9.平和な休日




『キリヤ』


 初めての贈り物は、キリヤという名前だった。


 キリヤとなる前は1966と番号で呼ばれていて、その前はバカやクズといった罵詈雑言を浴びせられていた。はっきり言うと、名前なんてなかったのだ。


 俺は、孤児だった。


 生まれてすぐに、孤児院の前に捨てられていたという。だが孤児院は辺境の地にあったためお金に困っていて、俺はもっと困るだけの存在だった。


 変わったのは六歳の時。


 孤児院は俺を売った。


 こんな俺でも生きていれば金になるらしく、孤児院は俺を多額のお金と引き換えに売ったらしい。


 生きる価値や意味などないと思っていた。


 生きていても苦しいだけだったし、いっそのこと死んだ方が孤児院のためにもなると思ったこともあった。


 だけどーー。


 俺は、変わった。


『キリヤ、あーそぼっ』

『キリヤキリヤっ! わたしねーー』

『心配しなくても大丈夫だよ、キリヤ』


 ●●●から、俺は生きる幸せを教えてもらった。


 つまらない毎日に、モノクロに映っていた毎日に、●●●が彩りを与えてくれた。


 土に植えた小さな種が養分と水を与えられると大きく成長するように、俺に幸せという感情と、楽しいと思える毎日を●●●が与えてくれたことにより、俺は大きく変わったのだ。


 なのに、どうしてーー。


『生きてね』

『●●●?』

『わたしのこと、忘れないでね、キリヤ』


 どうしてそんなことを言うんだ、●●●。


 ●●●は笑っている。だけど俺には嫌と言うほどわかった。●●●は無理をしている。俺に心配をかけないためだろう。


 だけど、今だけは、そんなことをしてほしくなかった。本音を隠し通さず言ってほしかった。


 そんなにも俺は、頼りなかったか?


『●●●、●●●っ!』


 俺は●●●の肩を掴んだ。


『なに、遺言みたいに言うんだよ。なぁ、なぁっ!』


 ●●●は作り笑いをやめない。


 死が近いんだと、わかった。


『キリヤ』

『なんだ、●●●……っ!』


 ●●●が俺に抱きついた。俺は何をしていいかわからなかった。


『ずっと大好きだよ、キリヤ』

『●●●……?』


 ドンッ!と大きな音がなり、その言葉を最後に●●●は死んだ。


『●●●、●●●、●●●っ!!』


 泣いても大切な人は戻ってこないのだと、よく思い知らされたのはこの時だった。


 ●●●の命と代償に得たのは、そのことと俺の偽りの笑顔だった。



 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



「はぁ……はぁ……はぁ…………」


 身体が汗ばんで、服がベタついているのがわかった。


(気持ち悪い)


 あの日の出来事は、キリヤを毎日のように悪夢と化して現れ、襲い、苦しさと悲しみの沼に沈める。


 だけどそれがあの日の罪滅ぼしならば、とキリヤは思う。どんな拷問よりも、この悪夢の方がキリヤには耐え難く辛いものだった。


『キリヤ』

「…………」


 ●●●の声が、キリヤの頭の中で響く。


 ●●●の声が再生されると、自然と●●●の姿までもがキリヤの中で出来上がって行く。


(やめてくれ)


 嬉しさと、後悔の狭間でキリヤは悶える。


(●●●は死んだ。それは俺が一番よくわかっているじゃないか。なのに、どうして……)


 願わずにはいられないのだ。


 ●●●が生き返ることを、キリヤは誰よりも願っていて、叶えようとしている。


 だが、死者の蘇生は禁忌の魔法。


 使えば自分は死に、蘇らせたい者も現世うつしよ彷徨さまようと言う。


 もしそれが本当ならば、キリヤは嫌だった。


 自分が死ぬことが嫌なのではない。大切な人が人として生きることができず、自分のせいで生きることも死ぬこともできなくなることが嫌なのだ。


(……さ、起きるか)


 くだらない、と思ったキリヤはベッドから起きあがろうと両手をつく。そして力を入れようとしたのだが……左手から柔らかい何かが感覚器官から感覚神経、脊髄、脳と順番に伝わり、キリヤの感覚として認識された。


 キリヤは細く長い指を動かす。そしてその指の触感から、今、自分が何を触っているかを考察した。


(かなり細い何かがたくさんある。あとは……あっ、ふにふにしてるのもある。この弾力、この肌触りはもしかして……)


 そしてキリヤは僅か三秒で「それ」が何かを知る。


 ーーリリアだった。


(……え? …………え?)


