208:陰キャの縁の地を訪れていた

 <星架サイド>



 パパの説得の方が難しいかなと思ってたら、そっちが案外すんなりいった代わりに、ママの方がまさかあんなに手こずるとは。てか部屋のカレンダーに赤丸までつけといて、「別に私は」は通用せんだろうに、なんであんなに天邪鬼なのか。予定外の体力を使わせてくれちゃって。本当に困ったママだよ。


 精も魂も尽き果てたってヤツか。

 ベッドに倒れ込むと、すぐ意識が遠のき、ピクンと足が動く感覚。なんだっけ、ジャーキーなんちゃら……とか落ちかける途中で考えたような気もするけど、そのままロクに抵抗も出来ず、夢の世界へ旅立った。


 物音に目が覚めると、カーテンの隙間から部屋に陽光が差していた。枕元のスマホを確認すると時刻は午前6時過ぎ。そしてホーム画面にはレインの通知も出ていた。昨晩のうちに康生・千佳・雛乃から各々、送迎のお礼を改めてパパに言っておいてという主旨のメッセを受け取っていたみたいだ。


 目をシパシパと瞬く。脳裏に何故か青や紫が残っているような気がした。なんか夢を見てた気がするんだけど……青と紫、ねえ。


「っと、折角起きたんだから、ママの見送りしよ」


 アタシは像を結べない夢の残滓を、かぶりを振って追い払い、伸びをしながら立ち上がった。腱がグーッと引っ張られる。うわ、シャツが体に張りついてる。汗だくだ。エアコンつけずに寝てたのか。

 リビングに入ると、ママがキッチンで水筒にお茶を入れているところだった。


「おはよう」


 挨拶するとアタシの顔と時計を交互に見た。そして少しぶっきらぼうに「おはよう」と返してくる。娘相手にあれだけボロボロ泣いてしまったのが、やっぱり一晩経つと、きまりが悪いみたいだ。


「起こした?」


「ううん。昨日早く寝たからだと思う」


 ついでに言うとグッスリ、朝まで一度も目が覚めなかった。疲れは残ってなさそう。


「……たまには一緒に食べようかな」


 キッチンに入り、ママの隣に立って、アタシも自分の分のトーストを用意する。

 トースターくんに、いつもの2倍仕事をしてもらって、2人仲良くモーニング。朝のニュース番組をぼんやり眺めている時だった。


「あ、鎌呉かまくれ


 キャスターが大仏のあるお寺の前から、天気予報を伝えている。ローカルチャンネルならでは、やね。

 そう言えば、康生の母方の祖父母が鎌呉だっけか。


紫陽花あじさい


「ん?」


 急にママが謎の単語を呟いた。あ、鎌呉だからってこと? と思ったら。


「前、聞いてきたでしょ? 好きな花のこと」


 ママはテレビから目を離さず、片手間のように言った。


「あ、うん。覚えててくれたんだ」


 あれは確か……ママが倒れちゃった日の前の晩だったか。指輪の案のために聞いたけど、メッチャ疲れてたらしく、塩だったんだよね。


「私の好きな花、紫陽花」


「そう……なんだ。ありがと」


 じゃあ紫陽花のドライフラワーとかあるか調べないとな、と自分の世界に入りかけたところで、視線に気付く。いつの間にか、ママがテレビからアタシへと向き直っていた。


「え? なに?」


 少したじろぐ。


「まあ、アンタ小さかったから覚えてないか」


 ん? どゆこと?


「誠秀さんと3人で鎌呉に遊びに行ったことあるの」


「え? そうなの? 覚えてない」


 小さいってどれくらいの時だろう。まだ病気が発覚する前ってことかな。それもう赤ちゃんレベルでは。


「……紫陽花がキレイだった。ちょうど梅雨の時期でね。アンタ、カタツムリに手を伸ばして」


「ちょ、やめよう。人が覚えてない頃の話とか」


 もしかして、ちょっとした仕返しを受けてるんじゃないか、これ。昨夜、言い過ぎたかな。アタシの恥部を知り尽くしてる母親と全面戦争になったら勝ち目なんか無いんだが。

 そんな風にアタシが顔を青くしてると、ママがクスクスと笑った。


「けど……あれからもう十何年も経ったのねえ。そりゃ私も歳とるワケだ」


 いつの間にか、笑みは郷愁の色を濃くしていた。目まで瞑ってる。或いは、その頃の、3人揃った幸せな日々を目蓋の裏に浮かべてるんだろうか。


「……」


 もうすぐ、きっと。取り戻せるよ。そう声を掛けようとしたところで、テレビから明るい声が聞こえた。ニュース番組が、視聴者から募ったペット映像紹介コーナーに移ったみたいだ。


「って! いけない! 急がないと!」


 あ。いつもなら、ドレッサーの前にいなきゃいけないくらいの時間か。


「洗い物とか、アタシやっとくから」


「そう? お願いね!」


 牛乳で流し込むようにトーストの残りを平らげ、ママはリビングを小走りで出ていく。


 少しの収穫を残し、そんな慌ただしい朝が過ぎていった。

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