活字アレルギー

平良殿

第一話

 活字が読みたい。私は空っぽの本棚の前をウロウロ歩いた。なんとしてでも活字が読みたい。あたりを見回すが、本はもちろん、新聞紙一つ転がっていない。止むを得ず携帯端末を取り出した。スリープモードを解除し、ネットに接続。適当な情報サイトを開けば二次元コードの羅列が情報として流れ込んでくる。そう、全てコードだ。文字情報はどこにもない。耐えきれず、画面の設定をコード表示から文字表示に変更する。途端、警告が飛び出してきた。

『活字アレルギーの方の文字表示は法律で禁止されております』

 コードで表示された警告画面に『はい』以外の選択肢はない。歯軋りをする思いでボタンを押すと、設定は勝手にコード表示に戻っていった。私は携帯端末を机に放り投げ、長椅子に横たわった。白い天井を睨みあげる。

 機械化によってあらゆる病を克服した人間が、ただの読書で死に至る。当初は笑い話でしかなかった活字アレルギーも、次から次へと医学的根拠と死人が出てくれば世論も変わっていった。今となっては立派な現代病の一つである。

 肉体を捨てた人間を殺すものは何か。医師たちがスーパーコンピュータを使って下した結論は『想像力』だった。この世に存在しない理論を、物を、人を、世界を創り出すことにより、脳の処理限界を超え、死に至る。一部の医師は人間の進化に技術が追いついていないと語ったが、私の意見は違う。活字アレルギーを引き起こすほど、機械の脳が劣っていただけだ。人間は人間が思うほど進歩していない。

 ともあれ、想像力が人を殺す現代。技術革新以外の治療法はなく、ひとたび想像力豊かになれば、それを刺激するアレルゲンは遠ざけられる。私もその一人だった。一ヶ月前に活字アレルギーを発症してから、物書きの夢を追うどころか、味気ない報道を眺めることすらできない。

 どうにかして活字を読めないか。

 近頃、私の頭を占めるのはそんなことばかりだった。

 静かだった部屋にコール音が鳴り響く。誰だろうとは思わなかった。横たわったまま机上の携帯端末に手を伸ばし、通話ボタンを押す。端末上に鼻筋通った青年の立体映像が浮かび上がった。

「やあ、五十嵐。活字を読む方法は見つかったかい?」

 音声が流れた。早朝のアナウンサーを思わせる明朗な物言いはいつ聞いても頭によく響く。誰もが振り返る見目の良さも含めて、いっそ役者の方が適性があるだろうに、私と同じく物書きを目指しているというのだから人間はよく分からない。

「その挨拶も聞き飽きたな」

「治れば聞かなくてよくなるさ」

 彼、岡野は爽やかに笑った。妙に癪に触り、私は眉を顰める。

「アレルギーってのは治らないもんだ」

「おや、珍しい。前時代的かつ悲観的な意見だ」

 私の苛立ちをよそに岡野は楽しげである。ピンと人差し指を立ててこちらに向けてきた。

「楽観的に行こう、五十嵐。技術がなんとかしてくれる。君のボディパーツはあと十八年は交換不要だし、人間の平均寿命は二百三十歳を超えた。そして昨日、新型ヘッドパーツのリリースが始まった。これが活字アレルギーに効くかわからないが、君はまだ六十三歳。待つ時間はある」

「活字を読めない時間がな」

 吐き捨て、岡野に背を向ける。ただのポーズだ。本当に腹が立った時は問答無用で通話を切る。岡野もその辺りは分かっていて「いいニュースがあるから元気を出せ」と話を続けた。

「前に君と話しただろう。機械化していない人間。連絡がついたぞ」

「なにっ」

 思わず跳ね起きれば、笑う岡野と目が合った。

「いつもの喫茶店で三時に待ち合わせだ。行くかい?」

 チラリと携帯端末の画面端を見やると二時十分とある。岡野の言う喫茶店スラッシュクロスまではここから二十分はかかる。

「もっと早くに誘えないのか」

 呆れる私に岡野は片目を瞑った。

「これも運試しさ。僕はまだ迷ってるからね。それで、どうする?」

「行く」

 一も二もなく頷き、通話を切った。待ち合わせまであと五十分。諸々を考えると十五分以内に身支度を整えなければならない。迷っている暇はない、と人工知能おすすめのコーディネートを確認した。



