57.ひとりじゃない

 弾けて世界を満たした黒は、静かに収束する。


 変化といえば、目覚ましい変化はあった。




「なっ……何が、どうなって……」


 結界が、消失していた。


 そして鏡像たちも、その姿を全て消していた。

 結界に齧り付いてに喰らい付かんとする姿も、結界まで辿り着けずに後方で自分の順を虎視眈々と狙っている姿も全てが全て消え去り跡形もない。


 だが、それだけだ。


 浮遊石は変わらず蒼い光を放ち続け、鏡はその光を跳ね返しながら鎮座する。

 シリスの腕の中には震えるアーリィが居て、後ろにはクロスタが魔導銃を構えたまま。さらに後方ではディクシアがレッセの治療を行い───どうやら、無事に急を脱したようだ。呻き声を上げながら、レッセがゆっくりと身を起こした。

 黒い玉を掲げたままの姿勢で、ディランが狼狽える。


「どうして……!?これを使えば、別の世界に行けるって……」

「別の、世界に?」


 困惑したままのディランから返事はない。初めて聞く情報にシリスはディクシアを振り返る、が、彼もそんな話は初耳なのか戸惑っていた。


「……不安定なポータルを使うならまだしも、守護者の血も借りずに世界を渡ることなんて不可能だ。ましてや、そんな魔道具が出来たら僕たちが看過するわけないだろう」

「往来が激しくなって混乱も出るだろうしね」


 ディクシアの言葉をシリスが引き継ぐと、ディランは一歩後退る。少し考えれば思い至るような事のはずなのに、信じたくないといった様子で首を横に振っていた。


「そ、そんなはず……だって、じゃあ、あのヒトはなんでボクにこれを───ひっ」


 止まった世界にもたらされたのは、甲高いは破裂音だった。

 ディランに掲げられたままだった黒い玉が弾ける。誰も何もしていない。ただ、役目を終えたと言わんばかりに唐突に割れて砕けたそれは、細かな破片となってパラパラと地面へ落ちる。


 手遅れだと目に見えてわかるのに、それでも追い縋ろうと翼を伸ばすディラン。


「よくもやってくれたわねクソ鳥が!!」

「ぅ!ぐ……」


 しかし、復帰したレッセが早々に彼に詰め寄り、胸ぐらを勢いよく掴み上げた。


「2度も同じ手を使えると思ってんじゃないわよ。守護者わたしに手を出したこと後悔させてやる」


 まだ顔色は青いが、胸ぐらを掴む手はこれ以上ないほど力強い。反対にギリギリと音を立てて閉まる襟元に、ディランの顔色が徐々に赤黒いものへと染まっていく。詠唱など、出来る状態ではなかった。


 ディランの視線が彷徨い、1番近くにいたシリスに助けを求める。だが、シリスはアーリィを抱え直してその視線から顔を背けた。


 助ける義理はなかった。

 レッセがあまりに理性を無くして彼の命を奪おうとするのであれば別だが、それなら初めからダガーで突き刺すなどしていただろう。彼女も分かっているからこそ、落とす程度に留めようとしているのだと思いたい。

 彼にはまだ聞かなければいけないことがあった。あの黒い玉の入手先も、たったいま口走った"あのヒト"のことも。


「か……ぁ……」


 徐々に力を失うディランの呻き声。





「……え?」


 シリスの背を、ぞわりとした感覚が這い上っていった。まるでディランが掲げたモノを目にしたときのような、理由のわからない不快感に似た感覚。

 バッ、と顔を上げれば怒気を滲ませながらディランを締め続けるレッセと、意識朦朧といった様子のディラン。その背後に、変わらず光を反射する鏡の存在。


「───クロ。ディク」


 無意識に、友人らの名を呼んだ。


「気を付けて」








 刹那。

 鏡面が波打ち、飛び出した黒い奔流が瞬く間に放射状に広がり、うねりを伴ってとぐろを巻いた。それは誰もが反応するより早く、ディランの脚を絡め取る。


「何よコレ!?」


 思わず手を離したレッセに、力を失ったディランの身体が地へ臥す。突然の事にすぐさま後退しようと彼女が身を引いた時だった。


「───っ、て」


 まさに今、意識を失う寸前だったディランが抱えるようにレッセの片足にしがみついた。彼女はバランスを崩し、後ろへ倒れ込む。


「ま……て、助け……」

「ち、ちょっと離しなさいよ!!」


 彼の脚に絡みついた黒が、するりするりと先を伸ばし徐々に身体を侵食し始める。触手にも、植物の蔦にも似たそれが蠢く様は生理的な気持ちの悪さを感じさせた。


 ず……、と、2人の体が鏡の方に向かって引き摺られた。


「はっ……離せ離せ!離せって言ってんでしょこのクソが!!」


 本来の彼女なら、すぐにでも逃げ出すか武器を持って立ち向かったのかもしれない。しかし、足をしっかりと掴まれた現状では立ち上がることもままならなかった。

 露骨に焦り、もう片方の足でディランを蹴り飛ばそうとレッセが踠く。しかしどこにそんな力が残っているのか、ディランは彼女にしがみついたまま離そうとしない。

 ついにはダガーをディランの翼に突き立てる。───それでも、彼はレッセを離さなかった。


 もたげられた彼の顔には、涙。


「ひとりは、いやだ」






 それが最期の言葉だった。





 一瞬でレッセとディランの姿が黒の中央に引き摺り込まれる。


 赤。


 それは、口だ。



 無慈悲にも、それを誰もが認識する頃には2人の姿は閉じる赤に見えなくなり───。


「う……嘘!嘘嘘嘘嘘う






 ───ぎぁ」


 潰れた断末魔が隙間から漏れ聞こえた。






 その間、わずか数秒。


「……最悪」


 その台詞をついぞ最近も言った気がする。

 リンデンベルグの大通りが炎に包まれた夜、確かに最悪だと思ったのだ。今は、まさにその時同等に"最"悪だ。


 あまりに唐突に、一瞬で過ぎていった出来事に動くことも出来なかった。目の前であっさりと2つの命が失われ、その原因がまさに今姿を現そうとしていた。




 壁のように大きく鎮座する鏡。

 放射状に広がる黒から滲み出るように、黒い体躯が生まれ出る。濡羽のような艶やかさなどなく、ただひたすらに黒く、光を吸収するほど昏い羽毛に覆われた頭がぶるり、と震えた。

 頭部の至る箇所にでたらめについた瞳が、遥か高みからシリスたちを睥睨する。


 唯一光沢を持つ嘴が僅かに開閉を繰り返し、その度にくちり、くちりと湿った音が響いた。咀嚼だ。丸呑みにするわけでもなく、いましがた喰んだ"餌"を見せつけるように味わっている。


 咀嚼。

 嚥下。


 巨大な体躯から溢れたごくり、という音は存外に大きい。

 そして再び、そのくちが大きく開いた。





 あは。


 あハはははハハはは───!!




 耳の奥をかき混ぜるような狂った哄笑。

 笑みの形を模した全ての瞳が、まだその場に"餌"が居ることへの悦びを浮かべていた。

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