第6話 治療師①
森からファインド家の屋敷に戻ったその日、エイクは早速中庭で剣を振るった。
そして翌日はいつも以上に早く起き、日課にしている朝の運動を丹念にこなし、朝食後には炎獅子隊の訓練所に出かけ指導員に教えを請うた。その態度もいつも以上に熱心だった。
父に見捨てられたのではないかという恐怖。強くなるための努力を続けることを、父は望んでいないのではないかという疑念。
昨日感じたそれらの思いは、彼をまだ混乱させていた。しかし、だからこそ、とにかく鍛錬に励みたかった。
それでも自分は強くなるのを諦められない。その自覚を体に刻み付けたかった。
どんなに悩もうが迷おうが、自分は強くなるのを諦められない。それなら悩むことも迷うことも無駄だ。彼はそう吹っ切ってしまいたかった。
そして夕刻屋敷に戻ると、“治療師”が待っていてくれた。
「余暇も大切だと教えなかったか?」
そして呆れたような様子でそう言った。
彼女が自分を待っていてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
“治療師”は夕食の前に尚も体を動かそうとするエイクを止め、体調を確認させるよう要求した。そして打ち身や擦り傷、蓄積した疲労などを見極め、軟膏を塗ったりしてくれた。
自然、体のあちこちを触られることになり、エイクは緊張の余り硬直してしまった。
エイクにとって最も身近な女性は、7年ほど前から住み込みで働いている2歳年上のリーリアという名の侍女だった。
平民とほとんど変わりがないファインド家では、堅苦しい身分差などは存在せず、エイクとリーリアは幼馴染として育った。
15歳になり、美しく成長したリーリアが不意に見せる女性らしさにドギマギし、その膨らみ始めた胸や、魅力的な曲線を描き始めた腰のくびれや尻に、ついつい目が行ってしまうことも多くなっていたが、今はそれとも比べものにならないほど“治療師”のことを意識してしまっていた。
そのリーリアは、今エイクの傍らで不満気に唇を尖らせ彼の様子を見ている。
彼女は亜麻色の髪をポニーテールにまとめ、動きやすそうなシャツとズボンを身に着けていた。エイクの、屋敷での鍛錬に付き合うのが彼女の日課だった。
彼女の服装は運動用の飾り気のないものだったが、その体にぴったりと合い、女性らしく成長し始めている体形が強調されて、その姿は十分に魅力的だ。
しかし、エイクの意識は今は全く彼女に向いてはいない。自然、彼女のつぶらな瞳は不機嫌そうに細められている。
「もういいでしょ。早く行こう、エイク」
リーリアはたまりかねた様にそう言うと、エイクの腕をかき抱くようにつかみ、いつもの鍛錬場所である中庭へ引っ張って行こうとした。
彼女は以前からエイクに触れたがることが多く、エイクもそんな彼女の態度を秘かに喜び、その体に触れる事を楽しみにしていたのだが、今は(治療師さんの手のほうが滑らかだな)などと失礼なことを考えていた。
「まあ、問題ないだろう。行って来るといい。その間に薬湯を煎じておこう」
“治療師”はそう言って二人を送り出した。
次の日から“治療師”は、エイクが屋敷にいる間はほとんど常にその傍らにあった。
そして、エイクの鍛錬に付き合い、様子をみて適切な休憩を入れさせたり、必要に応じて薬を煎じるなど、その体調管理などに務め、休憩の間にはエイクに多くのことを語って聞かせた。
リーリアも、侍女の仕事が片付いた時には対抗するようにエイクにくっついていた。
“治療師”がエイクに語る事のほとんどは、戦いで役立つ知識だった。
例えばある時は、今では廃れてしまった戦闘技術について教えてくれた。
「大陸東方ではかつて徒手の格闘術というものが広まっていた。
両手両足を武器にして、目にもとまらぬ攻撃を繰り出し、敵を投げ飛ばし、絞め落とす。そんな技術だ。
今では廃れてはいるが、まったく消滅したわけではない。だからその様な技術を修めた者と戦う可能性も考えておいた方がいい」
「どうして廃れてしまったんですか?」
「簡単に言うと武器と防具を使った方が強いからだな。
その格闘術というのを扱うためには、まともな防具を装備出来ないらしい。
金属鎧などもっての外だし、ソフトレザーアーマーですら動きを妨げるのだそうだ。
結果、ほぼ防具なしで戦うしかない。
武器も同じだ、手足に装備して攻撃力を上げる武器も考案されたらしいが、結局どれも技の精度を著しく損ねてしまい使い物にならなかった。
そして、武器防具を装備した戦士と徒手の格闘家が戦うと、大抵戦士の方が勝った。
