平成ブラック梅ノ木化学(大阪編)
真留女
#1 和子転職す
平井和子は、さっきからずっと頭の中の天秤ばかりに、あんな事やらこんな事を乗せては下ろしている。私は本当に正しい選択をしようとしているのだろうか…
現職の大型法律事務所。弁護士、公認会計士、税理士、司法書士… 士分の殿様が12名。これをパートナーと呼び、それぞれを目指す側近というか書生のような若者5名と、全員女子のアソシエイト10名とで構成されている。所長の方針で刑事事件には極力拘らず、会社顧問や富裕層の相続対策等、収入の見込める分野が主な仕事。だから金はある。給料もいい。抜群にいい。
現職皿に分銅2個。
その分、要求される仕事量は半端ではない。与えられる権限も大きいが当然責任も重い。経理担当の和子で言えば、同職の芳江と二人だけで同じ住所に登記されている三つの事務所と株式会社一つの経理を担当する。決算は三カ月毎にやってきて、決算後三カ月間で資料を整えて申告したら、次の決算が待っている。一年中どこかの決算を抱えているという事になる。
さらに四十支店の預金通帳の管理。それぞれに数百万円が入っているから、置きっぱなしはできない。
なぜ? 銀行支店から、それぞれが抱えるセレブ顧客の紹介を受ける為だ。民事裁判、相続対策、節税対策… 庶民には思いもよらない事情の解決に、それぞれの士分が有機的に結びついて対応する。
報酬は、一顧客からそれぞれの“○○士事務所”に別々に入り、ぐるぐる回って経費を落とし、結局、所長の元へと流れ込む。
すでに大金持ちの所長は金銭にシビアで、パートさんの洗い物を手伝ったりしていると「その時間は時給単価に見合う仕事をしていない。洗い物している時間はパート時給でいいのか」と叱られるから、来客が多くて大変そうでも手伝えない。
さらに百を越える顧問先への顧問料請求書の発送、入金確認、領収書発行…… 仕事量はとても8時間でさばけるものではない。
残業代は加算されるが、所長から「イレギュラーなしの通常業務が時間内に終わらないのは、能力の問題ではないか? 僕は君の無能に残業代を支払うのか?」と言われちまってからは途中でタイムカードを押して電灯を一部だけ点け、電話も出ないというサービス残業を越えたシークレット残業を余儀なくされている。
ほぼ毎日、中学生の上子が、和子が朝用意しておいた夕食を小学生の下子に食べさせ、風呂に入れ寝かせている… 和子が帰宅する頃、上子は宿題をしていて、下子は眠っている。翌朝は朝食、弁当、夕食の準備に追われ、子供たちとまともに話もできない日が何日も続く…
つらい… 切ない… そう、和子はシングルマザーである。
現職皿から分銅を一個除去。
そんな毎日が続く頃、疲れ切った和子は帰路、乗り継ぎターミナル駅の見知らぬ改札口に出てしまった。
小さなその改札の横にはガラス張りのイベントブースがあり、ハローワークが市内限定、女性限定の就職フェアを開いていた。
引き寄せられるように中に入り、経理事務のバインダーの住んでいる区のタグを開くと一頁目に和子の住所が書かれている。
驚いて、よく見直すと番地だけが違う会社が登録されていた。
それが梅ノ木化学。駅とは反対側にあったから全く知らなかったが、家から歩いて5、6分だろう。下子の小学校にも近い。何かあっても会社からすぐ小学校に行く事ができそうだ。
転職皿に分銅を二つ。
しかし提示された給料は安い。これで正社員とはにわかに信じがたい程だ。
転職皿から分銅を一個除去。
それでも高収入を得るために捧げていた時間は取り戻せそう。当然、義務も責任もずっと軽くなるだろう。
時間か収入か… やりがいか自由か… プライドか子供か…
ひとつため息をついて、和子は電話を取り上げた。応募要項の年齢制限より一つ多い、と告げると電話の相手は「ええっ」と不快な声をもらしたが、とりあえず面接の約束は取り付けた。
和子のマンションのある地域は元々準工業地域である。大阪駅にほど近いこの一角には古くから中小の工場がひしめくように並んでいたのだが。新大阪駅が近くにできた頃から、市は中々の一等地になった地域から中小工場の締め出しにかかり、条例で、工場の修繕以上の改築、建替え、新築が認められなくなった。時はバブル。売上げも上がり、移転費用を銀行がいくらでも貸してくれるご時世。多くの工場が移転し、その広い跡地にマンションが次々と建てられ、住民層も、あたりの景観も変わりつつあった。
梅ノ木化学もそんな町工場の一つであったが、四代目になる前社長の英断で、代々製造販売してきた懐炉を名前こそ同じだが全く別物の使い捨てカイロ製造に切り替えたのが当たり、伝統的知名度にも助けられて一気に西日本シェア一位の会社に成長していた。
前社長の経営はあくまで慎重で、兵庫県の大型工場に生産の拠点を移し、大阪の初代工場はごく一部を残して壊し、五階建ての新社屋に建てるにあたっても銀行からは付き合い程度の借入しかしなかった。その事を知った和子は手堅い会社であると安堵した。
まあ他に驚く事は山ほどあったのだが…
その真新しい社屋4階での和子の面接は、なにやら終始ぎくしゃくしたものだった。
面接に現れた総務部長の挨拶代わりの「カイロは使われますか?」の問いかけに、嘘のつけない和子が「使った事はありません」と言ってしまったせい?
いやいや、奇しくも前月、前社長が次男に社長を譲って会長となったのを機に、会長と二人三脚で数十年、現社長を「坊やちゃん」と呼んでいた定年無視の居座り最古参の経理女子が退職して、今度こそ若くて素直な女子事務員を、と渇望していた部長のごく個人的都合のせいだったとしておこう。
そのなんともぬるんとした、
ほぞをかんだのは泥鰌も同じで「こんな応募者が来ましたが新規採用にはちょっと年を食ってますから… 社長面接には進めず、私の方で断っときましょう 」と、新社長に履歴書を見せたら「おっ、こいつ女房の学校の後輩やないか。わしは会わんでええから、雇っといたれや。これも何かの縁や」の鶴の一声で決まってしまったのだ、という愚痴を、その後、和子は何度も聞かされる事になる。
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