水の繭のわたしたち

京野 薫

新田結愛

 私「新田結愛にったゆあ」が自分の異性への思いの傾向に気付いたのはいつだっただろう。

 

 ……ああ、こんな持って回った言い方は止めよう。

 これは私の告白なのだから。

 

 そう。私は女性しか愛することが出来ない。

 この事は自分以外誰も知らない。

 これからも。


 自分のそんな気持ちに気付いた最初の切っ掛けは、14歳の頃。

 

 当時通っていた女子校の先輩がクライスラーの「前奏曲とアレグロ」が好きで、どういう切っ掛けか私に弾いて欲しいと言ってきた時だ。

 

 私はこの曲は正直苦手だったが、その先輩をとても尊敬しており、あの人のため! と言う思いから文字通り夜を徹して練習した。


 そして披露した後、先輩がほほを紅潮させ目をうるませながら私にお礼を言った。


「ずっと好きだったけど、改めて素晴らしい曲だったんだと気付いた! 有り難う」と。


 その時、先輩の言葉はほぼ素通りしていた。

 ただ、先輩の紅潮するほほうるんだ瞳の持つ、信じられないほどの色気に見とれていたのだ。

 

 その夜、あの頬と瞳がどうしても脳裏から離れず、悶々もんもんと眠れない夜を過ごした。

 そしてわずかな眠りの中、先輩のほのかに紅く染まったほほと宝石のような瞳に、何度もキスと頬ずりをする夢を見た。

 目が覚めた時の死にたくなるような恥ずかしさは今でも覚えている。


 時は流れ、大学生になった私は結局それまで、恋愛には縁の無い生活だった。

 

 自分で言うのもどうかと思うが、男性からは何度か声をかけられ、思い切ってお付き合いをしたことはあるが、ダメだった。

 彼らは私にとって「気の置けない友人」だった。

 誰であっても。どこまで行っても。

 

 私にとってもはや恋と言う物への期待は、ぼやけるかすみのような物で有り、必要な物では無い。そう思っていた。

 大学2年の時、演劇サークルで彼女「橋本愛理はしもとあいり」に出会うまでは。


 演劇サークルに入ってきた橋本さんは当初、そこまで光る存在では無かった。

 だが、演技技術を真摯しんしに磨きあげて行くうちに、舞台において欠かせない存在感を持つようになった。

 そして、そんな彼女にもっぱら演技指導をしていたのが私だった。


 濃密な時間を共に過ごしたせいなのだろうか。

 私はいつしか彼女の姿を頻繁ひんぱんに追うようになった。

 彼女が部室に入ると、そこだけ輪郭りんかくがくっきりするように見えた。

 彼女の声を聞くだけで、意識がクリアになるようだった。

 特にハムレットでオフィーリアを演じた彼女の姿は、思い出す度にまるで熱に浮かされたような気分になった。


 そして、中学生の時以来また夢に見た。

 私がハムレットになり、彼女と愛情を確認し合うという小娘のような夢。

 

 だが、翌朝の私はあきれるほど多幸感たかうかんに包まれていた。

 彼女の胸の温もりや唇の柔らかで、とろけそうなほどのぬめりはとても夢とは思えなかった。

 もちろん、この気持ちは相変わらず墓場まで持って行くつもりだ。


 それから2年後の6月。

 強い雨の日のカフェで私は橋本さんと顔を合わせていた。

 こんな強い雨が降っているときのカフェは、まるで水の繭に包まれているようで心地よい。

 現れた彼女は白のブラウスにスカート。肩まで伸びた髪は軽くウェーブがかかっている。


「こんな所で先輩に会えるなんてラッキーです。相談したいことがあって」


 卒業してからもちょくちょく連絡を取り合い、食事に行ったりしながら近況報告をしていたが、今回は相談があるとのことだった。

 

 だが、それより私は彼女の雨に濡れたブラウスに目が行ってしまった。

 かなり濡れているブラウスは透けて彼女の肌に着いている。

 それが否応いやおうにも肌の質感や、胸元の曲線を露わにする。

 そのため、目を逸らしながら会話するのでやりにくい。


「これ。良かったら使って。服、濡れてるから」


 ハンドタオルを差し出しながら、照れ隠しのためぶっきらぼうに言ってしまった口調など気にも留めない様子で、彼女はほがらかな笑顔で受け取り、拭き始めた。


「結構濡れちゃってましたね。良かった、お客さんいなくて」

 

 相変わらずのんきな子だ。


「そういう問題じゃ……で、相談ってなに?」


「実は進路のことで迷ってて」


「う~ん。でも、そういうのって他人に委ねない方がいいよ。後になって後悔しやすくなるから」


「はい。私もそう思います。でも……今回は……」


 そう言って彼女が言う内容は、二つの方向で悩んでいると言う物。

 一つは広告代理店。

 もう一つは……私の進んだ進路と同じ司法書士の道だった。

 彼女は極めて頭脳明晰なので、どちらも問題ないだろう。


「ずっと悩んだけど決められなくて……新田さんの意見なら人生かけてもいいかな、って」


 なんて事を……

 そんな事を言われたら……

 

 客観的に見ると、彼女の性格や適性はどう見ても広告代理店だった。

 彼女は華やかだ。

 見る物を惹き付け、その場の空気感をも変える。

 司法書士も出来なくは無いが「なぜ?」と思うほど、違和感がある。

 

 だが……私は……


 それから長い年数が経った。

 私と彼女は同じ事務所で働いている。

 そう。私は彼女に嘘をついた。


 あなたは客観的に見て法律の道が向いている。

 良かったら私がこれからも協力してあげる。

 私の職場は雰囲気もいいし、しっかり育てる土壌があるからお勧めだ。

 大丈夫、気にしないで。進めた私には責任があるから。


 笑えてくるほどの偽善者ぎぜんしゃ

 そう。

 私はどうしても彼女に、私の人生のそばに居て欲しかった。

 

 人生の大きな決断を何で私なんかに委ねたの?

 その時点であなたの責任だ。

 そんな都合の良い考えを盾にして、自己嫌悪の痛みを防いできていた。


 罪の意識と個人的感情。

 その二つによって、私は就職前から就職後の……いや、それ以降も彼女に親身になって面倒を見た。

 彼女を絶対に挫折させたくなかった。

 二つの理由で。


 今では彼女と私はかなりの時間を共に過ごしている。

 仕事終わりの食事や休みの日は度々一緒に出かける。

 時にはお互いのマンションに泊まりに行くこともある。


 その夜、一緒にお風呂に入る時、この瞬間を切り取って保管できたらと考える。

 浴室の空気、音、匂い、そして……彼女の美しい肌とその身体の曲線。

 

 時に素肌が触れあったときは、その吸い付くような感触に意識が真っ白になる。

 このまま強引に……もっと強く。もっと沢山。


 そんな気持ちに強引に蓋をする。

 圧力鍋に蓋をするように。

 あくまでさりげなく振る舞わなくては行けない、浴室の作りにばかり感心のある私、と言うキャラクターになっている。


 こんな自分の代わりに、この全てを焼き付ける何かがあれば……

 そんな事を毎回考える。

 彼女はそんな私のただれた思いに気付くことはないだろう。

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