麗華さん。自分が誠秀さんとの第二子を年齢で諦めた経緯から、結構そういうこと言うようになったんだよね。何だかんだアレから二人も上手くいってるようだから、深刻な感じではないけど。


「僕らも今年で32、だもんな」


「ね。あっという間だったよね」


 喧嘩もした。不理解もあった。でもお互いだけを愛し続けてここまで来た。気付けば人生の半分以上を彼女と歩んでる計算になる。


「ねえ」


「ん?」


「溝口号、覚えてる?」


「ああ、あったね」


 今もベルのアレンジ作品は星架の自室の棚に飾ってある。彼女はもう沓澤星架(くつざわせいか)だから、溝口号のナンバリングが増えることはない。つまりあれは一品モノ。


「今さ、そうやってアタシの自転車直してくれてるの見てて、不意に思い出した」


「ん?」


「あん時さ、と話してみたくて背中追っかけて走ってたんだよね」


「え!? 再会した時?」


 初耳なんだけど。


「マジで気付いてなかったんか。反対側じゃん。アタシが住んでたマンション」


 言いながら斜向かいのマンションを指す。ああ、そう言われてみれば。あの時、渡って来て歩道に乗り上げようとして、それでやらかしたんだったよね。そっか。そんな最初から、僕のこと……


「星架」


「なに? 惚れ直した?」


 僕は頷きながら笑う。


「3人目、作ろうか」


 一瞬虚を突かれて、そしてすぐ「にひひ」と笑って頷き返す星架。そのエメラルドグリーンの髪をさらうように、5月の薫風が駆け抜けていく。夏を待ちわびる新緑の香りに、少し混じる彼女のフレグランス。


 再び巡り会えたあの日と同じ茜空の下。


 懐かしい思い出に頬を緩めながら、妻の自転車を直すのだった。






 <了>

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