 キリヤは何が起きているのかさっぱりわからなかった。


 そもそもキリヤとリリアは同じ家に住んでいるが、自室は分けている。また、昨夜キリヤはリリアが無事に寝たかを確認してから自分も寝た。


 となると考えられる可能性は……。


(…………俺、ついにやってしまったのか?)


 キリヤが思いつくのは、キリヤ自身がリリアを連れ出し、自分のベッドへと押し倒した挙句……という非常にヤバい可能性だけだった。


 キリヤは、キリヤがリリアを溺愛し、リリアのことになると思考や行動が物騒になることを知っている。


 もう三年もリリアと一緒に過ごしているのだ。


 いつキリヤが己の欲を曝け出してもおかしくない。


「ん、ん〜……」

「っ!」


 リリアが布団の中で動き始める。どうやらリリアも起きたようだ。


(やってしまったのか? やってしまったのか!?)

「ふ、んん、ん……あれ、キリヤ?」

「……おはよ、リリア」


 キリヤはあたかも平常心であるかのように振る舞うが、手が震えていた。リリアは寝起きのため、そこまでわからなかった。


「……リリア。どうしてここにいるの?」

(やらかしてませんように、やらかしてませんように……!)


 キリヤは心の中で必死に祈りながら、リリアがキリヤのベッドの中にいる理由を訊いた。


「えっとねぇ……キリヤを、驚かせ、ようと、思ったの。でも、わたし、布団の、中、いたら、暖か、くて、眠く、なって」

「それで寝てたの?」

「ん……」

(…………セーフっ!!)


