薔薇は誕生した。

 悪魔と人族が戦場で激戦を繰り広げている同時刻。


 戦場から離れた遥か遠い東の地にある、とある領主の屋敷にて。

 その女主人の寝室は熱気に包まれていた。


「テレスティア様!頑張って!もう少しですよ!」


 お産婆さんの熱のこもった励ましに、妊婦である女主人は、吠え猛ってそれに応えた。


「うおおおおおおおおっ!!」


「ファイトー!」


 お産婆さんの腕を振り上げての更なる激励に、控えている侍女が控えめ気味の合いの手を入れる。


「イッパーツ」


「おおおおおっ!」


 スポーンと、その合いの手に合わせるようなタイミングで、凄い勢いで赤子が生まれてきた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」


 世紀の一瞬である。

 この大一番を果たした母は、荒々しい呼吸を繰り返しながらも、我が子の泣き声を待つ。


「はぁ、はぁ、ふぅ、はぁ」


 瞳を閉じて、耳を澄ませ。

 ………

 息を整えながら、ひたすらに待望する。

 ………

 待って待って待ち続け。

 ………

 ただただ待ち焦がれる。

 愛しい我が子の元気な泣き声を。

 ………

 しかし、それは未だ耳に届かず、心が闇に沈みゆく。

 ………

 陣痛の最中に嫌な予感があった。

 ミシミシという不快な音が、この超人的な聴覚が感知していた。

 腹の中。

 我が子の心臓が、ぎゅうぎゅうに圧迫されている音だという事を悟り、急がなければとお腹に力を込めた。

 しかしそれは限界を迎えたのか、小さく、とても小さな破裂音を響かせ。

 その後は、耐えられずに聴覚を遮断した。


「…………。」


 それでも、我が子の生命力を信じて、安産用に持たされた拳大の魔石を、両手でギリギリと握り締めながら、奇跡をと、神に祈りを捧げ続ける。


「…………。」


 しかし、未だ聞こえてこず、その事実に身体の芯から震えてくる。


「…………。」


 祈りは届かない。

 そんなまさかと、絶望感で目の前が真っ暗闇となり、生まれて初めての動揺を体験する。


 その時。


「え、どういう事?」


 赤子を挟んだ対面にいるベテランお産婆さんのラニーは目を剥いて驚愕し、困惑の最中にいた。


 ――こんな事は初めてだよ。


 赤子は間違いなく生きている。

 パッチリと目を開けているのだ。

 生まれたてとは思えない、とっても大きな可愛いらしいお目目である。

 瞳は抜けるような空色だ。

 吸い込まれそうな輝きを放つ、神秘的な神々しささえも感じる見事なスカイブルーである。

 その瞳が私を捉えて離さない。

 こちらとしっかりと目を合わせて、ぱちくりと瞬きを繰り返している。

 ゴロンと横向きに寝そべり、呑気なお顔をコチラに向けて、コチラを見上げる形ながら、しかし見下ろすような視線で親指をチュッチュと喰むという、なんとも太々しく感じてしまう大きな態度。

 その様は母親を彷彿とさせる王者のごとく。

 これで生きていない訳がなく。


 ――しかし、何故に泣かないのか?


 泣かない赤子なんて見た事も聞いたこともない。

 息が詰まっているというのか?

 いやいや、ばかな、そんなはずはない。

 いたって落ち着いている様子だ。

 可愛らしくも呑気なお顔だよ。

 もしかすると声が出せないのだろうか?

 あっ欠伸した。


 色々と考えを巡らせていると、赤子はラニーに向けて。


 コクリ。


 しっかりと頷いてみせた。


「ふぁっ?」


 思わず変な声が出てしまうほどの、なんだか自信満々な感じだった。

 その視線は既に意思があるかのような。


『心配するな、オババよ』


 そんな、少し失礼な物言いが聞こえてきたような気がする。


「ええっ?」


 困惑したままに凝視していると、その小さな、愛らしい桜色の唇を僅かに動かし、そして待望の一言を。


「………ぉ、ぎゃ、ぁ……」


 とっても小さい、蚊が鳴いたような声。


「…………へ?」


 聞こえるか聞こえないかというほどのか細い声だった。


「ま、まさか」


 ――今のが、泣いたつもりなの?