 玄関を飛び出すと立ち尽くす岡野の姿が目に飛び込んできた。映像でも見ているのだろう。薄茶の瞳は虚空を見つめていた。薄ら寒さを感じながら「岡野」と声をかける。彼は瞬きの後、私を見た。上から下まで眺めたかと思えば「黒いね」と呟く。

「白もある」

 上着の前を開けて白シャツを示すも彼の顔から呆れは消えなかった。

「前々から思っていたけれど、君はAIの使い方が下手だ。まるで喪服じゃないか」

「ちゃんと見ろ、ノーネクタイだ。喪服には適さない」

「そうだね。とても目立つだけだ」

 岡野の視線が左脇に逸れる。つられて私もそちらを見たが、変わったものは何もなかった。渋滞が起こらないようコントロールされた車道、寂しさを感じない程度に配置された歩行者、手入れの行き届いた街路樹に花壇。この数十年、全く変化のない街だ。私は懐中時計を引っ張り出し、そちらに視線を滑らせた。二時二十四分。まずまずの時間だ。岡野が歩き出したので、私もその横に並んだ。

「何か見えたのか?」

 岡野は常に最新型のヘッドパーツに交換している。プログラムの更新も欠かさない。私では感知できないもの、たとえば電波やら温度やら、あるいは政府が設置した治安維持目的の盗聴器を感知したのかもしれない。

「時計を見ただけさ。この辺に表示してるんだ」

 岡野の指が左脇の空間に丸をつける。視界の隅になる位置だった。

「邪魔そうだな」

「慣れればそうでもないよ。君もヘッドパーツを交換してみたら? もう何十年もそのままだろう」

 岡野が意味ありげに私を見やる。私は気づかないふりをした。懐中時計を揺らす。

「時計ならこれで充分だ」

「そう言うと思った。ま、気が変わったら言ってくれ。いいヘッドパーツを紹介するよ」

「気が変わったらな」

 私は肩をすくめ、ポケットに時計をしまう。それでこの話は終わりとなった。赤信号を前に二人並んで立ち止まる。一拍の無言を埋めるように自動車の走行音が響いていた。

「今度の『新作』だけどさ」

 岡野が呟く。私は何でもない顔を装いながら信号を見つめた。

「さっきも言ったけど、まだ迷ってるんだよね。詳細を詰めてないし、行き当たりばったりで進めている。待っていれば別のいい案が出てくるんじゃないかとも思う」

 そう語るが、私は知っている。物書きを目指してはいるものの、岡野は一本も書き上げたことがない。書こうとする意思すらない。そして、それを隠す気もない。当然、『新作』は小説の話ではない。私と岡野の間でのみ通じる符牒だ。

「不安なら合作はやめにするか?」

 私一人でもやるぞ、と暗に伝えれば視界の隅で彼の腕が動いた。おそらく首の後ろを撫でているのだろう。岡野にはそういう癖があった。

「僕はそこが不安なんだよ。君、アイディアはいいんだけどアイディアしかないじゃないか。実現性が乏しいし、実現した後のことを全く考えてない」

「だから、それなら私一人で……」

「心配してるんだ、って言わなきゃ分からないのかい?」

 信号が青に変わる。岡野は足早に横断歩道を渡り始めた。その耳がうっすら赤く染まっている。いつだったか、最新型のパーツは感情表現が過剰で困る、と顔を真っ赤にして言っていたのを思い出した。

 駆け足で彼を追いかける。顔を覗き込めば赤い顔で両眉を吊り上げ、唇を噛み締めていた。私の視線から逃れるためか、岡野はそっぽを向き、前髪を掻き上げた。そうして首の後ろをまた撫でる。私の中にもこそばゆい気持ちが湧き起こった。ゴホンと咳払いをし、明後日の方向を眺める。

「私は一人でも書き切るぞ」

「だろうね」

「ただ、お前がいると助かる。私に医者のツテはないし、今日だってお前の紹介がなければ目標に会えなかった」

 旧型の私のヘッドパーツは羞恥の度合いを低く見積もったらしい。私の顔が熱くなることはなかった。

 しばらくの間があった。妙な空気を壊そうとしたのだろう。岡野は殊更明るい声を出した。

「ともかく、殺人ミステリーはこれきりにしよう。僕は勿論だけど、君も向いてない。トリック一つ思い浮かばないんだからね」

「そうだな、これきりにしよう」

 頷きはしたものの、少し納得がいかず、補足する。

「言っておくが、私はミステリーだって書けるからな。今回はトリックが必要ないだけだ」

 私の文句は岡野にとって瑣末なものだったらしく「はいはい」と軽く流されてしまった。



 あれやこれやと『新作』の話をしているうちに喫茶店スラッシュクロスが見えてきた。郊外という立地の悪さに加え、味も内装も特筆に値する良さのない店だが、それなりに賑わっているらしい。この二十年、廃業することなく、この場所に店を構え続けている。

