第45話 彼の事を思う者
「まったく、面倒な事になったものだ」
アストゥーリア王国軍務大臣エーミール・ルファスは、フォルカス・ローリンゲン侯爵の死に関する一連の報告書を読むと、執務室に同室していた近衛騎士隊長カールマン・ドゥーカスに向かってそう口にした。
エーミールは齢69になる白髪の痩せた老人で、公爵の爵位を持つ王国最有力の貴族でもある。
彼は自らが指揮した幾つかの戦勝の功績によりその権威と権力を高め、今や王国における実質的な最高権力者だった。
カールマンは26歳。茶色の髪に優しげな表情を浮かべた男だが、彼こそが現在王国最強と言われている戦士だ。その体躯はさすがに鍛え上げられている。
彼は小貴族の三男の生まれだが、自身の功績で独自に男爵の爵位を得ていた。
立場も年齢も全く異なる2人だったが、彼らはある秘密と、王国の行く末に関する問題意識を共有しており、2人で話す事が少なくなかった。
そして、今もまた、話し合いのために顔を合わせていたのである。
エーミールは言葉を続けた。
「せめて秘かに事を収められれば良かったものを、ユリアヌスの奴め」
有力貴族の1人が闇教団と通じ、あまつさえその身をデーモンに変ずるとは王国全体の権威を大きく失墜させる大醜聞である。
可能なら真実を隠したいところだったが、審問会を開いたユリアヌス大司教は早々に公にしてしまっていた。
カールマンが答える。
「神官に政治向きの事を理解しろといっても無理でしょう」
「果たしてそうかな……」
「それよりも軍への影響が心配です」
「そうだ、それも問題だ」
フォルカスは、カールマンやかつてのガイゼイクにも匹敵する王国有数の戦士と思われており、周辺諸国にも名を知られた男だった。
この世界の戦において、1人の強者の存在は戦全体の帰趨に無視できない影響を与える。
その点でフォルカスの死の影響は非常に大きい。
たとえ彼の力が他者から奪ったものだったとしても、今まで国の為に使う事が可能だった力が使えなくなったという事実が問題なのだ。
加えて今回のフォルカスが起こした問題は余りにも大きく、フォルカスに近かった炎獅子隊員もそのまま使う事はできない。少なからず処分する事になるだろう。
それは大きな戦力の低下を意味していた。
となれば、アークデーモンを討つほどの力を持つ者に関心が向くのは当然だった。
「バフォメットを討ったというガイゼイクの倅。なんという名だったかな?」
「エイクです。エイク・ファインド」
エーミールの問いかけにカールマンは即座に答えた。
カールマンはかつて目にしたエイクの事を思い出していた。
余りにも過酷で、そして報われない鍛錬を己に課していた少年のことを。
エーミールは重ねてカールマンに問うた。
「そなたは1人でバフォメットを倒せるか?」
「魔法が使われないという条件ならば倒してみせます。しかし、容易くとは行きません」
その言葉はつまり、エイクの強さが今のアストゥーリア王国最強の戦士であるカールマンにも匹敵するものであることを示している。
「無能と思っていたガイゼイクの倅が、よもやそれほどの力を持つようになるとはな。
軍に登用出来ればよいのだが……」
「大臣。それは難しいでしょう。ガイゼイク殿が死んだ時の事をお忘れではありますまい」
ガイゼイクの死後、債務をでっち上げて財産を差し押さえるなど、フォルカスがエイク対して酷く不当な行いをしている事を軍の上層部は把握していた。
しかし、それを正す動きは全くなく、むしろ黙認するよう指示が出ていた。
そのような指示を出したのはエーミールその人だった。
「ガイゼイクに渡した財が、これ以上無能な倅に流れるくらいなら、フォルカスの好きにさせた方がましだと思ったのだ。その方がフォルカスを手駒として動かしやすくもなる」
エーミールは当時も述べていた理由を口にした。
カールマンはエーミールのこの言動を不審に思っていた。
確かに、当時ガイゼイクに代わって炎獅子隊を任せられるだけの武力を持つと思われていたのはフォルカスだけだった。
そのフォルカスにへそを曲げられては面倒な事になっただろう。即時の軍事行動を行う場合には、支障を来たした可能性もあった。
しかし、当時は即時の軍事行動など予定はされていなかったし、事実起こってはいない。
そして、軍の功労者への不当な行為が士気の低下を招かないわけがない。
中長期的には、その方が損害は遥かに大きいと思われる。
エーミールという老人は視野が狭くなる事もままある人物だったが、少なくとも軍事には熟達している。
そのエーミールが、信賞必罰の原則と、それによって得られる軍の士気や厳正な軍規の重要性を理解していないはずがない。
フォルカスの専横を許した本当の理由は別にあったのではないか? カールマンはそう疑っていた。
いずれにしても、エイクが軍に良い印象を持っているとは到底考えられない。
「……まあ、過ぎてしまった事は仕方がありません。せめて他国に引き抜かれないよう気をつけるべきでしょう」
「そうなる前に消してしまうという手もあるがな」
「大臣!!」
「本気ではない。そんな事に費やす戦力はないからな」
それでは戦力があればやると言っているようなものだ。
咎めるような目を向けるカールマンに対し、エーミールが平静な様子で告げる。
「とりあえず、裁判のやり直しをして、ガイゼイクの財産を返せるだけ返してやるつもりだ。
特に屋敷だな。幼い頃から住んでいた屋敷を取り戻せば、そこに居つく可能性は高いだろう。他国への流出の危険は減る」
「一応、仕官の意思はないか、こちらで確認だけはして見ます」
「頼む」
カールマンが続ける。