 キリヤはガッツポーズをする。自分がリリアを襲っていなかったことに安心したからだ。もし襲っていたならば、キリヤは即刻腹を切って詫びていたことだろう。


「キリヤ?」

「ん、どうかしたか?」

「朝ごはん、食べたい」


 そう言えば、と壁にかかった時計を見る。現在は朝の七時少し前だった。


「作るか」

「うん!」


 キリヤとリリアはベッドから出ると、キッチンへ向かった。




「いっただっきまーすっ!」

「いただきます」


 こんがりと焼かれたバターロール、ぷっくりと黄身が鮮やかな目玉焼き、レタスやトマトのサラダなど、色とりどりのものがテーブルに並んでいる。


 これらは全て、キリヤの手作りだ。


「落ち着いて食べなよ、リリア」

「わかってる……ん、んん! 美味しいっ!」

「それはどうも」


 至って普通のキリヤに見えるが、実はキリヤは料理を褒められると嬉しい気持ちになるのだった。


 また、そんな褒める相手がリリアともなると、もっと嬉しくなるのだった。


「キリヤ、天才」

「そ、ありがと」

「わたしも、キリヤ、みたいに、うまく、作れる、ように、なる、かな?」

「練習すればできるようになるよ」

「ほんと?」

「本当」


 実際キリヤもこれほどに上手うまくなったのは一年半ほど前のことだ。最初から上手な人なんていない。それはキリヤが一番よく知っている。


「リリア」

「ん、ちょっと待って……」


 リリアはもぐもぐごっくんすると「なぁに?」と訊いた。


「今日は休日だし、一緒に街にでも行く?」

「えっ、いいのっ!?」


 リリアが驚くのも無理はない。


 リリアが街に行くことを、キリヤはいつもかたくなに禁止していたからだ。


 もちろんその理由はリリアが男どもの魔の手にかからないためである。完全なるキリヤの私情だ。


「でも、なんで、今?」

「セルフィアの入学祝い。……いや?」

「ううん。むしろ、嬉しい」

「なら、早く支度しておいで」

「わかった!」


 リリアは元気よくそう言うと、椅子から降りてトコトコと自室へと向かって行った。


「俺も片付けるか」


 キリヤも立ち上がり、朝食の片付けと簡単な身支度をするために動き出した。



 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



 身支度を終えたリリアはキリヤに報告した。


「キリヤ、終わった、よ!」

「ん、じゃあこっちおいで」

「? ……わかった」


 キリヤに手招きされ、リリアはキリヤの前にある椅子に座った。


(……ふふっ)


 リリアは髪が優しく引っ張られる感覚を覚える。キリヤがリリアの髪を結い始めたのだ。


 リリアの髪は雪色せっしょくのふわふわしつつもさらさらとした肌触りの髪だ。瞳もかすみがかかった色をしているので、人々は初めてリリアを見た時に、雪の天使と思う。


 そんなリリアの髪を結うのはキリヤ一人だけだ。髪を結う行為は、家族や恋人のみだということを、リリアは知らない。


「キリヤ、キリヤ」

「なに、リリア」

「今日は、どんな、ふう、に、結んで、くれる、の?」

「っ! …………出来上がるまでの秘密」

「むぅ、我慢、する」


 今のリリアの言葉、一見何気ない普通の言葉に聞こえるだろうが、実はこれ、この国では一種の告白のような意味を持つ。


 もちろんこのこともリリアは知らない。


 キリヤが教えればいいだけのことなのだが、残念なことにキリヤはシスコンだ。


 他意のないリリアの告白的発言をなるべく多く記憶に残すべく、いずれ知る時まで黙っておくつもりだ。


「はい、終わったよ」

「! 素敵! 綺麗! さすが、キリヤ」


 リリアは結い終わった髪を触る。リリアのふわふわとした髪は、緩い四つ編みとなっていた。


 キリヤは最初、小さな三つ編みを何個か作り、それを一つに束ねようかと迷ったが、それではリリアのうなじが見えてしまうことに気づいた。


 うなじを見せることは、恋人に対して「私は貴方あなた色に染まりたい」という告白または夜のねやへの誘いの意味を持つ。


 それがリリアとなるとかなり危険だ。


「ありがと、キリヤ」

「どういたしまして」


 リリアは椅子から降りてキリヤに今日の服装を見せた。目からは「どう? どう? 似合う?」などと言った視線を送る。


 キリヤは改めてリリアを見た。


 銀白色のペプラムボリュームスリーブブラウス。はなだ色のガミューダパンツ。緩く結われた四つ編み。


「うん。可愛いよ」

「ありがと」

「じゃあ行こうか」

「うんっ!」


 こうして二人は街へ向かった。



 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



「……〜〜っ!」


 リリアは視線を右へ左へと動かす。初めてのセルフィア以外の外の世界に、目が奪われたためだ。


 そんなリリアにキリヤは制する。


「リリア、はぐれちゃためだよ?」

「わかってる。すごいな、って、思った、だけ」


 キリヤはそんなリリアを見て、心配に思いつつも、若干の嬉しさを覚える。こんなにもリリアが喜んでくれたのは久しぶりだからだ。


「リリア」


 だがキリヤはこのままずっとリリアの興味を街の風景に奪われるのは嫌だった。どうせなら、他の魅力あるものも知ってほしいからだ。


「まずは、リリアの服でも買いに行こうか」

「! うんっ!」


 キリヤとリリアは様々な店を回った。


 初めに洋服屋。そこでキリヤは店にあった全ての服をリリアに着させ、何着か買った。


 次に本屋。参考書、文学書など、リリアの好きな絵本なども数冊買った。


 そして現在、二人は喫茶店にいた。


「最近人気のある喫茶店らしいよ」

「おぉー!」


 二人の訪れた喫茶店は、木の温もりを感じる小洒落こじゃれた喫茶店だった。


 木製の造りとなっており、壁には緑が美しいつたがかかっていた。リリアはそんな見た目が気に入ったようだ。


(めっちゃ喜んでる。よかった……)