だから、自然格闘術を修めようとする者は少なくなった。武器防具の性能が上がるにつれてその傾向は高くなり、今ではすっかり廃れた、というわけだ。
しかし、格闘家は消滅したわけではない。
そして、武器や防具はいついかなる時も身につけていられるわけではない。装備なしの状態で格闘家と戦うのは極めて危険だ。そう覚えておくといい」
「はい、分かりました」
「他にもかつて東方で広まっていた技術に、錬生術の奥義というのがある。錬生術は知っているな?」
「はい」
錬生術というのは、マナを消費して自身のオドを活性化させ、それによって様々な効果を得る技術だ。
筋力や敏捷性の向上といった基礎的な錬生術ならば、戦士が鍛錬を積み重ねる内に自然に身に付くこともよくある。
「錬生術の中には、君が知るようなものとは一線を画す、奥義と言われるものがある。
それを習得すれば、自らの傷を癒し、その身に鉤爪や牙を生じせしめ、果ては炎を吐き、その気配を完全に消し去ることも出来るのだそうだ」
「まるで魔法ですね」
「そうだな、実際錬生術は魔法の一種だという考えもある。
呪文の詠唱を必要とせず、瞬時に複数の効果が得られる事、その代わり効果を与えるのが自身の体のみと限定されている事、などの相違もあるが、マナを消費して常ならざる効果を生み出すという点は、確かに魔法と同じだしな。
いずれにしても、その様な術を使う者もいるかもしれないと考えておく必要がある。
この奥義が廃れたのは、習得が難しい上に、そこまで効果的ではないからだな。
奥義を極めて鉤爪で攻撃するよりも普通に剣で攻撃した方が良い。炎を吐くといってもさほど威力が高いわけではないそうだ」
「でも、治癒や気配を消す能力はとても使えますよね。それに格闘術との組み合わせは有効ではないですか?」
「そうだな、少なくともその二つは非常に戦闘の役に立つ。
それから実際格闘術と同時に極めんとする者もいるようだ。
しかし、格闘術も錬生術の奥義も生半可なことで身に付くものではない。
それを二つながら身に付けようとするくらいなら、普通に戦士として鍛錬を積む方が効率は良いだろう。
だから君自身は、今更それらの技術を習得する必要はない。
しかし、その存在を知っておく事は必要だ」
「はい、分かりました」
「大陸西方を中心に広まっていた技術もある。
文字通り球状に加工した霊薬で、2・3cmほどのサイズで戦闘中に利用可能となっていた。
味方を助けたり敵を弱めたりといった霊薬の効果を、戦闘中に発揮出来る技術だったわけだ。
これが廃れたのは習得の難しさと費用が高くつくからだ。
霊薬球の使用には相応の技術が必要だ。しかも霊薬の種類毎に使用法を習得する必要があり、多くの霊薬球を使いこなすのはかなりの修練が必要になる。
その上、霊薬球は高かった。強い効果を発揮する物は特にな。
それでも霊薬球でしか得られない効果というものもあり、かつては多くの者がその使用法を習得していた。
そこに大きな影響を与えたのが、大魔導師ヨシュアによる古語魔法の復権だ。
ヨシュアは自らの活躍で、古代魔法帝国の邪悪な魔術師たちが使った魔法として忌み嫌われていた古語魔法を、ある程度復権させることに成功した。
そして、更に市井の人々に身近に感じてもらい、役立つものと認識してもらう為に、魔術師が冒険者となることを推奨した。
これに応える者も多く、相当数の魔術師が冒険者稼業に身を投じた。
冒険者として成功する魔術師が増えると、精霊魔法を扱う精霊術師や神聖魔法を扱う神聖術師にも冒険者となる者が多くなり、結果魔法を使える冒険者の数はかなり増えた。
魔法と比べると霊薬球は、習得にかかる手間と費用と応用力の面で不利で、その技能を修得する者は減った。
使用者が減ったため、霊薬球が作られることも減り、生産量が減ることで更に値段が高くなり、結果習得する者がまた減る、という悪循環が始まった。
この影響は冒険者以外にも波及し、徐々に霊薬球は廃れていったわけだ。
しかし、これも完全に消滅したわけではないから、注意が必要だ。
魔法使いではない者が魔法のような効果をもたらすというのは、敵対者から見れば脅威だ。
いずれにしても、廃れた技術といってもそれらは全く無駄というわけではない。それを修めた者の存在は、状況によっては十分な脅威になる。その様な者の存在を知らなければ特にな。
どれも今から君が自ら身に付けるのは非効率だろうが、知識としては知っておくべきだろう」
「はい、教えてもらってありがとうございます」
エイクは素直にそう答えた。
また、彼女は失われた魔法に関する知識も豊富だった。