 喫茶店から一人の女性が出てくる。目が合うと彼女は軽く会釈をした。そこで、彼女がたびたび見かける常連客だと気づく。会釈を返すべきか迷っている間に、彼女は私に背を向け、再び店へと入っていった。忘れ物でもしたのだろうか。私が内心首を捻っていると「君はどう思う?」と岡野が尋ねてきた。

「なにが」

「アシストアンドロイドだよ。彼らを見てると僕は人間ってものがよく分からなくなってくる」

 アシストアンドロイド。私も名前は知っていた。人間の人間らしい生活を補助するために作られ、運用される機械。実物を見たことはない。いや、見たことはないと思ってきた。

「もしかして、今の女性……」

「なんだ、気づいてなかったのかい? アシストアンドロイドだよ。ああやって店の経営を助けている」

「気づくものか。どうやって見分けてるんだ」

 外見も振る舞いも人間と何ひとつ変わらない。気づいて当然と言わんばかりの岡野の態度に困惑した。

「まあ、勘だよ。アシストアンドロイドは人間よりも人間らしいからね」

 その勘とやらを掘り下げたかったが、彼の視線が左脇に逸れたのに気づいて諦めた。今優先すべきはここしばらく私を悩ませてきた問題の解決であり、待ち合わせである。見分け方はそのあとでも遅くはない。

 岡野の後に続いて古びたドアを開ければ、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。無愛想な店主は私たちを見ても挨拶ひとつせず、新聞紙からわずかに目線を持ち上げただけである。自動的にコード表示に変わる紙面を一瞥した。

「マスター、邪魔するよ」

 柔和な笑みとともに岡野が声をかける。店主は新聞紙をめくった後、親指で店の奥を示した。

「ありがとう」

 岡野は律儀に礼を述べ、店の奥へと進んでいく。その後ろをついていきながら狭い店内をサッと見渡した。

 店主の横に置かれたレコードプレイヤーからは古めかしい曲が流れている。四席あるカウンターの一席に先程の女性が座っていた。彼女は何でもない顔で珈琲に舌鼓を打っている。出入り口付近のテーブル席には雑誌を読む中年男性、コーヒーゼリーを食べる老女。そして、店の奥には艶やかな黒髪を持つ見知らぬ若い女性。岡野が片手を挙げて挨拶しているので、彼女が待ち合わせ相手なのだろう。人間とアシストアンドロイドの見分けがつかないまま、岡野に合わせて「五十嵐です」と挨拶した。

「桂木です。はじめまして」

 女性は深々と頭を下げた。拍子に長い髪が前に落ちる。彼女はそれを白い指で摘んで耳にかけた。青白い肌は美しさよりも不健康さが感じられる。伏目も相まってひどく陰鬱な印象を受けた。

「神楽岡様、それで私は何を話せばいいのでしょう?」

 カグラオカ。どうやら岡野のことらしい。呼ばれた隣の男は涼しい顔で名前間違いを指摘する気配もなかった。

「まずは身の上を話してもらおうか。そこで疑問があれば五十嵐くんに質問してもらうということで。どうかな?」 

 慣れない君付けに思わず鳥肌が立った。岡野の含みのある目配せは言及するなの合図だろう。私のフェイスパーツは多少の動揺程度では動かない。口さえ開かなければ相手に、特に初めて顔を合わせた相手に感情を悟られることはほぼなかった。

「ええ、問題ありません。できれば録音したいのですが、大丈夫ですか? いかんせん、私のヘッドパーツは古くて。記憶の全保存ができないんです」

 彼女の顔が曇る。揺れる瞳が岡野を伺った。彼はにっこりと笑い返す。

「五十嵐くんは信用のおける男だよ。音声データを悪用することは決してない」

 小説の参考にするかもしれないが、と私はこっそり付け足した。

 桂木はよほど岡野を信頼しているのだろう。彼の言葉に神妙に頷くとポツポツと身の上話を始めた。



 店主に注文をしに行くと嘯いて、私と岡野は席を離れた。チラリと振り返ると半生を語り終えた桂木がグラスに手を伸ばしていた。私たちが到着するよりも前に置かれただろうそのグラスに、水はほとんど残っていない。