「入ろうか、リリア」

「うんっ!」


 メニューを店員から預かり、キリヤはリリアに手渡す。リリアはどれにしようか迷っている様子を見せる。ころころと表情が変わるリリアを、キリヤは見ていて飽きないと感じた。


「キリヤ、わたし、決めた!」

「どれがいいの?」

「これ!」


 リリアが指したのは今の季節限定の苺のパンケーキだった。生クリームとチョコレートソースがかかっており、パンケーキも美味しそうだ。


「キリヤは、どう、するの?」

「俺はリリアから少しもらう程度でいいよ。リリアはそれでもいい?」

「うん、いいよ」


 リリアの許可を得ると、キリヤはパンケーキ、コーヒー、紅茶それぞれ一つずつを頼んだ。


 リリアに先ほど見せてもらったパンケーキの写真の右下に、小さく記してあった金額から、ここのパンケーキはかなり高いものだと知らされる。


 だがキリヤは値段など些細なものだと思っているので、さほど気にしていない。キリヤはリリア命なので、リリアが良ければそれで良いのだ。


 パンケーキがやってくると、リリアははしゃいだ。そして「いただきますっ!」と言って、小さな口を開けて食べ始めた。キリヤはそんなリリアを見ながら、コーヒーを堪能たんのうする。


「キリヤ、いる?」

「リリアが食べきれないのなら」

「……半分こ、する」

「わかった」


 キリヤはリリアに分けてもらい、パンケーキを口に含む。


(…………あっま)


 キリヤはリリアほど甘党ではない。むしろ甘いものは苦手な方だ。しかしそんなことを言ってしまえば、リリアが申し訳なさそうにするのは目に見えている。


「美味しい?」

「うん。美味しいよ」


 美味しいことに間違いはない。これは好みの問題だ。実際、材料の使い方や口の中でのバランスは、さすがプロと言ったところだった。


 チユやフィーネならばもっとよくわかるだろう。


 すると、リリアがナイフとフォークを置いた。どうしたのだろうか。もうお腹がいっぱいなのだろうか。


「それで?」

「?」


 リリアはキリヤを優しく見つめた。


「何か、話したい、こと、あった、でしょ?」

「……なんでわかった」

「バカに、しない、で、よね。わたしは、キリヤの、妹、だよ? ずっと、一緒に、いるし」

「…………そうか」


 リリアはキリヤと本当の兄妹ではないことを知らない。だとしても、長く時を共にすれば、相手の気持ちがわかるのかもしれない。


「……変わらないなぁ、リリアは」

「え?」


 キリヤはボソッと呟く。だがその呟きは小さかったこともあり、リリアの耳に届く前に溶けて消えた。


「なんでもない。で、俺の話したいことだったっけ?」

「うん」

「特になかったけど……そうだね。生きててくれて、ありがとう……かな」

「なにそれ」


 まるで死に際の遺言だ。リリアはキリヤの冗談だと思って、軽く笑いあしらう。


「でも、大切な、こと、だよね」

「あぁ。大切なことだ」


 キリヤも時折忘れてしまうことがある。生きていることが、当たり前ではないことを。そしてそれが、誰もが一番大切なことだと。


(幸せは、絶対じゃない)


 わかっていても忘れてしまう、最も尊く、美しく、はかないもの。それが幸せだ。幸せがあるから人は生きることができる。


「リリア」

「なぁに?」

「死ぬなよ」

「変なキリヤ」

「そうかもな」


 だけど、一度大切なものを失った経験と記憶のあるキリヤは、怖くて仕方ないのだ。死は生と隣り合わせの、紙一重のものだ。いつ風で覆されるかわからない。


「平和、だね」

「あぁ、平和だな」


 平和で、だけど当たり前ではないその日々を、キリヤとリリアは忘れずに噛み締めるのだった。



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