第32話 贈り物をする
刺繍が出来上がったのは、何度か月を見てからだった。月は特定の方角から浮かんできて、夜の間にじっくりと移動して、やがて沈んでいくものらしい。らしい、というのは、いつも私が途中で眠ってしまうから、沈むところまで見ていられないからだった。前よりはマシになっているけれど、やはり、生きていた頃や生き返ってきてすぐの頃よりは、少し体が疲れやすいところがまだ残っている。
「生きてた頃より、絶対、遅くなっちゃったな……」
この世界では、時を告げるものがあまりない。鐘の音の間隔や月の様子が生前とどこまで同じなのか、私にはわからないのだ。休み休み作り上げた刺繍は、それでも渾身の出来栄えだと思った。
「まあ皇后さま、素晴らしい作品ですね! 国宝にしてもいいくらいの出来栄えですこと」
「あら、お美しい」
「これは素晴らしい刺繍ですわね……」
ふっと現れては刺繍を見て、一言言って、何人かの女官が消えていった。どうやら、ちらりと覗き見しに来たらしい。あまり交流のできていない人たちだったけれど、どうやら思っていたよりも愉快なところのある人たちのようだった。屋敷に珍しい客人や迷いネコが来た時の、家族やみんなで覗き見した時の様子を思い出していた。ほほえましい気持ちが沸き上がっていると、誰かが「皇帝陛下をお呼びしなくては!」と言って、さっといなくなってしまった。
「ぁ……お忙しいかも、しれないのに」
伸ばした私の手が、行き先を失って落ちた。その後しばらくして、先ぶれの類もなく彼が飛び込んでくる。衣装は装飾もついて布も多くて重いだろうに、彼は走ってきた。
「できたって!? くれるって! いいの!?」
「……えぇと、その、まずは一度、落ち着いてください」
思わず真顔で止めに入る。水を差し出して薦めると、彼はぐっと勢いよく飲み干した。小さく「今度からお茶を持ってくるね」と呟いている。
「見せて、見せて。お願い、早く!」
「そ、そんなに期待されると、ちょっとドキドキしちゃいます」
私が糸の始末も終えて綺麗に畳んだ手巾を差し出すと、彼は小さい子供のようにはしゃいで手巾を開いた。
金銀の糸を撚り合わせた、細い三日月。咲き零れる大きな赤い椿の大きな花弁には、露が浮かんでいる。他にもせっかくだから、と、図鑑を参考にした鶯を刺繍してみた。改まって見てみると、もう少しいい構図ができたんじゃないかとか、悩ましい気分になってくる。おそるおそる刺繍をなぞる彼の手は、少し震えていた。
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