「それから大臣。あなたの派閥としても影響は大きいのでは?」
フォルカスは政治的にはエーミールの派閥に属していた。
派閥の一員の大醜聞は、領袖たるエーミールにも悪影響を与えずにはおかない。
エーミールも僅かに顔をしかめつつ答えた。
「それもある。大事の前の小事、とも言ってはおられん。私の力が衰えれば愚か者どもが台頭してくる。それは避けねばならん。
まったく、国内で争っている場合ではないというのに……」
現在アストゥーリア王国には鋭い対立が生じており、エーミールに敵対する勢力が存在しているのだった。
「まあ、それは今話すことではない。
検討すべき最大の問題は、フォルカスをデーモンに変えるなどという事を仕出かしたのが何者で、そやつが何を狙っているかだ。アークデーモンすら操る者が国内にいるなど、事は国家の存続に関わる。
だいたい、人がデーモンに変ずるなど聞いたこともない。如何なるものの、いかなる術によるものなのか。
加えてガイゼイクの死が何者かの陰謀だったという情報。
調べるべき事、すべき事が多すぎる」
そう告げて嘆息するエーミールにカールマンが応える。
「はい、デーモンに変ずる人間がいるとなれば、由々しき問題です。
近衛としては、警護体制を抜本的に見直す必要があると考えています。
とはいっても、全ての者をデーモンかもしれないと考えて警護するのは無茶というもの。
真相の究明、せめて有力な仮説なり立たない事には対処のしようもありません」
「そうだな、大図書館の賢者共の見解では……」
フォルカスがデーモンに変じたという異常事態についての、調査や対応策について検討すること。
それが今日2人が話し合うべき本題だった。
だが、その本題に入る前にカールマンにはエーミールに伝えるべきことがあった。
「すみません大臣。その前に一つご報告を。
殿下が、彼、エイク・ファインドに痛く興味をお持ちです」
アストゥーリア王国では、“殿下”という敬称は現国王の子に対してしか使われない。そして、現在殿下と呼ばれる人物は一人しかいなかった。
「……面倒だな」
エーミールは顔をしかめ、そう呟いた。
深き森のただ中に立つ一つの城。
その城内の広間で、“夜明けの翼”のメンバーの一人だったテティスは、主人の前に跪きアストゥーリア王国での諜報活動が失敗に終わった顛末を報告していた。
その姿は可憐な少女のものだった。
主の前で姿を偽るわけにはいかない。
「1年以上もの時間をかけながら、何の成果も得られなかった事、深くお詫びいたします」
「それはもう良い。なかなか良い情報が得られていない事は、定期報告で承知していた。今更咎めるつもりはない。
北を重視して、お前を満足に支援することが出来なかった私の責任でもある」
不首尾を詫びるテティスに対して、豪奢な椅子に座りひとしきり報告を受けた男は、寛大にもそう応えた。
男の周りに侍る美しい姿をした怪物たちからは、失望したような、或いは退屈したようなため息が漏れたが、反応はそれだけだった。
テティスは安堵した。
男は言葉を続ける。
「だが、1年かけて作り上げたあの国での立場を、全く失ってしまったのはもったいなかったな。
あの国での情報収集の必要はまだある。というよりも一層高まった。何か手を打たねばならない。使える手駒は限られるが……」
「はい。授けていただいた宝珠も、二つながら失ってしまい申し訳ありません」
「あれはもともとお前を死なせないために渡したものだ。役目を果たせてよかったというべきだ。
それよりも、お前をそのような状況に追い込んだ者が気になる。
その時、どうして挟み撃ちがばれたのか、お前には全く分からなかったのだな?」
「はい。私が気付かない、何らかの仕掛けがあっただけかも知れませんが」
「だが、意識を取り戻した後でいくら探しても、そのような仕掛けは、その痕跡すら見つからなかった、と」
「左様です」
「そうか。なるほど。やはり大変興味深いな。どのような者なのかな?」
テティスは嫌な予感に襲われた。この強大すぎる力を持つ主人が何かに強い興味を持つと、大抵ろくな事にはならないのだ。
「いずれにしても、お前にもまた働いてもらう事になる。準備はしておくように」
「はい、心得ました」
テティスはそう答えて深々と頭を下げた。
アストゥーリア王国から遠く離れた異国の酒場。
その窓際の席に灰色のローブを着てフードを目深に被った人物が座り、1人で酒を嗜んでいた。
それは、かつてファインド家の屋敷に短期間滞在していた女性。エイクに“伝道師”と名乗った者だった。
(彼はどうしているかな?)
彼女はエイクの事を思った。
彼女が知る中でも、最も強くなることに貪欲で、その為の努力を怠らずに続けていた、あの好ましい少年の事を。
自分が彼の屋敷を辞して間もない頃に、父の死という悲劇が彼を襲ったことは、彼女も聞き知っていた。
(たとえ境遇が変わろうとも、あの努力を続けてくれていると良いのだが……。
そして、果たして呪いを解く事が叶うかどうか。
もしもあの呪いを自力で解いたならば、得がたい力を手に入れる事が出来るだろう。そうなってくれると嬉しいが……)
しかし、そうなる保証はないのだ、この世界には運命はないのだから。
今の彼女には、期待する事、そして願う事しか出来ない。
彼女はフードが落ちないよう注意しつつ、窓から空を見上げ、心の中で呟いた。
(また会いたいな、エイク)
彼女がアストゥーリア王国で起こった変事を知るまでに、まだしばらくの時間が必要だった。
――― 第1章 完 ―――
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