41.特定因子欠損症-ゲノムデフィエンシー-
「今からその修理工の方のところへ行かれるのですか?」
「すぐにでも。時間は有限ですから!」
「そうですね、ではディラン。貴方にもちゃんとお任せしましたよ」
「承知いたしました」
頷くアーリィとディラン。
鏡の受け渡しは終わり、次は祭司長の言うように
明日の帰還の時間や、それまでの行動。今日だって頼まれごとを終えた後のことについてはまだ何も決まっていない。彼が小言を矢のように降らせようと、目的の場所に向かう前にもう一度話さねばならない。
シリスはほんの少しだけ首をもたげる憂鬱から目を逸らして、部屋を出ていくアーリィたちの後を───
「シリスさん、でしたか」
───追おうとした彼女の背に、静かな声がかけられた。
まさか呼び止められるとは思っておらず困惑気味に振り向けば、そこには変わらず
穏やかだが、どこか……。
「……?」
そう。どこか懐かしいような感覚。
祭司長に見覚えがあるわけではない。会ったことすら今日が初めてだが、その視線には覚えがある気がした。心の奥がざわつくような、言葉にするのは難しい感覚。そんな視線を向けられたことなんて今までにあっただろうか?
言語化できない以上、それがどんな時に、どんな気持ちを持って向けられるものなのかすらもわからない。
「少しだけ残っていただいても?」
「え……」
呼び止められる心当たりなんて、ない。
思わず返事も出来ずにいたシリスを見た祭司長は、先ほどアーリィに向けたような安心させる声音で話し出す。
「お時間は取らせませんので、よろしいですか?」
「いや、その、何か───」
「何かあったか?」
返事に澱むシリスの言葉を遮るように、クロスタが割って入る。長く足止めを喰らっているわけではなかったが、中々ついてこない彼女を気に掛けたのかもしれない。
「いいえ。少しだけお話があっただけです」
祭司長の視線が逸れると、妙な感覚も一瞬で霧散した。人知れず安堵のため息を漏らしたシリスは、自身の横に並ぶようにして立ったクロスタを見上げると表情を崩して笑った。
「あたしに何か用があるんだってさ」
「───また何かしたのか」
「違うし!?まだ何も言われるようなことしてないの見てるっしょ!?冤罪!」
「それは宣言か?」
「うぐぅ……」
否定ができないのが痛いところだ。
ぐぅ、とシリスが喉の奥を鳴らすとくつくつと控えめな笑いが部屋に響いた。祭司長だ。
「失礼いたしました。微笑ましかったものですから、つい」
その言葉に、シリスは羞恥でほんのり頬を朱に染める。恨めしげな顔でクロスタを見上げれば、彼はしれっとした顔で見下ろしてくるだけだった。
シリスは恥ずかしさを誤魔化すためにひとつ咳払いを溢すと、気を取り直して祭司長へと向き直った。
「すみませんでした。話ってなんでした?」
「ああそうでした。少々、触りますよ」
祭司長はそこで一旦言葉を区切ると、シリスに歩み寄り彼女の左頬に手を当てた。───先ほど殴らせた場所だ。いまだに歯の奥が僅かに痛むので、少しばかり腫れているのだろう。鏡なんかで確認すれば赤かったりするのかもしれない。
「こちらの世界の者が大変失礼致しました。いくら激昂したといえ、殴りかかるなど」
「本当に気にしないでください。ああした方が頭冷えるのも一瞬かなって思ったから、わざと───」
「わざと?」
……思わず身震いしてしまうような低い声が聞こえて、シリスは慌てて口を
「お前は───」
「でもほら、あたしたちって有翼種のヒトたちよりも丈夫じゃないですか」
口を開きかけたクロスタをまた遮った。
シリスは知っている。寡黙な彼は言いたいことを遮られると二の句がなかなか継げないのだと。心苦しい気もするが、今だけはその性格を利用させてもらおうと彼女は心に決めた。
「アリィだったら歯の1本2本折れてたかもしれないし、それってあんまりじゃないですか」
「しかし、その結果として貴方が傷を負うことが正しいとは思いません。この場の責任を負う者として、せめて治療させていただけませんか?これでも私は治癒術を少々齧っております。お時間はかけないつもりですので」
シリスは扉を伺った。廊下の方からアーリィがディランと話している声が聞こえる。何やら、ディクシアとレッセの声も混ざっている。幸い、揉めているような雰囲気ではなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……?」
腫れてるかもしれない顔でそこら中を歩くのも、よく考えれば外聞が悪い。
シリスが頷いて身を任せると、頬に添えられた祭司長の手から体温以上のじんわりした暖かさが広がる。
リンデンベルグで治療を受けた時と同じ感覚だった。その時は、明らかに痛みが
黙って術をかけていた祭司長が、ふと片眉を上げて怪訝な顔をした。
「
「わず……?いや、別に病気なんて」
そこまで言いかけて、すぐに合点がいったシリスは頷く。
「血液の病気ならありますよ。遺伝性の疾患って聞いてます」
「遺伝性の血液疾患、ですか?」
「あんまり専門的なことは理解できなくって、詳しい説明できないんですけど……たまに貧血みたいな感じで調子が悪くなるんです。でも薬飲んでたら殆ど無症状で」
普段なにも困ることがなかったので意識もしていなかったが、思い返せばそれも病気といえば病気だ。
───
生まれつき血液中の何らかの因子が欠乏していることにより、身体に不調をきたすこともある遺伝子疾患だと聞いている。その発現率はごく稀で、症例も少ないことから未だにわからない点も多いらしい。
「遺伝性っても、知ってる中であたしと弟くらいしか発症してなくて。ねぇ、クロ?」
「あの薬のやつか」
「そうそう。1回飲むの忘れてグロッキーになってたやつ」
いつぞや内服を忘れて倒れたことがある。休日で自宅にいたから良かったものの、遠い日の記憶の話だ。
そういうところは抜けているシリスとは逆に妙にしっかりしているヴェルのお陰で、1ヶ月に1回の低頻度ながらそれ以降飲み忘れが起こったことはない。
「そうですか……」
「どうして急にそんな事を?治癒術でそんなのがわかったりするんですか?」
今まで数度だけ術を受けた事はあるが、
首を傾げるシリスの頬から手を離し、祭司長がゆっくり首を横に振った。───もう、頬は微かに痛むことすらない。
「
祭司長は言葉を切ると、その灰がかった視線を廊下へ向けた。扉の向こうでの話は続いているようだったが、時折ちらちらとディクシアが部屋の中を覗いている。
「お待ちのようですね。少々と言いながら、お時間をいただいてしまいました」
「大丈夫です!治療、ありがとうございます」
シリスはにこやかな笑顔を浮かべて一礼した。治療術は高価なものであり、殴られただけでそれが受けられるというのは考えようによってはお得なのかもしれない。クロスタがいる手前、彼女もそんなことを口に出したりはしないが。
無言でクロスタも一礼し、2人は並んで廊下の方へと踵を返す。
「どうぞ、お気をつけて」
彼女らの背中に投げかけられた声は足音よりも小さく、部屋の空気の中へ静かに溶けていった。
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