「魔術師と戦う時、相手が怪物へと姿を変える可能性も考えておくべきだ。
そういう魔法がかつて存在した。最も有名なのは古の三英雄の一人である魔法使いの話だが……」
首をかしげるエイクの様子を見て、“治療師”は呆れたようだった。
「三英雄も知らないのか。ある意味すごいな。
まあ、大昔そう呼ばれる3人の人物がいたんだ。その中の1人である魔法使いは、最後の戦いで古竜へと姿を変えておぞましき物と戦い、世界を守ったのだそうだ。
まあ、この話しは古すぎて何処まで本当か分からないし、実際に古竜に変じられたら逃げるしかないがな。
だが、そこまでの化け物ではなくても、強大な魔獣や幻獣に姿を変えることが出来る魔術師は実在している。魔術師には近接戦闘力はないと思い込むと酷い目にあうだろう」
エイクは素直に頷いた。
「魔術師の近接戦闘力というなら、古代魔法帝国時代には魔法戦士という連中も実在した」
「魔術師で同時に戦士って事ですか? それは無駄じゃあないですか?」
一般的な魔法の行使は、武器などによる物理攻撃と同時に行うことは出来ない。
それどころか、魔法の行使は基本的にはそれだけに集中する必要があるので、たとえ戦士や軽戦士としての技術を身につけている者でも、魔法を行使しようとしている間は、通常は棒立ちになってしまい敵の攻撃を避けることが出来ない。
なので、魔法を習得すると共に物理的な戦闘技術をも習得する行為は、ただそれだけでは少なくとも戦闘面では全くの無駄だと言えた。
ただし、ある種の技能と心構えを習得することで、魔法を行使しようとしながら敵の攻撃を避けることは可能になる。
なので、その技能の修得を前提に、魔法と物理戦闘の両方を習得する者も存在した。
特に行使するのに防具の制限がない神聖魔法や、非金属鎧なら身に着けても行使できる精霊魔法を扱う者の中には、同時に戦士や軽戦士の技能を習得する者もあった。
しかし、その様な場合でも、魔法の行使と物理攻撃を同時に行うことは出来ない。
敵の攻撃を避けるという受動的な行動と、魔法の行使という能動的な行動を同時に行うことは出来ても、物理攻撃と魔法の行使という共に能動的な行動を同時に行うことは不可能だからだ。
その上、古語魔法はその行使の為に複雑な身振りも必要とされており、体の動きを少しでも妨げる堅い鎧を身につけることは出来ない。装備可能なのはソフトレザーアーマーがせいぜいだった。
それでは近接戦闘に身を置くのは甚だ心もとない。
結果、古語魔法と物理戦闘の両方を身に着けようとする者は極めて稀だった。
「それがな、連中は古語魔法を使いつつ、同時に武器でも攻撃できたのだそうだ」
「えっ、そんなのずるいじゃあないですか」
それでは同時に二つの能動的な行動が出来るということになる。
世の中には両手攻撃の技術を修めて、左右の武器で同時に攻撃をする者もいるが、それは「両手でそれぞれ攻撃する」という一つの行動を行っているに過ぎない。武器攻撃と魔法の行使というまったく別の二つの行為を同時に行うというのは、それとはまったく別の事だといえた。
「そうだな、ずるいな。しかし、実戦でそんなことを言っても意味がない。
現にそういうことが可能な敵が現れたら、黙って戦うしかない。
むしろ自分が敵からずるいと思われるほどの技術を身につけるよう努めるべきだな」
「はい」
「まあ、古語魔法の行使と武器攻撃を同時に行うには、相当特殊な装備品が必要だったそうだから、現代で同じ事を再現するのは至難だろうがな」
エイクはこのような“治療師”の話しを非常に興味深く聞いた。
実戦で勝つためには知識も必要だという言葉を実感することが出来た。
そして、今まで休息中などの体を動かしていない時間を利用して、知識を求めていなかった事を悔いた。
鍛錬を終えた直後の息も絶え絶えの状況ではさすがに無理だろうが、少し呼吸が整えば本を読むことくらいは出来る。どうせ少しの間体を休める必要があるのだから、その間はそうして過ごしているべきだった。と、そう思ったのだ。
本当は今の“治療師”のように、話して聞かせてくれる相手がいると一番良いのだが。
(そうだ、アルター指導員ならきっと付き合ってくれる)
エイクは、訓練所の指導員で博識と話し好きで知られた人物を思い出しながら、そんなことを考えていた。
ただ、“治療師”が話しの主題の中に紛れて、他者は利用して不要となれば切り捨てるべきである、などといった価値観を彼に与えようとしていることには気付かなかった。
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