「どうだい、彼女。うってつけだろう?」

 岡野が囁く。私は小さく顎を引いた。

 桂木の両親はとある新興宗教に入信していたらしい。その宗教では人間は人間らしく生きていくべきだという思想のもと、一切の機械化を禁じていた。もちろん、彼らの子供である桂木も例外ではなかった。

 これが山奥の封鎖的な村の出来事で、機械と関わらない生活をしていたのならおそらく彼女の人生も違ったのだろう。しかし、これは機械化した人間や機械に囲まれた都市部での出来事だった。彼女は長じるにつれて老化の恐ろしさを理解した。そして、耐えられなくなった。つい先日、とうとう家族ごと教えを捨て、この機械化社会に飛び込んだのである。

 機械化社会でも様々な苦労をしたようだが、兎にも角にも重要なのは、桂木は機械化を一切していない上に天涯孤独ということだ。

「よく見つけてきたな」

 私の感心に岡野は悪戯っぽく片目を瞑った。

「君も宗教を立ち上げるといい。行き場のない人間は大体そこに行き着く」

 岡野の顔の広さと、神楽岡様呼びの理由を察し、私は眉根を寄せた。知れば知るほどよくわからない男だ。

 岡野の顔から笑いが消えた。

「それで、どうする? 例の『新作』、本当に書くのかい?」

「書く」

 即答すると今度は岡野の眉根が寄る。彼はカウンターに頬杖をつき「マスター。ドリップコーヒー、すぐ出せるかい?」と尋ねた。心得ている店主は新聞を眺めたまま「焙煎中だ」と答えた。岡野がくるりと振り返る。

「桂木さん、もう少し待てるかな?」

 突然の質問に慌てたのか、桂木は目を見開いたまま頭を上下に振った。乱れた黒髪が彼女の表情を隠してしまう。

「すまないね。本でも読んで待っていてくれ」

 桂木に笑いかけてから、岡野は彼女に背を向けた。その顔に柔和さは残っていなかった。

「いつ」

 短く問われる。

「店を出たらすぐにでも」

 私も短く答えた。岡野は緩く頭を左右に振る。

「いくらなんでも早すぎる。医者と話をつけてからにしよう」

「医者と話した後にもう一回インタビューするのか?」

 半生を聞き出した後ではいくらなんでも不審だろう。

「いいや、眠っていてもらう。何せあの身の上だ。行方不明になっても騒がれはしないはず」

「眠らせ方は」

「あいにく、薬の持ち合わせがない。君のアイディアのままで行こう。力は加減して、ね」

 私は無言で頷いた。岡野が顔を上げ、店主を見つめる。店主はおもむろに新聞紙を畳むと「焙煎が終わったぞ」と機械のスイッチを押す、フリをした。コーヒーを待ちながら、私は横目で桂木を伺う。彼女は私たちの会話など一切聴こえていないらしく、文庫本を開いて読書に勤しんでいた。

 


 コーヒー一杯分の談笑はほとんど岡野の独擅場だった。彼は言葉巧みに桂木から笑いと話しを引き出した。病歴、体調、アレルギーの有無、家族や親戚の病歴と死因……。私はもはやインタビュアーではなくただの置物だった。岡野の横でのんびりコーヒーを飲み、懸念事項が消えていくのを楽しんだ。

「わたし、ラストシーンで泣いちゃって……。もう何回も読んでるんです」

「そんなに楽しんでくれたなら貸した甲斐があったよ。そうだ、他の本も貸そうか? あの作者の本は家に何冊もあるんだ」

 一冊も本を読まない岡野が目を輝かせて桂木に提案する。その様を見ていると、改めて、物書きという岡野の夢が不思議に思える。詐欺師や教祖は暴言だとしても、役者や接客業の方がよほど適しているだろう。

 店主が立ち上がり、麻袋を抱えて裏口に出ていった。コーヒー豆用の袋は、人間が入れるほど大きい。私はマグカップに残っていたコーヒーを飲み干し、懐中時計を引っ張り出した。

