ターフのド頭を駆け抜けろ

おもちさん

第1話

「よし! 好タイムだぞハヤカワ!」



 トレーナーが喜々としてストップウォッチを見せつける。確かに悪くない。自己ベストに迫るタイムだった。


 しかし、私は歯ぎしりしてまで俯いてしまう。ノロマな足め、こんなものかと呪いたい。



「トレーナー。もう1本行ってきます」


「待て待て。ちょっと走りすぎだよ。オーバーワークは逆効果だと、いつも口を酸っぱくして言ってるだろ」


「でも……。このままじゃ、きっと勝てないから」


「よっぽど悔しかったのか。あの『北の怪物』に負けたことが」



 考えるまでもない。すぐに頷き返した。


 ほんの少し前まで、私はこの『トレーニング・セントリア学園』のエースだった。全戦全勝、向かう所敵なし。世界を狙える器と呼ばれた事もある。誰が相手でも先頭を走り、いつだって背中を見せつけてきた。たったの一度さえも抜かせた事は無い。


 そう、彼女が現れるまでは……。



――おおっと青い彗星の異名を持つハヤカワアヤメ、まさかの2着! 2着です! 5身差もの大リードで打ち破ったのは、新一年生のウイタシオリ! こんな大番狂わせを、一体誰が予想できたでしょう!



 実況のセリフを思い出す度に、胸が締め付けられる。あのレースでは、手も足も出せずに負けてしまった。あまりにも無様な負けっぷりは、屈辱だった。


 勝負は水ものだと皆は言うが、慰めにもならない。



「北の怪物なんて異名を持つ、ウイタシオリに勝ちたいんだな? 言っておくけど、簡単な話じゃないよ」


「私だって青い彗星です」


「確かに君は速い。特にセンスというか、読みが抜群に優れている。その判断を活かすだけの反射神経や、負けん気も素晴らしい。世界を狙える器だという評判も、決して過言ではないと思う」



 トレーナーが恥ずかし気も無く褒めちぎる。私は今さら驚かない。日に数度は褒められるのだから。



「だけど、ウイタは更に上を行く。僕から見てもバケモノだ」


「何がそこまで優れてるんですか?」


「色々あるが、特に底なしの体力かな。恐らく彼女は、常に全力疾走できる。1000メートルの頭から、ゴールを切る瞬間まで」


「そんなロングスパート……。人間とは思えません」


「僕もおかしいと思うよ。だけど、前のレースを振り返ると、彼女は明らかに余力を残していた。汗1つかかないスプリンターなんて、史上初なんじゃないかな」


「それが事実なら、どうしたら良いの……。私はこの先、一生負け続けなくちゃならないの……?」



 怖い。恐ろしい。視界が闇に覆われた気分だ。


 私は勝つことで自分を証明してきた。最も疾きスプリンターであること、いかなるレースでも勝ち続けることが、私の存在意義だった。この世に存在するための免罪符とも言えた。


 そんな自分が負ける。1度どころか何度も、何度も何度も繰り返し負けてしまえば、どうなるのか。



「そんなの絶対嫌……。きっと皆いなくなる。友達も愛想を尽かして、一人ぼっちに……」


「ハヤカワ、あまり考えすぎるな。君の悪い癖だぞ」


「何か希望は、突破口は無いんですか?」


「あるとすれば……そうだな。ウイタシオリはとにかく経験が浅い。場の空気に飲まれたり、駆け引きに弱かったりする。そこを突けば、あるいは」


「作戦? 実力で勝てないから、姑息な手段を取れと……」


「落ち着けっての、まったく……。気分転換に話し込んでみたけど、逆効果だったかなぁ」


「もうジッとしてられません。もう1本行ってきます」


「ハヤカワ! あんまり無茶しないようにね!」



 それからは制止の声を無視した。ひたすら走る。心の求めるまま、急かされるままに脚を酷使し続けた。


 日暮れを迎えた頃、膝が笑うようになる。すると、見かねたトレーナーから強く諌(いさ)められてしまった。



「無茶するなと言ったじゃないか。ともかく今日はお終い。明日からのトレーニングも見直すから、そのつもりで!」



 こうまでして走り込んでも、心を覆う闇は消えなかった。以前なら、何ら不安を感じなかった。ただひたむきに、自身と向き合えた。


 しかし今はやたらと胸が痛む。その理由が分からず、不安に拍車がかかる。


 ともかく引き上げだった。しぶしぶコースから出ようとした矢先の事。視界の隅で動く人影を見た。祖は同期のスプリンター達で、私が帰るのを待っていたらしい。


 そこまで露骨に避けるのか。私と練習する事が、負け犬と肩を並べるのが、そんなにも嫌なのか。そう思うと、眉間が重たく感じられる。



「アナタたちも、私をバカにするのね。無様な敗北者だって……」



 足早になってロッカールームへ。長居する気はない。手早くジャージを脱ぎ捨て、制服に着替えようとした。


 だがそんな所に、バカ明るい声が響き渡った。



「探しましたよ、ハヤカワさん!」



 駆け寄っては、眼前で微笑む少女。向かい合う私は、愛想笑いすら出来なかった。



「ウイタシオリ……。何か用?」


「さっきですね、私のトレーナーから美味しいオヤツを買って貰いました! ハヤカワさんもどうかなって」


「要らない。物を食べる気分じゃないから」


「アンデス豚のピートロ串なんですけど」



 その時、身体がビクリと反応した。あの風味豊かで、舌に絡みつくような甘い肉汁。それにたっぷり岩塩をまぶして、ガツンとした塩味を堪能できたら。想像するだけで唾液が溢れ出すようだった。


 私は意を決してウイタシオリを見た。いや、睨みつけた。



「認識違いがあるようだけど、これだけは言っておくわ。アナタは私の敵なの。一応はライバルのつもり」


「ふぇ? ライバル……?」


「だから、レースが終わるまでは馴れ馴れしくしないで」


「ええ……? じゃあ、このピートロ串は?」


「いただくわ」


「寮のお風呂も別々ですか?」


「それは一緒で良い」


「寝る時のお布団は分けますか?」


「冷え込む季節だから、それも一緒で良いわ」


「なぁんだ、いつも通りじゃないですか! ビックリしたぁ〜〜」


「それよりも串はどこ? 早く食べたいんだけど」


「冷めたら台無しなので、懐に入れて温めてました! どうぞどうぞ」



 ウイタシオリは、ブラウスのボタンを外すなり、串を手に取った。胸の谷間から、長々とした肉串がズルリと飛び出す。


 やたら生ぬるい肉だと思った。でも絶妙な温度、そして濃厚すぎる風味に強烈な塩気。美味すぎて気が狂いそうになる。



「どうですかハヤカワさん。ニヤけるほど美味しいですか?」


「途方もない絶品ね。でも勘違いしないで。勝負の日は絶対に手を抜かないから」


「もちろんですよ。それより、今日のお風呂はユズ湯だそうです。楽しみですね!」


「そうね、楽しみね……」



 その余裕が腹立たしい。ロッカーを閉める時、苛立ちを隠しきれたか、自信がない。


 次のレースは必ず勝ってみせる。先頭を走り抜いて、誰よりも早くゴールを突っ切るんだ。


 その決意が、体の芯まで燃やすようだった。腹の奥が熱い。お風呂で温まる必要も無いと思えるほどに。


 それでも少しだけ気になる事がある。果たして、お風呂のユズで遊んだとしたら、誰かに怒られてしまうのか――と。


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