 再び、赤子はコクリと、頷き。


 泣いたのだ、と。真顔で全然泣き顔ではなかったが。


 更には、むふぅと、得意げに鼻から息を吐き出してみせた。


「ええ?」


 ちょっとイラッとする、なんとも見事なドヤ顔に、ますます頭が混乱する。


 ――な、なんて太々しいお顔なのだ。


「あ、いけない」


 一瞬呆気に取られてしまったが。

 ともかく、早く伝えなければならない。

 コレは命に関わる案件だ。


「……ぇぐっ、……うぇぇ……あ…あ…ああ………」


 女主人がえずき始めたのだから。

 こちらが大泣き寸前である。

 まるで幼な子が我慢するかのように、口をこの上なく大きく開けてプルプルと震えているのだ。

 噴火寸前の火山の如く、もう大爆発寸前である。

 脳筋なお方だから、大暴れへと発展してしまうだろう。

 二十メートルを超える竜を、単独で討伐した正真正銘の大英傑である。

 このままでは、この街が焦土と化してしまう。

 既に安産用にと持たせておいた拳大の魔石が粉々に砕け散っている。


 ラニーは、え、アレってあんなに砕けるものなの?サラサラの砂みたいになっているんだけど?と恐怖しながらも、勇気を振り絞り。


「テレスティア様!テレスティア様!大丈夫です!」


 ――げっ?!枕元に置いてある、槍に手を伸ばし始めた。まーにーあーえー!


「えぐっ……えぐっ……ふぇぇ」


「とっても元気な女の子です!

 立派な跡継ぎが生まれましたよ!」


 元気というところは少々盛ったところだが、もう大丈夫だろう。

 スヤスヤと寝息をたて始めたのだから。


「だから、その手をー、離ーしてー!」


「………え、マジで?ほんとに本当なの?」


 女主人は槍を手放し、一瞬、惚けた貌をした後。


「はい、間違いなく」


 なんだかんだ言っても、一番信頼している控えている侍女の冷静な言葉を聞き入れ。


「ああああああああ!」


 勇ましく吠えるように泣いて、喜びを爆発させた。


「よかったーー!」


「おめでとうございます!」


 ――間に合ったー!助かりましたよー!街の皆さーん!


 勝利のガッツポーズでお祝いを述べるお産婆さんに続いて、控えている侍女が控えめに小さく頭を下げた。


「おめでとうございます」


 その後、へその緒を切り産湯で処置された後、大物ですよと渡された我が子をヒシっと抱えながら。


「ローズ!貴女の名前はローズよ!

 ローズ・アルファ・ザッツバーグ!

 薔薇の家紋を背負う、立派な主人になりなさい!」


「zoo ……zoo……zoo…」


 わあわあと騒ぎ立てる母に対して。

 赤子はムギュッと潰されながらも、一切起きる事なく寝息を立て続けた。


 ――あのモンスターに、あんなにギュウギュウにされても、平然と寝ていられるとは。

 なんて図太く、そして太々しいお顔だ。

 絶対に大物になるよ、このお方は。英雄の子は英雄ということか。


 ベテラン産婆さんのラニは間違いないとゆるゆると首を振った後、信じられないような目を女主人に向ける。


 ――しかし、まあ、それにしても。


「ワッハッハ!今日はなんてめでたい日なんだ!

 よーし!お祝いだ!祝杯をあげよう!

 誰か!酒をもてーい!

 ワインだ!赤と白、両方持ってこーい!」


「テレスティア様」


 控えていた侍女が、すかさず前に出て、予定通りのダメ出しを始める。


「授乳があるのでアルコールはダメです」


「えーーーーーーーーーー、ちょっとだけならいいんじゃないかな?めでたい訳だし。かんぱーいってやりたいし」


 予定通りにゴネ始めたので、断固としてのダメ出しを続行する。


「ダメです。授乳期間中は禁酒生活続行です」


「えーーーーーーーーーー、赤白一本ずつなら」


「ダメです」


「えーーーーーーーーーー、赤だけなら」


「ダメです」


「えーーーーーーーーーー、一杯だけでも」


「ダメです」


「えーーーーーーーーーー、わかった、せめて舌の上にちょっと垂らすだけでも」


「ダメです」


「えーーーーーーーーーー、わかった。ならば先っちょだけにしようではないか」


「ダメ」


「お願い。絶対にペロペロしないから」


「ダメ」


「動かさない、ジワりと湿らすだけだから」


「ダメ、絶対」


「えー、お願い」


「ダメ」


「えー」


「ダメ」


 ――出産後にして、こんなに元気な母親も見たことも聞いたこともないよ。流石は勇者をも超える大英傑ということか。


 ラニーは、大仕事を終えたばかりのテレスティアのタフさ加減にも度肝を抜かれていた。


「わかったよ。ならば香りを楽しむだけで手を打とうではないか。だからグラスに注いでおくれ」


「絶対に我慢出来なくなるから、絶対にダメ」


「えー」


「ダメ」


 その後も宥めるのに苦労したのは言うまでもない。



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