「もうこんな時間か」

 我ながらひどい棒読みだった。岡野のようにはいかないらしい。それでも、狼狽えるよりはマシだろうとそのまま演技を続ける。

「すみません、用事があるので私はそろそろ……」

「ああ、すまないね。すっかり話し込んでしまった。桂木さん。ここの代金は僕らが払うよ」

「ですが……」

「楽しい時間を過ごさせてもらったからね。これぐらい払わせてくれないか?」

 桂木の返事を待たず、岡野は伝票を手に取った。桂木は少し迷いを見せたものの、最終的には言葉に甘えると決めたようで、ペコリと頭を下げる。

「ありがとうございます、助かります」

「どういたしまして。じゃあ、僕は支払いをしてくるから二人は先に出ていてくれないか?」

 店主が外から戻ってくる。岡野は「マスター」と声をかけ、レジへと向かっていった。残された私は桂木を見下ろした。

「行きましょうか」

「はい」

 彼女はこの十数分ですっかり私を信用したらしく、何の警戒もなく私の後ろをついてくる。いまだに雑誌を読み続ける男性客の横を通り、店の外に出た。

「ここじゃ邪魔になるから、こっちへ」

 辺りの人気のなさを確認しつつ、右側に移動する。店の裏口にはゴミと共に麻袋が置いてあった。手筈通りである。

「あの」

 声をかけられ、反射的に振り返る。はにかむ桂木と目が合った。

「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」

 どうやら不審に思われたわけではないらしい。ホッと息を吐き、狙いを定める。頭は壊せない。腹だ。内臓は多少壊れたところで現代医学なら再生できる。なんなら機械でも構わない。私が欲しいのは生きた人間の脳だけなのだから。

「わたし、こんな人と話したのはじめてでとてもダノッ」

 思い切り腹を殴れば、歪んだ声と息が吐き出された。私は眉を顰める。硬い。人間にしては硬すぎる。桂木の肩を掴み、服をちぎり取った。青あざひとつない、綺麗な色の腹が露出する。

 人間じゃない。

 私は驚きと焦りから急いで桂木の目を指で潰した。眼球のような柔らかさはない。ガラスと金属で作られたパーツが砕け、潰れただけだ。

 桂木の背後で喫茶店のドアが開く。顔を出したのは岡野だった。彼はすぐに失敗を察したらしい。顔色を変えると「頭を潰せ」と命じてきた。そうだ、ヘッドパーツは政府のネットワークと常時通信をしている。見られたらまずい。彼の言葉に従い、桂木の顔を両手で挟み込む。少し力めばあっという間に彼女の頭はひしゃげた。パラパラと血の代わりに金属パーツが落ちる。

「アンドロイド、だったのか」

 潰れた女の顔を見下ろし、私は呆然と呟いた。岡野も腰に手を当て項垂れる。

「やられた。アシストアンドロイドだ」

「こいつもか」

「こいつもだ」

 岡野が力なく笑う。彼は桂木のショルダーバッグを拾い上げると中から一冊の本を取り出した。ポンと私に向かって放り投げてくる。

「返すよ」

 訝しみつつ、掴み取る。表紙を見て得心した。活字アレルギーを発症する直前、私が世に送り出した最初で最後の本だった。よほど気に入っていたのか、本には付箋が貼られている。その箇所を開いてみるが、肝心の中身はコード表示になってしまい、読めなかった。涙の跡だけがよく見えた。

「本が好きなのは、人間だけだと思っていたのにな」

 岡野は苦笑すると、私の手から桂木のヘッドパーツを奪い取った。麻袋の中にそれを入れる。機械は地面とぶつかり、ガシャンと音を立てた。

「アンドロイドも本を読むのか」

「むしろ、最新の統計では人間のほとんどが本を読まないと出ているよ」

 初耳だった。私は苦虫を噛み潰す。私はずっと本を読んで生きてきた。活字のない生活など想像すらできなかったし、岡野のような例外はあれど、多くの人間も私と同じであると信じてきた。

「君、聞いてなかっただろうから伝えておくよ。彼女、本当に君の本を気に入っていたよ。あちこち読み込んで、いろんな空想をしてた」

 それはなんとも言えない皮肉に聞こえた。私は意識して口角を吊り上げる。

「どうせなら、人間のお前に気に入ってもらいたいんだがな」

「生憎、僕は本に興味がないから」

 彼は散乱した桂木のパーツを拾い上げると麻袋の中に入れた。きっと店主に渡すのだろう。彼は喫茶店を営む一方で機械パーツの違法売買も行なっている。他にも複数の犯罪に手を染めているようだが、私はよく知らない。必要に駆られない限り、これからも知ることはないだろう。

 手持ち無沙汰から、私も岡野に倣ってパーツを拾い上げた。ケーブルやネジ、金属繊維。感情が宿りそうな物質は見つからない。麻袋に入ったヘッドパーツもそうだろう。だが、彼女は涙を流したのだ。

 麻袋にパーツを入れながら、私は長年の疑問を口にする。

「お前、なんで物書きを目指してるんだ?」

 はぐらかすかと思いきや、岡野は案外すんなり答えた。

「一番それが人間らしいと思ったからだよ」





 意気込んだ結果が失敗に終わっても、五十嵐はさほど落ち込んでいないようだった。

「事故によるアンドロイドの破壊は犯罪に当たらないから、堂々としていればいい」

 そう言って監視カメラの映像データを事故映像に改変してしまった。データの改変も人間による創造的な活動として処理したので犯罪には当たらない。作家として活動していたせいか、五十嵐はそうした法の抜け道を見つけるのが非常にうまかった。

「こじつけでも筋が通ればいいんだ」

 妙なところで雑な彼はそう言い放った。

 彼と二人、帰路につきながら僕はぼんやりと道ゆく人々を眺めた。そうしているだけで二種類の歩き方があることに気づく。決まった動きを繰り返して歩く者と、そうでない者。五十嵐は人間に興味がないので、きっと後者を人間だと信じるだろう。だが、真実は逆だ。人間らしさを目指したアンドロイドは、同じ動きを繰り返さない。ランダムに動きを変える。そのランダム性は年々生物に近くなっていた。

 人間は違う。人間は人間らしさを目指さない。より合理的に、無駄を排した動きになっていく。

 観察に疲れた僕は五十嵐に目を戻した。旧型のヘッドパーツやアナログな品物に拘る彼は、ひどく時代遅れな姿をしている。

「振り出しに戻ったな」

 淡々と五十嵐が言う。動かないフェイスパーツは何を考えているのか読み取りにくい。もっとも、それはフェイスパーツに限った話で、しっかりした足取りと真っ直ぐな眼差しを見れば、五十嵐がすでに次を考えていることなどすぐわかる。僕は五十嵐の背中を叩いた。

「幸い、僕らには時間がある。のんびりやっていこう」

「私は早く活字が読みたいんだ」

 五十嵐は口をへの字に曲げた。それから少し目を伏せて考え込む。僕は五十嵐のその姿を気に入っていた。僕が想像もできないことを思いつく瞬間だからだ。

 五十嵐が顔を上げた。

「次の『新作』のターゲットは犯罪者にしないか?」

「なんだって?」

 思わず問い返した。五十嵐は既に決めてしまったらしい。一人で頷くと歩く速度を上げた。

「今回の一件で気づいたんだ。アンドロイドは犯罪を犯さない。倫理的に正しくあろうとする。そう造られてるからな。だが、人間は違う。そう造れない。なら、犯罪者にターゲットを絞れば今回のような失敗は避けられる。違うか?」

 違わないだろう。五十嵐の言う通り、犯罪は人間に残された特権だ。僕は引き攣りそうになる顔を必死に平素にとどめた。

「そう急ぐ必要はないんじゃないか? 何度も言うようだけれど、技術がなんとかしてくれる。僕も今回の一件で分かったんだが、君ほど『新作』に乗り気になれないな」

「そうだな。お前はいつだって乗り気じゃない」

 五十嵐が笑った。珍しい笑顔だ。昨日までの僕なら照れていたかもしれない。

「君、調子に乗ったね?」

 怒った声を出しても五十嵐は慌てなかった。心配してくれるんだろうと言わんばかりである。実際、その通りなのだから我ながらどうしようもない。

「どうせなら、お前の分も含めて二つ分探すか」

 五十嵐のアイパーツがキラキラと輝く。そこに、殺人に対する良心の呵責は見られない。夢と希望だけが溢れている。

 人間になりたいという夢と希望だけが溢れている。

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活字アレルギー 平良殿 @hirara_den

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